被爆都市としての長崎は、ナガサキと片仮名で表記されることが多いですね。
旅行の二日目の後半は、原爆関連のスポットを回ってみました・・・その後編です。
平和公園から東にある浦上天主堂へ行きました。
江戸時代のキリシタン弾圧に耐え、信仰の自由を得たこの地区の信者が、明治28年から30年かけて大正14年に完成させた教会です。

しかし、原爆によって全壊し、現在の建物は昭和34年に建てられたものです。
入り口の手前の脇に聖人の像が並んでますが、原爆で焼け落ちたものだそうです。
教会内には被爆マリア像といって、焼け跡から発券された頭部だけが残ったマリア像も展示されてます。
また、原爆によって吹き飛ばされた天主堂の鐘楼の一部が敷地内の北部にあります。

被爆時のままに保存されている唯一の旧天主堂本体の遺構になるそうです。
その後、原爆落下中心地跡の南東にある長崎原爆資料館へ。
原爆による被害を示す写真や遺物を中心に展示されてまして、現在の世界の核の状況なども分かりやすく視覚的に展示されてました。
展示物は撮影OKなものもありましたので、そちらを見ていただきたいと思います。
長崎が被爆した時間で止まった柱時計。
爆心地より800m程度のところの民家のものだそうです。

時計は11:02を示しており、1945年8月9日のその瞬間に長崎が破壊されたことを物語っております。
こちらは爆心地から800m程の旧制中学校の給水タンクです。

こちらはレプリカですが・・・

先ほどの浦上天主堂の側壁がこのような形で残っていたそうです。
植物の影が板壁です。

実際に植物ではなく、人の影が残った板壁もありました。
高熱のために溶けてくっついたガラス瓶です。

他にも、人の頭蓋骨が付着してしまった鉄かぶと、手の骨とガラスがくっついてしまったもの、放射線により通常の40倍近くに肥大してしまった脾臓の標本など・・・
あまりにも生々しい その惨状は目を覆いたくなり・・・
写真魔の自分も、さすがにそれを撮影する気にはなれませんでした。
ただ惨状を知るという意味では、実際に行って実物を見た方が良いかと思います。
そして、これらの惨状を招いた長崎に投下された原爆・・・通称ファットマンのレプリカがこちらです。

アメリカの世論では、原爆が終戦を早めたとの考えがいまだに根付いているようですが・・・
原爆投下は、一般市民を含めた大虐殺以外の何ものでもないと思います。
この日に最後に行ったのが山王神社です。
爆心地から東南へ800m程度の高台にある神社で、原爆により4つあった鳥居のうち三の鳥居と読んの鳥居が倒壊。
二の鳥居は爆風により、柱の半分が吹き飛び、半分が残るという状態になっています。

この片方だけの状態が、原爆の脅威を訴えていますよね。
ちなみに、一の鳥居は無傷で残ってましたが、戦後の交通事故で倒壊してしまったそうです。
片方だけになった二の鳥居の近くの参道に、吹っ飛んだ方の半分が展示されてました。

神社境内に大楠があります。

爆風と熱線により枯れたと思われたのですが、再び芽吹き、樹勢を取り戻してます。
樹の中には、吹っ飛んできた石などもめり込んでたそうです。
ちなみに、神社自体は島原の乱の鎮圧のため長崎に来た松平伊豆守が建てたそうです。

しかし、原爆の残虐さは酷いですね。
こういうもの(核兵器)を作り続けてる人類というのは、地球にとっての癌細胞なのかもしれません。