京都は紅葉の時期が一番いいと雑誌やメディアではとりあげられているが、
好きな季節は?と聞かれたら、良二は真っ先に「春」と答える。


確かに京都は紅葉の時期に一番多く観光客が訪れるし、
その観光客を惹きつけるだけの趣や風情を備えていると思う。


それでも良二は、「春」という季節が
気分を前向きにしてくれる感じがするし、素敵な出会いをもたらしてくれると信じている。
そして何より都を華やかに彩る桜を見ることができる季節だから、やっぱり「春」が好きなのだ。


さきほど仕事が終わった今も、良二は帰路にはつかず
駅とは反対方向の円山公園を一人ぶらぶらと歩いている。


もちろん見ごろを迎えたしだれ桜を観るためだ。


今年は例年とは比べられないほど桜の開花が早まり、
3月の終わり頃になると京都でも既に満開となっていた。


この円山公園のしだれ桜もほかのソメイヨシノと同じく
ちょうど見ごろを迎えていた。


春とはいえ18時を回るとさすがに周りはうす暗くなってはくるが、
円山公園では毎年桜の時期になると、しだれ桜がライトアップがされるので
目当ての夜桜を観るためにこの時間でも公園内は観光客は途切れることがない。


ほとんどの観光客が大きなしだれ桜の前で、記念撮影を行っていたり
カメラを片手に桜を熱心にいろいろなアングルから眺めている。


良二もこれから夜桜が見ごろになるかと期待に胸を膨らませていたが、
あいにく小雨がぱらついてきた。
と思ったとたん、その小雨も急に大粒の雨に変わり、遠くのほうで一筋の稲妻が見えた。


「あ~、降って来た。」
「せっかく夜桜見に来たのにー!」
「天気予報じゃ雨降るなんていってかなったのに。」
「マジかよー、サイテー!」

さきほどまで見事な桜を前に賑わっていた園内は、感嘆の声から嘆声に変わり
突然の雷雨のせいで右往左往する人や、近くの東屋に避難する人、
しぶしぶ帰り支度をする人達でざわついてきた。


そんな中、良二は鞄から取り出した傘をさして桜を観ながら
昔、雨が降った後に経験した出来事をふと思い出した。


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良二が京都に赴任して2年目だった頃
ちょうど今日のように満開の桜が咲き誇り、
仕事終わりに立ち寄った円山公園で青天の霹靂によって雨に見舞われたことがあった。


季節外れの雷雨で桜鑑賞どころではなくなり
傘を持っていなかった良二は、急いで円山公園から
京都駅まで向かった。


4月初旬の京都は日が射さないとまだ肌寒く
しかも雨の日ともなれば気温はぐっと下がることもあり、
10℃近くにしかならない日も少なくない。


良二はびしょ濡れになりながらも、なんとか京都駅に到着し
やっと一息つけると安心しかけたが、
駅の大きなターミナルに入ったときに初めて、駅の異変に気がついた。


駅内は暗く、照明がすべて消えていたのだ。


ちょうど帰宅時間帯に入った駅構内は観光客だけではなく、
サラリーマンや学生といった利用客もいつもと違った駅の雰囲気に違和感を覚え
何事かとざわついていた。


良二もこのただならぬ事態を感じ、周りを見回してみると
少し離れた場所で駅員と思わしき人が
拡声器を持ち、大きな声で停電の原因を説明していた。


どうやらこの雷雨の影響で停電となったらしく、
JRをはじめ、私鉄を含め前線すべて止まってしまい、今の時点では復旧の目処がまったくたっていないとのこと。


『弱ったなぁ』と良二は電車でのルートを早々に諦めて、タクシーで家まで帰ろうと試みたが
皆考えることは同じらしく、タクシー乗り場ではすでに見たこともないくらいの長蛇の列が続いていた。


それでも電車の運転再開は期待が持てなかったため、良二は仕方なく列の最後尾に並ぶことにした。


京都は観光地のため、タクシーやバス路線の交通機関は整っており
これだけの人数が並んでいても、せいぜい1時間程度待てば無事タクシーに乗れるのかと良二は目算していたが、
どうやらこの雷雨が狂わせているのは電車の動きだけではないらしく
駅まで迎えに集まった多くの車のせいで駅付近の道路は既に渋滞が始まっていた。


この渋滞のせいでせっかく乗り入れたタクシーも、なかなか思うように進んでいかないようだ。

この時点で良二は、京都駅から自宅のある城陽市まで歩いて帰ることも考えたが
10km以上もある道のりをこの雨の中歩いて帰るのはあまりにも無謀に思えた。


もともと京都には縁もゆかりもなく、仕事という名目だけで住み始めた京都には
駅まで良二を迎えにくれる連れや友達もおらず、
とにかくタクシーを待つことしか良二のとれる選択肢は残っていなかった。


夜になると気温はさらに下がり、雨に濡れていたせいもあり、
風が吹くと突き刺すほどの寒さを感じた。


それでも良二は身震いしながら、タクシーに乗る順番を
今か今かと待ち続けた。


良二はいらだちを感じながら、もう時計を見ることも面倒だと感じて
タクシーに乗り込む人たちをひたすら目で追い続けていた。


いったい何時間待ち続けただろうか。


前列に並んでいたおじいさんの前にやっとタクシーが停車し、
ようやく自分の番が回ってくると安堵したときだ。


そのおじいさんはそのタクシーに乗り込もうとはせず
後ろを振り返り、「お先にどうぞ」と自分の番を譲りはじめたのだ。


おじいさんは見るからに70歳はゆうに超えていて
腰か足でも悪いのか、杖をついていた。


「いや・・」と良二は反射的に断わりの言葉を発しかけたとき、
そのおじいさんは良二ではなく後列の女性に声をかけていることに気がついた。


振り返ると良二の後ろに並んでいた女性のお腹は膨らんでおり、
パッと見ただけでその女性が妊婦だとわかった。


声をかけられたと気付いた妊婦は「あ、私は平気です。」と丁重に断っていたが
おじいさんは「お腹の子に何かあっては大変だ」と
自分の前に停まったタクシーに乗るよう一向に勧め続けた。


何度かそのやりとりを繰り返した後、おじいさんの御厚意にさすがに妊婦の方が折れて
深々と頭を下げてから、お礼を何度も告げてタクシーに乗り込んだ。


それを見た良二は、この寒さの中、足腰の悪い自分のことだけを考えるのではなく
自分の2つ後ろに並んだ妊婦の安否を気遣うことができるそのおじいさんの真摯な態度に、衝撃的な感銘を受けた。

そして同時に、そんな中良二は自分のことしか考えることができず
周りがまったく見えていなかった自分に対して自己嫌悪を感じた。


そんな自分を恥じ、おじいさんのようなに紳士に自分もなりたいと良二が感じていたとき、
おじいさんの前に次のタクシーが停まった。

するとおじいさんはまたも後ろを振り返り、
今度は良二に向って「さあ、あなたの番です」と声をかけた。


『ん?、俺の番?』
何のことかと良二は考えてみると、
おじいさんが初めにきたタクシーに乗り込んでいれば
順番的に今来たタクシーに乗ることができたのは良二のはずだった。


要するににおじいさんは自分の番を妊婦に譲ったことで、
妊婦の並んでいた順番でタクシーに乗るつもりだったのだ。


それに気付いた良二は、「どうぞどうぞ」と慌てておじいさんを
タクシーに乗るように勧めた。


「それでは遠慮なく。ありがとう。」と良二の勧めに対して素直に応じ
そのおじいさんはタクシーに乗り、そのタクシーを良二は見送った。


なんと謙虚で、心の美しい人だったのだろう。


そのときのおじいさんとの出会いは本当に一瞬だったのかもしれないが、
良二が人に対する感じ方や見方が変わった瞬間だった。


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あれ以来折り畳み傘を持つようになった良二は
降りだした雨の中、しだれ桜の前で待ち人を待ち続けた。


この雨で大好きなこの花も散り始めてしまうのかなと
ぼーっと、しだれ桜を眺めていると、間もなく良二に少しずつ近づいてくる人の影が見えた。


その人は右手に傘を持ち、左手には杖をついていた。


待ち合わせの人とは、駅で偶然すれ違い

声をかけて連絡をとるようになった、あの心の美しい人だ。

「奥田先生!奥田先生!」「鈴原さん!鈴原さん!」
泣きながら意味不明なことをわめいている鈴原さんを、和歌子さんと羽交い絞めにして空いている手術室に
運びながら振り返ると、奥田先生が床に倒れているのが見えた。安藤さんと森先生が対処しているようだ。

いったい何があったというのだろう。

なかなか、大人しくなってくれない鈴原さんを手術台に寝かしつける。
「誰もわかってくれないの!どこにも居場所がないの!」
手術台の上で手を振り回しながら、わめきつづけている。

本当に、いったい何があったというのだろう。奥田先生と。

鈴原さんは、もう何度も”お直し”しているし、何も今さら取り乱すこともないだろう。
彼女は『西大井セレブ会』の一員だ。私たち、スタッフの間ではそう呼んでいる。
ご近所づきあいの延長で、美容整形を繰り返す奥様グループ。

だいたい美しいというのはそんなにいいことでもないのに。

少し落ち着いてきた鈴原さんを、和歌子さんにまかせてロビーに出ると
グループのリーダー(マダムと呼んでいる)が仲間たちとヒソヒソと何かを話していた。
「メンテナンスもお金がかかるから」というささやきが聞こえた。

スタッフルームに入ると、安藤さんが戻っていた。
「奥田先生は?」
「脳震盪みたい。心配はなさそうだけど念のため休むって、お帰りになりましたよ。
今日の診察は、すべて森先生にお願いすることになりました。」
「意識は?戻ったの」
「うん。もう、お話もされていたし大丈夫そうよ。」
「良かった。今日は診察だけで手術はないものね。」
自分と安藤さんのハーブティーを入れ、腰をおろしながら何があったのかたずねると
「理由はまだわからないけど…聞いたところで私には、分からないかもしれない」
と顔をくもらせた。

安藤さんは看護師として奥田クリニックに勤務している、1年前の結婚を機に
夜勤のない仕事を探してここに来た。
「こんなことを言っては身も蓋もないけれど、ここに来る人達のことが私には理解できないの。
今日は、本当に嫌気がさしたわ。こんなのが看護師の仕事なのかしらって思うわ。」

通常の病院の場合は怪我や病気方に対して看護を行うが、美容外科は基本的には健康な方に対して、
綺麗になりたい美しくなりたいという理由で治療を施す。

看護師もある意味では営業的な側面があり、マダム達のようなお客様は、より良いサービスを求める。
普段から、愚痴を聞くのも仕事のうちのようなものだ。
でも、今日の鈴原さんのような状態は正直、手に負えないと思う。
いったい鈴原さんは、どうしてあんなに取り乱していたのだろう。もしかして…
気にかかかっていたことを、思い切って口に出してみる。

「鈴原さんて、奥田先生と何かあったんでしょうか?その…不倫とか…」
「うーん、それはないと思う。鈴原さんを診察するの今日が初めてだし、プライベートでの知り合いって感じでもなかったわよ。」
そういうと、安藤さんは立ち上がり
「さてと、その鈴原さんの様子を見てくるわね。お茶ごちそうさま。咲子ちゃんは、ゆっくりしてていいわよ。びっくりしたものね。」
とスタッフルームを出て行った。

鈴原さんは、もう落ち着いたのだろうか?ふだん愚痴をこぼすことのない安藤さんも
今日は、心底あきれていたようだ。
確かに、理由を聞いたところで私にもわからないかも知れない…

安藤さんは、きれいな人だ。そして私も、美人の部類に入ると思う。
奥田クリニックで働くスタッフは、みんな美しい。それは整形手術で作られたものではない。

でも本当に、美しいということは、そんなによいものではないのだ。
わたしは、この美人ばかりの職場に来て初めてのびのびと働くことができる。

地元の事務職の時の同僚の女性達からは 知りあって間もないのに「性格悪そう」
何もしてないのに「彼氏を取った」
業績をあげれば「綺麗な人は得だね」
ちょっと笑ったら「媚売ってる」
男性社員からは、ちょっと笑えば「俺に気がある」
セクハラだといえば「誘ったのはそっちだろう?」

小学生の時から性的いたずらを受けたり、思春期もチカンに会ったり
「美人だからいいよねー」とか「顔で合格でしょ」とか、言われて
高校、大学と付き合った人も外見でしか愛されなかったことが多かった。

ここに来るまでは本当にさびしかった。
奥田先生も、ここにいるスタッフも、みんな醜い人も美人もわけへだてなく接する。
外見で判断されないということが、こんなに楽で楽しいなんて
もうずっとここにいられたらと思う、それをあんな騒ぎなんておこされて
クリニックに何かあったら本当に困るのに。

さっきからずっと、もやもやと悲しい気持がひどくなっている。
鈴原さんの様子が気になるのに、話を聞きたくない
とてもイライラして今は、冷静には話を聞けないような気がする。

”奥田先生はどうして鈴原さんを特別扱いしたの?”
こんな胸も肩もギューッと固まってしまうような感覚は初めてで頭も痛くなってきた。
急に風邪をひいたみたいだ。今日は早退させてもらえるよう立ち上がりながら

「どうせ、今日は奥田先生がいないし。早く明日になって元気な顔がみたいな」
声に出して、言ってみると少しほわっと気分がよくなった。


「ひっ、ひっ。ぶえっ、くしょん」

くぐもったくしゃみの音がマスクの奥から会場に響き渡る。卒業式だというのになぜ僕はマスクを付けたままなのだろう。さすがに名前を呼ばれて証書を取りにに行くときだけは外したけれど、それ以降はくしゃみが止まらず、参列の父母に白い目で見られたりもした。しょうがないじゃないか、これが僕の体質なのだから。それに今日は僕の卒業式なんだ、主役は僕だろ。そんな目で睨まなくても良いじゃないかとさえ思えて、情けなくて涙が出てくる。いや、これは最近流行の花粉症というやつなのかな。きっと理由はそれだけじゃないと僕は思うんだ。

教室内には紅潮した友人の顔と、テンションの高い声が飽和している。

「たっくーん!これ書いてー」
「私も私も」
「おまえ中学も一緒なんだから、もうこういうのいいだろ~また顔あわすんだし」
「え~記念じゃん。サインしてよ。ところでさ、今日この後どうする?ようちゃんも誘おっか。メグも来るって」

普段はファミコンやキン消しの話しかしないような男子も女子と何やらひそひそ話している。彼らは式の後、地元のボーリング場で卒アルを持ち寄って集まるらしい。僕はその輪には加わらない。他のクラスの仲間とは違って、私立の中学校へ進学することになっていたので、みんなともこの卒業式でお別れになる。だから、きっと呼ばれないのだ。というか、もともと受験勉強などであまり遊びにも加わらなかった僕には誘ってくれる友達もいなかったのだが。

いつもは日直の名前しか書いていない殺風景な教室の黒板には、それぞれ思い思いのお別れの気持ちが、ほのかな恋心が入り交じった言葉で所狭しと様々なチョークで書き連ねられている。そこに目を凝らして自分の名前を探すくらい悲しい事もないので、静かに教室を後にしようと思う。発つ鳥、後を濁さずだ。使い方合ってるかなこれで。

「高津くーん!ちょっと待ってよ。もう帰っちゃうの?」

キラキラした瞳でこちらを見つめ、声を掛けてくるのは桜井ひかりだ。あまり積極的に喋ったことはなかったが、クラスで席が隣だった事もあって机を並べて給食などは食べたことがある。彼女からみたら、きっとその程度の仲だ。

「はい、これ、サイン帳。一言書いてよ」

サインって何だよと思ったけど、こんな事も最後なので、サインペンで丁寧に高津幸一と名前を書いた。この名字とも、もうすぐオサラバだ。

「関西の私立中に進学するんだってね。高津くんってやっぱ頭いいんだー。凄いじゃん。ゆくゆくはお医者さんだね!」

そう言われて初めて、自分の将来について考えた。学校に行くのが当たり前だと思っていたけど、学校を出てからの将来なんて考えてもいなかった。家で勉強以外に逃げ場がなかったのだ。今思えば、ひかりはガリ勉で無愛想な僕によく話しかけてくれた。恥ずかしくて面と向かっては言えないけど、目鼻立ちもはっきりしていて、かわいいと思う。クラスの人気者の彼女がそう言ってくれるなら、医者にだってなんだってなれそうな気がする。その上、こんな僕にも気を遣ってくれる気持ちの優しいひかりに、最後ぐらい気の聞いた事を言わなくちゃと思った。

『う、うんまぁ、そんなとこ』

この期に及んで、しょうもない一言しか出てこない僕に、自分のサイン帳を一枚取り渡してくれた。『大阪に行っても元気でね!またどこかで会えるかもね。今度会ったらボーリングしようね』まるっこい字がキャラクターが薄く印刷されたページに踊っている。微笑みを残して、彼女はまた友達の輪に戻っていった。きっとこれから集まる場所の相談をしているのだろう。


幸一が家に帰ると引っ越しのトラックと母親が乗った車が玄関先で待っていた。マンションのエレベーターで部屋まで上がると、昨日まで父親だった男はがらんとした部屋で待っていた。

「幸一、向こうに行っても、元気でな」

涙ぐみ、肩を抱く父親だった男に、部屋を出る際に涙で手を振った。

涙が出たのは浮気で母さんに愛想を尽かされた父に会えなくなるのが寂しかったからじゃない。肩越しに見えたボーリング場の大きなピンの看板が見えちゃったからだ。

「ひかるとボーリングしたかったなぁ」

大阪に向かう車の中、後部座席で一人ぽつんとつぶやいた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

得意先との打ち合わせとはよく言ったものだ。部長は会社に何と言ってこの経費を落としているのだろう。

連れて行かれたクラブでは女の子もいるのに早い時間から延々とグチを聞かされた。酒癖が悪いのはもともと知っていたが、開店と同時に一緒に入った得意先は早々に帰り、3セット目はなんと部長と二人きりだった。勘弁してくれよと思ったが、隙をみて『スズハラー、スズハラ!』という部長のダミ声を背中に聞きながら、何とか逃げるように抜け出し、渋谷にわりと早い時間に戻って来れた。これ以上、妻に悲しい顔をされるのはゴメンだ。改札を抜け、湘南新宿ラインのホームに向かうが同じ駅なのかと思うほど乗換ホームは遠く、この時間は人も多い。

「失礼」

急ぎ足の大きなバッグの女性とぶつかり会釈をするが、非難めいた悲しい表情を向けられた。去り際に何か言われたような気がしたが、振り向かず家路に急いだ。

混雑した電車の中で、先ほどの女性の顔を思い出した。最近、妻もああいう目を私に向けてくるようになった。大学のサークルで出会った頃は、友人にも鼻高々な美しい彼女だったのに、ここのところすっかり老け込んで暗い顔になってしまったように思う。なぜだろうか。

無理して都内に自分の年齢では高級ともいえるマンションを買ったのに、最近の妻はさえない顔ばかりしている。無理をしてローンを組んだオレのせいなのか?金銭的な不安からなのだろうか。それとも、オレの気持ちが足りないのだろうか。何か気が付いてないことが、実は他にもあるのだろうか…

酔いが廻る頭を振り、嫌な事を振り払おうとする。

それでも先月、起死回生にと贈った結婚10周年で奮発したスイートテンダイアモンドも手渡した時、一瞬ぱぁっと顔が明るくなったものの、すぐに何か考えたような顔になって『アリガトね』と短い感謝の言葉だけだった。何か思い詰める妻にしてあげられることはないのだろうか。きっとそう思うのは今だけで、また明日から仕事に忙殺されて家での会話もなくなるのだろうか。

ふぅっとため息をつき、電車内のニュースに目をやると、品川区で殺人事件があったニュースが流れている。品川と言えば家から近いじゃないか。ひかりは大丈夫だろうか。西大井に着いたらホームから電話してみよう。久しぶりに遅い時間だが、外に食べにでも出てみようか。焼肉屋ぐらいなら開いているだろう。クラブで電源をオフにしていた携帯電話に電源を戻した。

着信履歴には見慣れない番号が列んでいた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

「行動観察の体験受験お宅どうされました?」
「ゆいちゃんママは?」
「ウチ?ウチはね先月塾で受けたのよ。うちの子は積極性がなくってねぇ、他の子のまねばっかり。体操教室の先生がわるいのかも。お教室変えようかしらねぇ~」

新興の高層マンション街のカフェスペースで若いママ友が集まっている。今日の献立や子供のお受験などたわいもない事が話されているのだが、ひかりは浮かない表情でその輪に加わっている。

今までは大手の建材メーカーに勤める夫の収入も安定していて、子供もいない上、借家住まいで悠々自適の生活だったので、大学の同級生からもうらやましがられていたが、無理して西大井の高級マンションを購入した頃から旦那にもきつく当たるようになってしまっていた。

金銭面の問題ではない、マンション内での人付き合いが苦痛になっていたのだ。何かと言えば食材やワインなどの嗜好品の話になったり、特に子供の受験の話は子供がいないひかりにとっては、苦痛そのものだった。

マンションのラウンジスペースでは先ほどのママグループとは少し雰囲気が違った高層階のグループが集まっている。

「あら鈴原さん、今時プチお直しなんで普通よ」

年齢不詳の年長のマダムが口を開く。お受験ママ達とは別の場所に集まるこのグループのリーダーをひかりはマダムと心の中で敬意を込めてそう呼んでいる。お受験世代のママ達に辟易としていたひかりにも唯一、話題を会わせやすいのがファッションや美容に関する事だった。

年齢は教えてくれないが、多分自分より少し上の別の奥さんは整形に関しての独自のボーダーラインを引いている。

「メスを入れたら整形だけど、レーザーを当てるだけならメンテナンスよ。マッサージと変わらないんだから」
「へぇ、そうなんですか?」

大げさに驚いたようにひかりは手を口にやるが、心では「あなたとっくにメスが入っているんでしょ」と思っている。そんな事は口が裂けても言えないが、シワのないその顔は人間関係に疲れたひかりよりもかなり若く見えた。いっその事、私も…と思っていると心を覗かれたように次々と美容情報をマダム達はひかりに提供してくれるようになった。

次々に繰り出される”お直し”の情報には実はひかりも興味があった。若い頃には少なからずちやほや周りからしてもらっていた記憶が、さらにひかりの自尊心をくすぐった。夫にも昔のように接してほしかったが、仕事で疲れて帰る夫にマンション住人のうわさ話を延々と聞かせると露骨に嫌な顔をされるようになった。

私だってうわさ話を聞かせたいわけじゃない。新しいコミュニティになじめない自分の話をせめて夫だけでも共感して欲しかった。何の話でも良かった。気の置けない仲間とバカな話で盛り上がりたかった。二人で借家に暮らしていた頃は、夫も帰りが早く二人で外食したり、一緒に過ごす時間が多かったが、年齢も重ね役職にも就くようになった夫は帰宅の時間もそれに比例するように遅くなった。周りの環境はこぎれいになったが、二人で笑ってテレビをみていた頃のような、ほのぼのとした幸せを感じる事はもう、ほとんどなかったのだ。

子供がいないひかりにとって、この高級住宅地の同年代のママさん達との会話は異星人と話しているかのようだった。子供のつながりがないひかりにとっては、少し年上ではあるがマンションの高層階に住むマダム達との会話の方が自然体でいられて楽しかった。50代には見えないほど容姿に気を遣っている高層階の住人達にとっては、ひかりは新しい風であり、汲みしやすいお嬢さんでもあった。

「今はいいフェイスリフトがあるのよ?」
「お注射は風邪ひいてもするでしょ?」

美容に関する情報交換が主だったが、気を遣って年下のママたちと分からない子供の教育論に知ったような顔で相づちを打つよりも気が楽だった。

「こんどひかりさんに奥田さんを紹介してあげるわね」

いかにも誇らしげな年長の婦人がひかりに微笑む。

「奥田さん所の予約なかなか取れないのよ。ほら、あのテレビによく出ているあのクリニックよ」
「でも鈴原さん、もともとお綺麗だから。結構かしらね」

そう言われると、『あなたには金銭的にも無理かしらね』とバカにされたように感じて、これがきっかけで本格的な整形に足を踏み入れていってしまった。

しかし、ひかりは言葉巧みに美容整形の世界に引き込まれてゆく自分に、不安を感じながらも恍惚としていた。朝、家を出た時に感じていた自信のなさは、”お直し”が終ると確かにどこかに消え去っていて、クリニックで働くはつらつとした美人スタッフにも『ごきげんよう』と挨拶して帰るほどに自信がついていた。きっと彼女達もたくさん“お直し”して自信をつけたのだわ、私もきっとああいう風に見えてるんだわ、そう思うと力が湧いて出てくるようだった。

気が付くとひかりはこの美容整形のクリニックにも、社交場のように頻繁に通うようになっていっていた。

「ここは居心地のいいサロンと言うか、エステ感覚なのよねぇ」

そう言うマダムはレーザーの治療後でほほを腫らしながら、ホテルのカフェのようなレストゾーンでダウンタイムの痛みに耐えていた。

いつしか家のローンに使うお金も、夫にもらったダイアモンドもひかりは換金して、全て美容につぎ込んでいってしまっていたが、それでも何事にも代え難い自信を失うわけにはいかなかった。

容姿が変わっても全く気が付かない夫に対しての意地もあったが、マダム達に認めてもらいたい気持ちも強く、美容通いはエスカレートする一方だった。その分マダムからの信頼は厚く、グループ内でも若くして発言力のある立場になっていた。ただ、高層階に住むセレブ衆とは違って、ひかりの家庭には次第に負担が大きくなっていった。

「こんなこと夫には言えないわ」

ひかりの悲壮なつぶやきも、レーザーのダウンタイムで貼れた頬では、卑屈な笑いにも見えた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

奥田は人の顔とはそんなにもバランスを欠いたものなのだろうかと常々思っていた。さして醜いとも思えない患者が、個人的な打ち明け話のようにいかに美醜で苦労したかを打ち明ける様を毎日聞いていた。まるで土塊をこねるかのように、その顔を作り替えてゆく日々。徐々に奥田には何が美しくて、何が醜いのか分からなくなっていった。ただ、彼の元を訪れる女達は会うごとに自信をつけて病院を後にしてゆくので、それほど悪い気はしなかった。

いつしか個人経営だった小さな病院は大きな持ちビルとなり、深夜のテレビではひっきりなしに彼の病院のCMを打っていた。ビル内では絶世の美人がかなりの人数働いており、羨望のまなざしを受けている。彼女達は正真証明の”天然もの”の美女だ。もって生まれた容姿の良さで世間を渡り、美に対しても卑屈な所はなく、誰に対してもにこやかに対応できるまさに生きるショーケースでもあった。病院に訪れる患者は自分も容姿が良くなればあのようになれるんだと幻想に近いものを抱いてやってくるものも多い。

ただ奥田には、もって生まれた自然の美がもたらした幼少からの天真爛漫さは、患者達に授けてあげることはできないことを知っていた。患者となる彼のお客はどんなに容姿が綺麗になっても、もっともっとと作り替えられる場所を見つけては来院し、満たされることはなかった。それは見かけの美しさではなく、心にぽっかりあいた穴に石を投げ入れる行為のように奥田には見えた。

美醜にこだわる姿を見すぎているためか、奥田自身にはお金も有り余り、整形ではあったがルックスの良さもあるのに、女の影がなかった。あれほどの美人に囲まれて仕事をしているのに、噂一つないなんて、もしかしたら同性愛者じゃないかとささやかれたりもした。しかし本当の所は、ただ美醜にこだわる女性に幻滅してしまっていただけなのだ。

「先生、これが明日のオペの患者さん一覧です」

スタッフが朝一で奥田の診察室にカルテの一覧をもってくる。既にカリスマとなった彼は一日に数件のオペをこなすだけで、その他のオペは他のスタッフ任せていた。夕方に次の日の予定をスタッフに伝え、日にいくつかの主に芸能人やセレブリティの診療を行うだけだ。東京の高層ビル群の夜景を背に奥田の手には一つのカルテが握られている。

「八木君、この患者さん明日私が診察しよう」
「わかりました、それでは明日」
「ああ」

カルテを見つめている奥田の口元に笑みがこぼれた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

他の診療室とは違って、広い室内にゆったりとした革張りのソファーが列ぶ奥田の診療室にひかりが入ってくる。診療室というよりは貴族の書斎のような雰囲気だ。サイドボードには様々なトロフィーや楯などが列んでいる。奥田は落ち着かない様子のひかりにソファーを勧めると、美しいスタッフがハーブティをテーブルに置き、流れるような動作でドアから出てゆく。

カルテをみながらゆっくりと顔を上げる奥田。

「鈴原さん、何度か当院で診療を受けて頂いているようですね」
「ええ、何度か」

普段とは違う診療室と直々にテレビにも出ているイケメン医師の奥田に直接見てもらえるとあって緊張の面持ちのひかり。

「先生、今日はどうして奥田先生、直々にみて頂くことになったんでしょうか?」

まじまじと見つめる奥田。ひかりの質問には答えない。

『私の所見では、いまのところ手術の必要はありませんよ』

それを聞いて引きつったひかりの顔が間接照明に照らされる。

「先生、それを伝える為にわざわざここに通したんですか。手術していただけないんですか?なんで、なんでなんです?」

眉根をよせるひかり。次第に声がうわずってゆく。奥田はその顔に人工的な造形を感じながらも、ひかりの懐かしい瞳に見入っていた。

「私の個人的な意見なのですが、充分鈴原さんはお綺麗ですし、無理に手を加えない方がよろしいかと」

奥田は落ち着いた口調で、ひかりに問いかける。

「美容整形の医者がね、こんな事言うのもなんなんですが、年齢なりの美しさってあると思うんですよ。鈴原さんも年齢を重ねた美しさというものにも目を向けてみたらいかがですか?」

普段奥田は治療に対しての説明はするが、こんな事は患者に対して決して言わなかった。客が手術してほしければ、箇所に関らず勧めて来た。もちろん、医学的にはどれも必要のない手術ばかりだ。健康を害するものすらある。しかし、この患者にだけはそのままの姿でいてほしい、奥田はなぜだかそう思ってしまった。ホントに今日はどうかしている。

「私はもう手術する価値もないってことですか?」
「そうじゃありませんよ、自分に自信をもってくださいって…」

ひかりが奥田の声をさえぎるように小さな声でぶつぶつと呟く

「私の自信は?わたし…どうやって…どうやって…」

顔色が悪くなってゆく。ひかりの頭に高層階のマダム達の顔がちらつく。
『あなたには無理だったかしらね』とマダムの取り巻きが自分をあざ笑っているかのように思えて来て、頭を振る。

「ね、鈴原さん、何事も自然が一番ですから。鈴原さんはもともとお綺麗ですから」

一番聞きたくなかった一言が耳元をひかりのかすめていった。
もともと綺麗なら何で私に気づいてくれないのよ、なんで…なんで!

「…った、ような…を…聞かないでよ」

ひかりの目の奥が濁ったように遠のいてゆく。今私があのコミュニティを失ったら、どこへ行けばいいの?私はだれにわかってもらえるの?私の居場所はあそこしかないのよ。

「ん?鈴原さん…何か言いましたか?」
「私には、私には…必要なのよ!ねぇ、先生お願いします、お願いします!」

立ち上がり、人が変わったように食って掛かるひかりに椅子からのけぞって後ずさる奥田。

「いや、鈴原さん、い、いや、落ち着いて下さいよ」
「ねぇ、なんで!なんで気が付いてくれないの?」

意味不明な事をわめいて泣き出すひかりに、奥田ははっとした顔つきになり顔を近づける。

「き、き、き、気付いてますよ!す、鈴原さん?いや、ひ、ひかりさん!ぼぼぼ、僕ですよ、カ、カ、カルテみて、き、気付いたんです。ぼ、僕誰だか分かります?」

極端にどもりながら、ひかりに近づいてゆく奥田に、恐怖と狂気の度合いがましてゆくひかりの瞳。

「やめて!何の事を言ってるの?あなたなんて知らないわよ!手術、手術しなさいよ!」

錯乱したひかりが奥田を突き飛ばすとよろけてトロフィーやら楯やらが列ぶサイドボードに頭をぶつけて倒れた。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

ねぇ、なんで涙が出てくるんだろう。

やっときみと再会できたと思ったのに。
僕もきみも互いに気が付かないほどに変わってしまったね。

奥田の瞳が最後に映したのは黄金色に輝くボーリングのトロフィーに刻まれた自分の名前と、そこに映り込む変わり果てた美しい自分の顔だった。

奥田幸一 第5回美容学会ボーリング大会 優勝

「ひかりとボーリングしたかったなぁ」

遠のく意識で幸一は何となくそう思った。