京都は紅葉の時期が一番いいと雑誌やメディアではとりあげられているが、
好きな季節は?と聞かれたら、良二は真っ先に「春」と答える。
確かに京都は紅葉の時期に一番多く観光客が訪れるし、
その観光客を惹きつけるだけの趣や風情を備えていると思う。
それでも良二は、「春」という季節が
気分を前向きにしてくれる感じがするし、素敵な出会いをもたらしてくれると信じている。
そして何より都を華やかに彩る桜を見ることができる季節だから、やっぱり「春」が好きなのだ。
さきほど仕事が終わった今も、良二は帰路にはつかず
駅とは反対方向の円山公園を一人ぶらぶらと歩いている。
もちろん見ごろを迎えたしだれ桜を観るためだ。
今年は例年とは比べられないほど桜の開花が早まり、
3月の終わり頃になると京都でも既に満開となっていた。
この円山公園のしだれ桜もほかのソメイヨシノと同じく
ちょうど見ごろを迎えていた。
春とはいえ18時を回るとさすがに周りはうす暗くなってはくるが、
円山公園では毎年桜の時期になると、しだれ桜がライトアップがされるので
目当ての夜桜を観るためにこの時間でも公園内は観光客は途切れることがない。
ほとんどの観光客が大きなしだれ桜の前で、記念撮影を行っていたり
カメラを片手に桜を熱心にいろいろなアングルから眺めている。
良二もこれから夜桜が見ごろになるかと期待に胸を膨らませていたが、
あいにく小雨がぱらついてきた。
と思ったとたん、その小雨も急に大粒の雨に変わり、遠くのほうで一筋の稲妻が見えた。
「あ~、降って来た。」
「せっかく夜桜見に来たのにー!」
「天気予報じゃ雨降るなんていってかなったのに。」
「マジかよー、サイテー!」
さきほどまで見事な桜を前に賑わっていた園内は、感嘆の声から嘆声に変わり
突然の雷雨のせいで右往左往する人や、近くの東屋に避難する人、
しぶしぶ帰り支度をする人達でざわついてきた。
そんな中、良二は鞄から取り出した傘をさして桜を観ながら
昔、雨が降った後に経験した出来事をふと思い出した。
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良二が京都に赴任して2年目だった頃
ちょうど今日のように満開の桜が咲き誇り、
仕事終わりに立ち寄った円山公園で青天の霹靂によって雨に見舞われたことがあった。
季節外れの雷雨で桜鑑賞どころではなくなり
傘を持っていなかった良二は、急いで円山公園から
京都駅まで向かった。
4月初旬の京都は日が射さないとまだ肌寒く
しかも雨の日ともなれば気温はぐっと下がることもあり、
10℃近くにしかならない日も少なくない。
良二はびしょ濡れになりながらも、なんとか京都駅に到着し
やっと一息つけると安心しかけたが、
駅の大きなターミナルに入ったときに初めて、駅の異変に気がついた。
駅内は暗く、照明がすべて消えていたのだ。
ちょうど帰宅時間帯に入った駅構内は観光客だけではなく、
サラリーマンや学生といった利用客もいつもと違った駅の雰囲気に違和感を覚え
何事かとざわついていた。
良二もこのただならぬ事態を感じ、周りを見回してみると
少し離れた場所で駅員と思わしき人が
拡声器を持ち、大きな声で停電の原因を説明していた。
どうやらこの雷雨の影響で停電となったらしく、
JRをはじめ、私鉄を含め前線すべて止まってしまい、今の時点では復旧の目処がまったくたっていないとのこと。
『弱ったなぁ』と良二は電車でのルートを早々に諦めて、タクシーで家まで帰ろうと試みたが
皆考えることは同じらしく、タクシー乗り場ではすでに見たこともないくらいの長蛇の列が続いていた。
それでも電車の運転再開は期待が持てなかったため、良二は仕方なく列の最後尾に並ぶことにした。
京都は観光地のため、タクシーやバス路線の交通機関は整っており
これだけの人数が並んでいても、せいぜい1時間程度待てば無事タクシーに乗れるのかと良二は目算していたが、
どうやらこの雷雨が狂わせているのは電車の動きだけではないらしく
駅まで迎えに集まった多くの車のせいで駅付近の道路は既に渋滞が始まっていた。
この渋滞のせいでせっかく乗り入れたタクシーも、なかなか思うように進んでいかないようだ。
この時点で良二は、京都駅から自宅のある城陽市まで歩いて帰ることも考えたが
10km以上もある道のりをこの雨の中歩いて帰るのはあまりにも無謀に思えた。
もともと京都には縁もゆかりもなく、仕事という名目だけで住み始めた京都には
駅まで良二を迎えにくれる連れや友達もおらず、
とにかくタクシーを待つことしか良二のとれる選択肢は残っていなかった。
夜になると気温はさらに下がり、雨に濡れていたせいもあり、
風が吹くと突き刺すほどの寒さを感じた。
それでも良二は身震いしながら、タクシーに乗る順番を
今か今かと待ち続けた。
良二はいらだちを感じながら、もう時計を見ることも面倒だと感じて
タクシーに乗り込む人たちをひたすら目で追い続けていた。
いったい何時間待ち続けただろうか。
前列に並んでいたおじいさんの前にやっとタクシーが停車し、
ようやく自分の番が回ってくると安堵したときだ。
そのおじいさんはそのタクシーに乗り込もうとはせず
後ろを振り返り、「お先にどうぞ」と自分の番を譲りはじめたのだ。
おじいさんは見るからに70歳はゆうに超えていて
腰か足でも悪いのか、杖をついていた。
「いや・・」と良二は反射的に断わりの言葉を発しかけたとき、
そのおじいさんは良二ではなく後列の女性に声をかけていることに気がついた。
振り返ると良二の後ろに並んでいた女性のお腹は膨らんでおり、
パッと見ただけでその女性が妊婦だとわかった。
声をかけられたと気付いた妊婦は「あ、私は平気です。」と丁重に断っていたが
おじいさんは「お腹の子に何かあっては大変だ」と
自分の前に停まったタクシーに乗るよう一向に勧め続けた。
何度かそのやりとりを繰り返した後、おじいさんの御厚意にさすがに妊婦の方が折れて
深々と頭を下げてから、お礼を何度も告げてタクシーに乗り込んだ。
それを見た良二は、この寒さの中、足腰の悪い自分のことだけを考えるのではなく
自分の2つ後ろに並んだ妊婦の安否を気遣うことができるそのおじいさんの真摯な態度に、衝撃的な感銘を受けた。
そして同時に、そんな中良二は自分のことしか考えることができず
周りがまったく見えていなかった自分に対して自己嫌悪を感じた。
そんな自分を恥じ、おじいさんのようなに紳士に自分もなりたいと良二が感じていたとき、
おじいさんの前に次のタクシーが停まった。
するとおじいさんはまたも後ろを振り返り、
今度は良二に向って「さあ、あなたの番です」と声をかけた。
『ん?、俺の番?』
何のことかと良二は考えてみると、
おじいさんが初めにきたタクシーに乗り込んでいれば
順番的に今来たタクシーに乗ることができたのは良二のはずだった。
要するににおじいさんは自分の番を妊婦に譲ったことで、
妊婦の並んでいた順番でタクシーに乗るつもりだったのだ。
それに気付いた良二は、「どうぞどうぞ」と慌てておじいさんを
タクシーに乗るように勧めた。
「それでは遠慮なく。ありがとう。」と良二の勧めに対して素直に応じ
そのおじいさんはタクシーに乗り、そのタクシーを良二は見送った。
なんと謙虚で、心の美しい人だったのだろう。
そのときのおじいさんとの出会いは本当に一瞬だったのかもしれないが、
良二が人に対する感じ方や見方が変わった瞬間だった。
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あれ以来折り畳み傘を持つようになった良二は
降りだした雨の中、しだれ桜の前で待ち人を待ち続けた。
この雨で大好きなこの花も散り始めてしまうのかなと
ぼーっと、しだれ桜を眺めていると、間もなく良二に少しずつ近づいてくる人の影が見えた。
その人は右手に傘を持ち、左手には杖をついていた。
待ち合わせの人とは、駅で偶然すれ違い
声をかけて連絡をとるようになった、あの心の美しい人だ。