7月半ばの三連休で大分に行ってきました!
三日目は大分市内の歴史的なスポットを回ってみることにしました。
まずは、JR大久本線で豊後国分駅近くの豊後国分寺跡を見た後は・・・
大久本線で大分駅方面に戻り、古国府駅(ふるごうえき)で降りて、「上野」と呼ばれるエリアを回ってみました。
(ちなみに、古国府に国府があったと推定されてるそうです)
大分駅の南側・・・大分駅と古国府駅の間を大久本線で囲まれたエリアが大分市の上野と呼ばれるエリアのようです。
(地図参照)
上野・・・
東京の「上野」が有名ですが・・・
「上野」という地名は、全国いろいろなところにあります。
周辺のエリアから比べて高い場所にあるため、その名が名づけられてるパターンが多いようです。
大分市の「上野」も「上野丘」と呼ばれる丘陵を中心としたエリアになるようです。
さて、そんな上野エリア・・・
まずは、古国府駅から東へ7~8分程度歩いたところの岩屋寺石仏へ。
平安後期の制作とみられる17軀の磨崖仏です。
かつて国の指定史跡だったそうですが、風化が激しく、現在は県指定史跡になっています。
岩屋寺石仏から北東方向へ5分程度歩いて行くと、今度は元町石仏という摩崖仏があります。
こちらは覆堂の中に収められており、薬師如来坐像を中心に、右手に毘沙門天と脇侍像、左手に不動明王と二童子が配置されているそうです。
薬師如来は分かりましたが、他には気がつきませんでした。
また、覆堂の外にも風化してますが、像がいくつかありました。
こちらは作風により、11世紀後半~末作と推定されているようです。
こちらは国の指定史跡となっているそうです。
岩屋寺石仏の北側、元町石仏の西側に総社山圓寿寺(天台宗)というお寺にも寄ってみました。
寺伝では、百済の日羅の開基で、岩屋寺石仏を境内に持つ岩屋寺であったそうです。
大友氏5代の貞親が延暦寺から道勇を招き、中興の祖とし、その後に大友氏6代の貞宗が現在の地に移し、総社山圓寿寺と改めたそうです。
その山号は、同所に豊後国の総社があったから名づけられたそうです。
圓寿寺から北方向へ5分程度歩いたところ、ちょっとした高台があります。
この上に、西山城大友館跡との碑があります。
この丘の北側一帯は大友屋形跡(上原館)だったそうで、碑のあるここは土塁の跡のようです。
大友宗麟(21代・義鎮)が大友氏当主につくきっかけとなった政変・二回崩れの変はここで起きたと伝えられています。
この上野丘の館の他に、丘の北側の平地にも大友氏の大規模な館が見つかっています。
上野丘の上原館は当主の生活の場で、平地の館では政務が行われていたと考えられているようです。
上原館から西へ7~8分へ進んだところ、清龍山金剛宝戒寺(真言宗)というお寺があります。
聖武天皇によって創建され、行基が開基になったと伝えられているそうです。
もともとは別な場所にあったそうですが、度々の水害で荒廃し、大友氏6代の貞宗によってこの地に移転されたそうです。
敷地の一番手前には大日堂があり、重文の木造大日如来坐像が安置されてるそうです。
金剛宝戒寺から南西に向かって数分歩くと、弥栄神社という神社があります。
門が派手目で綺麗です。
疫病の災厄をのがれるために岩屋寺境内に創建されたのが始まりのようです。
大友氏が京都祇園社を分祀したそうです。
大友氏の改易後、府内藩主の竹中重義が現在の地に移転させました。
ちなみに、金剛宝戒寺からこの神社へ向かう際に、地元の高校のテニスコート脇の小道を通るのですが・・・
テニス部の生徒さんたちが元気な大きな声で「こんにちわ」って声をかけてくるんですよね。
おそらく通る人には誰にでも挨拶をするようで・・・
・・・ちょっとビックリでした。
弥栄神社から金剛宝戒寺に戻り、そこから東へ十数分歩いたところに古墳があるのとのことで、そちらへ向かってみました。
途中で、大友屋形跡の前も通ります。
上野丘の東端にあり、大臣塚古墳と呼ばれる古墳で、前方後円墳になるようです。
地元のに伝わる百合若大臣の伝説にちなんでつけられた名前のようです。
この百合若大臣の伝説については、また別な機会に紹介したいと思います。
とりあえず、上野丘の散策はここまでですが・・・
大分の旅の三日目、まだまだ時間がありましたので、大分市散策はもう少し継続です。
(つづく)