修一と真弓は丸いちゃぶ台を囲み、昼飯のカレーライスを食べていた。
昭和最後の夏。
修一は13歳で、真弓は9歳だった。
修一はジャガイモがごろごろ入ったカレーライスにソースを時計まわりに、イチ、ニ、サン、と数えながらまわしかけた。
「修ちゃん、ソースかけると美味しいの?」
修一は汗でずり落ちためがねを中指で押し戻しながら、おかっぱの前髪がはりついた真弓の顔を見て微笑んだ。
「マユもかけるか?」
うんと答えると、修一はソースを大きくひとまわりかけてくれた。
カレーライスのソースがけは、味に別段変化はないように思えたが、修一と同じものを食べるのは、真弓にとって仲良しの証拠だった。
真弓にとって肝心なのは、味云々よりも大好きな修一といかに繋がっているかだ。
その頃の真弓は何かにつけ、修一の真似ばかりしていた。
兄といっても修一は継母の連れ子であり、真弓にとっては半年前に急に現れた義兄だった。
親同士が互いに連れ子で再婚し、血は繋がっていない。
ぐちゃぐちゃにかき混ぜたカレーライスは、真弓にあの意地の悪い継母の細い指にはめられた褐色の石を連想させた。
幼い真弓の柔らかな頬を鋭く引っかいた、その石の名が瑪瑙(めのう)だと知るのは、もっとずっと後の事だった。
夜の九時半に携帯電話がなった。
真弓はちょうど風呂からあがり、冷蔵庫の缶ビールを手にとった所だった。
今日は冷たい秋風が吹くなか、勤める飲料会社の新商品の売り込みに一日中外回りでクタクタだったが、真弓は実績が目にみえる今の仕事が好きだった。
東京の営業の中でも、真弓は常に上位10位内をキープしている。
仕事に夢中になっている間にいつのまにか30歳を過ぎ、友人達が家族を持ち始めると夜の電話は極端に減ったので、久しぶりの着信音におやと思った。
携帯を手にとると、田舎で小さな工務店を営む父親からだった。
普段、電話などめったにかけてくるひとではない。
「お父さん?どうしたの、めずらしい」
あぁと言ったきり、十秒は黙りこんでから、やっと口をひらいた。
「マユ、修一が死んだそうだ。いま春美さんから電話があった。
今日の昼に川へ入ったらしい」
「えっ、うそ」
口をついて出た言葉と同時に、数年前に義母の葬式で久しぶりにあった修ちゃんの顔がパッと浮んだ。
目じりに出来た笑い皺は深くなったが、知的な瞳は相変わらずで、低く響く声で「マユ」と呼んだ修ちゃん。
真弓のなかで、長らく封印していた修一の記憶が一気に頭の中を駆け巡っていく。
「本当に死んだそうだ。警察でいま一応調べているらしいから」
「どうして」
「事故かもしれんから、もちっとしないとわからんらしいさ」
「とにかく今から用意してすぐに帰るから」
「あぁ、駅まで迎えにくから着く時間がわかったら連絡しろ」
電話を切ると、「死」に心臓を冷たい手で鷲掴みされたように感じた。
ひやっとする暇もなく、心のずっと奥のほうが瞬時に凍てついてしまい、世界が色を失くし、涙も出てこなかった。
修一が死んだ。
修一が、死んでしまった。
それは本当のことかと疑う間もなく、真弓の心は修一の死をハッキリ感じた。
父親は川に入ったとだけいったが、修一は自殺したのだ。
それもきっと事故か自殺か判断がつかぬ方法をとったはずだと確信できる。
修ちゃんは昔からそういう人だ。
自分の死が少しでもショックを与えぬように、最後まで周囲の人間を気遣う、そんな人だ。
真弓は素早く身支度を整え、喪服をバッグに押し込めるとアパートを飛び出し、タクシーを拾った。
最寄駅から渋谷へ出て、改札から湘南新宿ラインの乗車口までの長い距離を悪態をつきながら走った。
おかげで栃木の実家まで一本で帰れる最終の電車へ無事乗車できたが、北へと帰る車内は混みあっていて、真弓の大きなバッグが誰かの脚にあたると舌打ちがきこえてきた。
それも大宮を過ぎると人もぐっと減り、空いた車内には足元から冷気が立ち上ってきた。
無意識にコートの前をかきあわせたまま、真弓はポツリポツリと車窓を流れていくネオンを目で追っていた。
ふと鏡のように車内をうつす窓に目をやると、眼窩が窪み深い影を作った女と目があった。
真弓はそれが自分の顔であると気づくのに数秒かかった。
自分の顔がもう若くはないと気づくと、小さなため息がでた。
電車が進むごとに、外の暗闇は深く、濃くなっていった。
友引が間に入ったり、斎場が混んでいたりして、修一の葬儀が執り行われたのは死んでから五日後だった。
真弓は五日間毎日、修一のもとへ「死」を確認しに通った。
寝かされた修一は、どこかにぶつけたのか右の額が大きく腫れあがっていたが、青白い肌は彫刻のようになめらかに見えた。
薄く開いた瞳は白濁していて、美しいガラス玉が入っているように見える。
死の光に照らされた修一は、神々しくもあり、魂が抜けた骸でもあった。
皆は眠っているようだと口々に言ったが、決定的な「生」がもうすでに欠けていた。
真弓が皆の見ていない所で、修一の冷たい鼻梁をなぞってみたり、薄く開いた瞳を下から覗き込んでも、瞳に命が宿る事はなく、ただ「死」が横たわっているばかりだった。
それでも、何処か諦められない気持ちのまま、真弓は葬式をむかえた。
春美の話によれば、久しぶりに休みをとった修一は歩いて10分ほどの土手沿いを散歩に出かけていき、死んで帰ってきたという。
自分達を置いて自殺するとは思えないから、きっと川を覗きこんで足を滑らせたのだと、鼻をすすりながら春美はいった。
集まっていた親類は皆、修一が仕事で行き詰まりウツの傾向があったので休暇をとらせたのだと弔問に訪れた上司から聞かされていたので自殺だろうと囁いていたが、春美の話を誰も否定することはなかった。
目撃者もいなかった為、誰もが事故の可能性を捨てきれない死に方であり、そんな春美の想像を何処か信じたくなる、修一の死だった。
温厚で人付き合いのよい修一は皆に好かれていたので、自殺をしたとは考えたくはなかったのだ。
秋の川は水かさも低く、修一は葦が漂う中を小舟のようにすいすいと流されてきたと、発見した釣り人は話したという。
それを聞きながら真弓は、むかし修一が話してくれたハムレットのオフィーリアを思い出していた。
絶望の中、溺れ死んだオフィーリア。
あの時高校生だった修一は物知り顔で言った。
「ハムレットは悲劇なんだよ。マユ」
修一の葬儀は、たくさんの人がきて焼香は一度と制限が出るほどだった。
喪主は妻の春美で、棺の側で二歳の子供を抱いて参列者の挨拶を受けていた。
春美は真弓よりも五つ下で、色白で身体の線が細く、黒髪をひとつに束ね喪服を着てうつむいているだけで、思わず手を差し伸べたくなるような女だ。
修一が結婚をするときいた時、とうとう自分の手が届かない所へいってしまうと真弓は思ったが、春美もたった四年の結婚生活で修一を失ってしまった。
でも、まだ春美はいい。
修一の子供が残ったのだから。
真弓が親指の爪を噛んで、春美に抱かれる子供をみつめていると、横に座った叔母がやめなさいと真弓の手をおろさせた。
叔母は父親の妹で、工務店の事務を取り仕切り、継母が死んでやもめになった父親を何かとサポートしてくれている。
真弓にとって、しっかりものの叔母は継母よりも母親に近かった。
「あの女が死んだときは、やれやれと思ったんだけど、修ちゃんの死はショックでねぇ」
と呟いた。
あの女とは、数年前にガンで死んだ継母の事で、叔母とは犬猿の仲だった。
しかし、真面目で人柄のいい修一の事を息子のように可愛がっていたものだから、さすがにショックを受けていて、ここ数日で急に老け込んでしまい、身体も少し細くなってしまった。
真弓は叔母の手をそっと握りなぐさめたが、叔母は鼻をすすりあげながら
「あんた達が一緒になってれば、良かったんさ」
と、言った。
真弓は聞こえないふりをした。
焼香の列が途切れることなく続き、読経を読む声もかすれ始めた頃、ふと棺の近くに空気に溶け込む程に薄い「もや」のようなものに真弓は気づいた。
それはぼんやりとしていて、姿かたちもなく、ただそこの漂っているように、ひっそりと佇んでいた。
それを見つけた真弓は心の中で「修ちゃん!」と、呼びかけた。
名を呼ばれた「もや」はみるみるうちに凝縮され、修一の輪郭を縁取っていく。
この世のものではない修一は透けていて、かろうじて身体の輪郭を縁取られている程度であったが、真弓の方向をむいているのがわかった。
一瞬、椅子を蹴って駆け出していきたい衝動にかられたが、いまこの場で修一を感じているのは真弓ひとりだけであるとわかっていた。
真弓は幼い頃、幾度となく死んだ母親の影を感じた事があったし、可愛がっていた猫が死んだあとに自分の足元をなぞる尻尾の感覚にふと下をむくと、薄く縁取られた今にも透けそうな猫の身体が擦り寄って消えていったこともあった。
他の人には見えない、この不思議なことを真弓は誰にもはなした事はなかった。
「死」との触れあいは真弓だけの小さな喜びであり、亡くした悲しみが癒されることだった。
修一の方に目を凝らすと、困惑の表情でこちらをみつめているのを感じる。
言葉を発することはないが、修一の思考がダイレクトに心に響いてきた。
「マユ、どうしてこんな事になってしまったのかな?
自分でもわからないんだよ。
僕はただつらかったんだ。
皆の期待に応えられない自分の存在が耐えられなかったんだ」
修一の影が揺れる。
「修ちゃん、期待なんて応えなくても良かったんだよ。
みんな修ちゃんが生きてさえいれば、それだけでよかったんだから」
真弓の言葉に修一は小首をかしげ、じっとしていた。
「マユ、ごめんな、約束やぶって」
真弓にはそれが、あの日カレーライスを食べながらした約束の事だとすぐにわかった。
「2人でカレー屋さんになりそこねたね、ソースをかけたカレーを売るつもりだったのに」
その約束は2人はずっと一緒にいよう!という真弓の幼い提案に、それには一緒にカレー屋をやろうかと修一が応えてくれた約束だった。
子供心に、お互いが通じ合える気持ちがあったのだが、そんな2人を継母は許さなかった。
修一と真弓が仲良くなれば、なる程、継母はイラつき、家の中の雰囲気は悪くなった。
小学生の真弓が些細な事で叱られ、それを修一がかばうと、癪に障った継母は真弓の頬をわざと指輪のはまった手の甲でぶったことがあった。
真弓の頬をさっと瑪瑙の石が撫でると、浅い傷口から血が流れた。
慌てた修一が、真弓の頬に絆創膏をはるのをじっとみつめていた継母の目に、嫉妬の色がありありと浮んでいたのを見た時、真弓は継母が自分を嫌っているのだとハッキリ感じとった。
片親を亡くしている修一と真弓は、家族というものを大切に思うがゆえ、なんとなく母親の機嫌をとるために、距離を置くようになっていったのだ。
それでも、2人は目が合えば笑ってしまうし、継母の目を盗んで修一は本の話をよく真弓にきかせてくれたりもした。
ただ、兄妹の垣根を越えることはなく、お互いに曖昧な気持ちをもてあましながら、家族を演じ続けた。
その息苦しさに耐えかねて、真弓は大学進学と同時に実家を出て東京で一人暮らしを始めた。
修一は地元の大学を出ると、大手機械工業の会社に入り実家から通った。
疎遠ではあったが、親の知らない所で2人は「兄妹通信」と題したメールのやりとりはしていた。
そんな呼び名をつけ、兄妹という大義名分をふりかざして正当化を図ってまで、近況報告をかかさなかったのは、お互いがどこか繋がっていたかったのだ。
兄妹でもいいから。
しかし、それも真弓が三十歳の誕生日を迎える前に、ある日突然修一が春美との結婚をきめてからぷつりと途絶えた。
修一からの最後のメールは仕事の話だった。
「マユ、僕はいま外国で宝石を掘削する機械を設計しています。
宝石の原石を泥の中から掬い取る機械だよ。
大切に壊れないよう、そっと掬いだすんだ。
美しいものは壊れやすいからね」
真弓は過ぎ去った日々に心をとらわれていたが、ふと修一を探すと、棺の側にふわりと白いもやが浮び、たなびく焼香の煙に紛れていった。
心の美しい人は、壊れて消えた。