【お】大友氏(おおともし) ;大分の旅⑪ | 公辞苑(ハムじえん)【第二版】

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吾輩の辞書には「不毛」という文字しかない!

特にテーマもなく、徒然なるままに書き綴ってます。

大友氏・・・

中世九州の名族の一つで、鎌倉初期に相模国大友郷より興きました。

初代・能直は中原親能の猶子で、源頼朝の有力な御家人。

中原親能より豊後国大野荘地頭職を譲られ、豊後に勢力を持ちました。

九州へ下向したのは3代・頼泰のときで、元寇の際に蒙古を博多に迎撃したときの指揮者の一人として働いています。

その後、南北朝時代~戦国時代と勢力を拡大。

21代・義鎮(宗麟)の時に6ヶ国を有し、最盛期を迎えるものの、島津氏との戦いに大敗を喫し、豊臣秀吉の九州平定後は所領は豊後一国のみになっています。

22代・義統が文禄の役のときに卑怯なふるまいがあったとして、秀吉の怒りに触れ、除封。

子孫は徳川家に仕えて、高家として存続。

(大分駅前の大友宗麟(義鎮)の像)

 

 

7月半ばの三連休で大分に行ってきました!

三日目は大分市内の歴史的なスポットを回ってみることにしまして・・・

国分寺跡、上野丘と回りまして・・・その続きです。

 

 

前回は上野丘の大臣塚古墳で話が終わりましたが・・・

 

そこから上野丘を下り、JR大久本線沿いに北へ進みますと、蔣ヶ池(まこもがいけ)という池があります。

この池の岸に、大友氏10代・親世の墓があります。

大友親世は南北朝時代の武将で、九州探題・今川貞世(了俊)に協力し、室町幕府の九州における権力確立に貢献しています。

お墓自体は明治時代の再建らしいです。

 

大友氏とは関係ありませんが・・・

蔣ヶ池は、大臣塚古墳の名の由来となった百合若大臣と関係のある池です。

百合若は強弓を扱う伝説・説話上の武者です。

百合若の外征中に、お妃の春日姫が家臣に騙されて殺されそうになるのですが、万寿姫と言う娘がお妃を助けるために身代わりとなって身を投げたのが蔣ヶ池になるそうです。

現在の蔣ヶ池は小さいのですが、身を投げれるくらいですから、過去は大きな池だったのではないでしょうか。

 

 

蔣ヶ池から更に北へ10分程度歩いて行きますと・・・

南蛮BVNGO交流館との看板が出てきました。

「BVNGO」は「豊後」のことで、ヨーロッパ最初の日本地図では九州全体のことを指してたようです。

看板の奥は、大友氏遺跡という国指定の史跡となってます。

前回紹介した上原館とは異なる大友氏館がここにあったようで、一辺200mの方形の敷地だったようです。

14世紀末の10代・親世の頃の遺物が見つかっており、その頃にはこの地に館が当たようです。

平成8年(1996年)の試掘調査により巨石がが発見され・・・

平成10年から始まった本格的な発掘調査により庭園跡が発見されたそうです。

庭園は上の画像の通り、一部再現されています。

その後の調査で中心部に寝殿造風の主殿があったと想定されています。

現在も調査は継続中で、これから整備されていくようです。

また、敷地の一角に南蛮BVNGO交流館があり、大友氏遺跡や大友宗麟(21代・義鎮)の紹介がされています。

 

 

その後、大友氏遺跡の北側にある大智寺(臨済宗)へ。

大友氏11代・親著が創建し、万寿寺(のちほど紹介します)に在住していた獨芳清曇師を開山とし招いたそうです。

大友氏17代・義右が修理を加え、京都南禅寺の才伯禅師を招じて住持としたそうです。
 

 

同じく大友氏遺跡の北側で、大智寺の東に蔣山万寿寺があります。

もともとは大友氏遺跡の東南、蔣ヶ池の東の位置に大きな寺域を有していたようです。

蔣ヶ池は、百合若大臣のお妃を助けるため、万寿姫が身代わりとなって身を投げ入れた池ですが・・・

その万寿姫を弔うために建てられたのが万寿寺で、山号の蔣山も蔣ヶ池にちなんだもののようです。

ただそれは伝説のようで、実際には大友氏5代・貞親によって創建され、博多承天寺の直翁智侃禅師を開山に迎えたそうです。

戦国期の島津氏との戦いにより焼失されましたが、江戸初期に府内藩の初代藩主・竹中重利により現在の地に再建されたそうです。

 

 

大友氏に関与した遺跡・寺を回って、大分の旅を終了といたしました。