なんかもう泣けてきた。帰りたい。
赤や黄色に染まった木々を横目に黙々と斜面を歩いている。
先を行く二人はおしゃべりに夢中で、1m2mと徐々に遅れをとっている私を振り返りもしない。
ちょっと、私もいるんですけど。
そもそも私がお願いした高尾山ムササビハイキングなのに。
ちょうど2週間前、バイトの休憩が裕也くんと一緒になった時に奇跡がおきた。
裕也くんは一週間違いでバイトに入ってきた、役者をめざしててひとひねりありつつも素朴なイケメンで完全に私のストライクゾーン。
とはいっても、昔も今も、地味で暗くて、向上心も協調性も存在感も個性も華もない、パッとしない自分の
立ち位置はよくわかってるので、他の華やかな裕也くん狙いの女の子達みたいにはなれないってことは、
百も承知で立場をわきまえつつ、色気のないキノコやムササビの話なんかしてたんだけど。

裕也くん、めちゃめちゃムササビに詳しくて、キノコなんかにも精通してて聞けば山梨のおじいちゃんちの裏山で、いつも遊んでいたそうな!

もう楽しくて楽しくて、つい「高尾山にムササビを見に行きたい!連れてって」なんて身の程知らずなおねがい
に「いいよ!行こう」なんて最高の笑顔でこたえてくれるから動揺して「別に裕也くんと行きたいんじゃないですよ。ムササビが…」何て言ってたら、すかさず裕也くん狙い女子に検知されて「わたしも行くー」ということで今、こうしてさびしく斜面を歩くことになったというわけです。

「えー裕也くん、すごーい」
半年もいっしょに働いてるけど一言もしゃべったことのない女子の声(ついでにいえば名前も知らない)が耳障りで、落ち葉をがさがさいわせながら歩いた。

…身の程知らずに夢をみたからこんなことになったんだ。裕也くんと休憩の時は特に話をしなくてもいい感じで、たいした話をしなくても通じてるなって感じがしてて裕也くんも、もしかしたらそう感じてるんじゃないかな?って勘違いをしてしまった。
うつむいて歩いていると、裕也くんが私を待っていた。
「疲れた?ここで休憩しよう」
名も知らぬ女子はベンチで手作りスイートポテトと紅茶を広げ、裕也くんここと呼んだ。

左から裕也くん、スイートポテト、名も知らぬ女子、
私と横一列にベンチに座り彼女の手作りスイートポテトと紅茶をいただく。すごく、おいしい。
私の背中のリュックには自分の分のおにぎりとお茶が入
っているだけだった。
裕也くんが、わたしに話しかけてるのが聞こえたけどしゃべると、泣いてしまいそうで返事もしなかった。
みじめだった。
もう、これ以上ふたりの邪魔にならないように
「急に具合が悪くなったみたいで、ごめんなさい。そこにケーブルカーもあるようなので先に帰ります」立ち上がると裕也くんが私の腕をつかんだ。
途端に私は「わー」とさけんでてを振り回し走った。

ケーブルカーに乗り込み振り返ると二人は立ち上がってこっちをみていた。

最低。最悪。勝手に舞い上がって、勝手に落ち込んで、自爆か。
もう、裕也くんに会わせる顔なんてない。
ケーブルカーを降りて駅に向かって歩いていると、ポケットの中でメールの着信を知らせるベルがなった。
裕也くんからだった。

あーぁ。覚悟を決めてメールを開く。

田中さん
大丈夫ですか?僕たちも今日は、帰ります。
ムササビは、田中さんの調子のいいときに今度は二人で探しにきましょう。
ムササビは、意外と狂暴でそして臆病なんですよ。
田中さんはムササビ好きなだけあって、ちょっとムササビに似ています。しかも僕は、そんなムササビが大好きなんですよ。じゃあまた明日、遅番で、お大事にしてください。

……………………………………………………………!!

まだ………よく…わかんないけど…今度、来るときはお弁当は裕也くんのお弁当も作って来ようと思う。絶対。

「分かった、今すぐ向かうよ」

4日前、家を飛び出したまま行方しれずになっていた息子を迎えに車に乗り込んだ。富ヶ谷から首都高に乗り、西新宿で左に折れる。小雨が降り出す中央道を西に向かう。実家に帰るのはいつぶりだろうか。調布を過ぎたあたりから雨がフロントガラスに目立つようになって来た。西に向かえば、さらに天気は悪くなるだろう。

自分もその年頃に家を飛び出して東京に出た。電車を降りて一番驚いたのは秋なのにコートが要らないくらい暖かかったことだった。地元では霜が降りて、手袋が手放せない中、降り立った原宿はとにかく暖かかった。何だか自分を歓迎してくれているみたいで、嬉しかったことを思い出す。外気温を移すメーターに目を移すと、都内の温度よりも5度ほど低くなっていた。

18歳の自分が一人で行きて行くには、東京は厳しい世界だった。親には絶縁状態でお金の無心もでできず、ホームレスに交じって来る日も来る日も怪しい日雇いバイトを点々とした。

運送業やら、港での荷下ろしなど力仕事が主だったが、時には人に言えないような仕事もした。そうしたなか、テレビの制作会社に転がり込んで、大道具の仕事にありつけたのも奇跡的だった。もともと何かを作る事が好きだったから仕事もよく覚えた。1年もするとバイト仲間の敦子とも仲良くなり、家に転がり込んだ。ほどなく裕也ができた。今で言うできちゃった婚だ。

「子供ができたなら、3人分頑張らないとな」

当時の上司はアルバイトの自分を、社員に引っ張ってくれた。嬉しくて涙が出た。ありがとうございます、ありがとうございますと何度も頭を下げた。これを機に絶縁状態だった親とも孫の顔を見せたいと懇願して、勘当を解いてもらった。顔をくしゃくしゃにして喜ぶ母親が少し年老いて見えた。苦労をかけたと、初めて実感した。孫を挟んで敦子と父と母の姿を縁側から眺めると、これまで以上に頑張らないといけないと心に誓った。あれから18年…

高速が山梨にはいると景色はコンクリに囲まれた防音壁か山並みしか目に入らなくなる。山しかないくせに何がヤマナシだと嫌った故郷。あの頃と何も変わらない景色。車のコンソールが光って電話の着信を知らせる。ハンドルのボタンを押すと敦子の声が車内に響いた。

「裕也はだいじょうだって?」
「ああ、心配ない。家を出て友達の家にでもいたんだろうよ。さすがに何日もは友達も泊めてくれなくなって、ばあちゃんちを思いついたんだろうな。アマちゃんだよ。まだまだ子供だ。」
「また、そんな言い方して。子供扱いするから反発するんじゃない。あなたも裕也の気持ちちゃんと聞いてあげなきゃ。いつも頭ごなしなんだから。それで、ご飯は食べてるって?」
「子供扱いはオレとかわらないぞ。そりゃ、おふくろが嫌というほど喰わせるだろうよ。裕也は相変わらず帰りたくないってダダこねてるらしいけどな、じゃ、高速おりるからまたかけるよ」

ぶどうの産地として有名な地元のICから下道におりると、雨は上がっていた。2車線の幹線道路はガラガラで、地元の車が高速と同じようなスピードですれ違ってゆく。日も大分傾きかけ、すすめどもすすめども山ばかりの景色が続く。コンビニも商店もない通りを、さらに山道に折れ、里山が広がる田舎道に車を進めてゆく。

家に続くあぜ道に車をすすめると「目的地周辺につきました、おつかれさまでした」とカーナビが伝える。カーナビには山しか写っていなかった。すっかり暗くなった中、両手を挙げて父母は車を迎えてくれた。

「裕ちゃんね、今ご飯を食べてねむってるわ。よっぽど疲れたんだろね」
「おまんも疲れたずら、今日はうちに泊まっていきなし」

夕食を終え、簡単にいきさつを親に話した後、今日のところは寝かしておいてあげなさいという母の言葉に従って、自分も客間に布団を敷いて横になった。壁掛け時計がチクタクチクタク時を刻んでゆく。天井の木目を見つめていると、木星の渦の様で吸い込まれそうな恐ろしい気持ちになる。なんだか子供の頃に戻ったようで、身体は疲れているはずなのに眠りに着くことができなかった。

カーテンをあけると、ぼんやり山の端から明るくなって来て、朝霧を柔らかく照らしてきていた。サンダルをつっかけて庭に出ると父がラジオ体操をしている。

「おいオヤジ、もう起きてるのかよ」
「寝られんら?ほんなら…ちょっと2人で山でもぶらついてみるか」

家の裏は緩やかな里山で、子供の頃はカブトムシを取りに行ったり、ドングリを集めたり近所の子供達とよく駆け巡っていた場所だ。自分が出て行ってしまってからは、初めてこの里山にも足を踏み入れる。

「おまんは、しょっちゅう山さ入ったな」
「ああ、オヤジがあそんでくれんかったからね」

「しょおんねェ、喰わすため仕事で忙しかったべ。そんなこと言うが、おまんも裕也をちゃんとみてやってるら?」

「もちろん。おれは、自分が勝手に家を出て苦労した分、あいつに同じ苦労をさせたくないんだよ。だからあいつには充分な教育も受けさせたし、やりたいこともさせてきた。それが急に大学やめて役者になるなんて…そんなふわふわした話、絶対賛成できねぇ。オレはな、大学でて会社に入って毎月の給料をちゃんともらえる堅い仕事に就いてほしいんら!」

興奮するうちに、いつのまにか自分も山梨弁が出てきてしまった。父は立ち止まり、

「子供に苦労させたくねぇ、いい言葉だべな。おらもな、お前にも同じことを思ってた。でも、おまんは出て行った。でもしっかり会社の御偉いさんになって、立派に帰って来ているら。先は見えなくとも、人生はなるようになる。頭ごなしに叱りつけても言うことは聞いてくれねぇべ。おまんなら分かるら」
「それは結果論だろ、オレはたまたま運が良かったんだよ。オヤジには言えないような苦労もたくさんあったし、ボンボンのあいつは何の苦労もわかっちゃいねぇ」

沈黙が続き、2つの枯れ葉を踏む音がただただ続く。

「…お前はな、この山な勝手に草木が生えてるものだと思っとるんだべ。でもな、違うんだべ。人が入った里山ってのはな先人がこつこつと植樹したり、道を造ったりしてできたもんなんだ。ただな、山にも個性ってもんがある。木を植えても生えてこない場所、逆に道を造ってもすぐ木が生える場所と様々だ。目には見えないが、木が生えてこない場所には下に石があったりして根が張りづらいとか、理由はいろいろあんべぇ。人間がどんなにそこに穴ボッコこしらえたって木は生えねぇんだわ。昔の人はその土地の個性を見抜いてドングリ植えたり、松を植えたり、木が生えねぇとこには道を造ったりしてきたんら」

「オヤジ、何の話してんだ?」

「えーから聞けって。人間も同じってことだべ。お前が裕也にお堅い人生を押し付けてもそこに木は生えネェかもしれんぞってことら。おらもお前に畑さ継いでもらいたいって木を植えようとしてたみてぇだな。やっぱり木は生えなかった。すまんな」

「…オヤジ」

「裕也な、ここまで東京からてくてく4日かけて歩いてきたらしいんだわ。いろいろ考えながらお前の来た道をさかのぼってきたんだろうよ。自分はこれからどう生きたらいいんだって考えながらな。お前が運だと思ってるもんが実は違って、土の中の石ころみたいなもんだったらどうする?あいつにも自然とできる道があるかもしれんし。目が覚めたら話だけでも聞いてやったらどうだ」

返事はしなかった。澄み切った里山の空気を大きく深呼吸して肺に吸い込んでみた。山には朝に光が満ちてきていた。

「そろそろ帰るか」
「ああ、そうするべ」

家に帰ると猛烈な眠気が襲ってきた。そのまま布団に入ると泥のような眠りが訪れ、目を覚ますと時計は正午を廻っていた。帰り支度をしてリビングに出ると裕也は既に起きており、話を話をしたそうにチラチラとこちらを気にしていたので、ぶっきらぼうに声を掛ける。

「さ、帰るぞ」

モゾモゾしている裕也を両親にきちんと挨拶させ、駐車場まで歩いた。
後ろから着いてくる裕也に車のキーを投げる。

「帰り道はお前が運転しろ、あと母さんには心配かけるなよ」

自分の息子はどんな道を通って東京へ向かうのだろうか。まだまだ頼りないがナビもある。
自分は黙って見守ることにした。


 「結婚記念日ですか?」

若いギャルソンは会計時に尋ねた。

曖昧に頷く聡史の横で、私は笑って嘘をついた。

「二年目なの」

ギャルソンは今日最初の客である私達を店のエントランスで迎え入れたときに、乗ってきた車の後部座席にあるチャイルドシートを確認したのだろう。

左薬指に指輪をはめた男と、チャイルドシートをのせた車。

私が指輪をはめていなくても赤ん坊を傷つけないようにアクセサリーを控える女と推測したのかもしれない。

紺色のふわりとしたワンピースにヒールの低いパンプスは良き妻のようにも見える。

しかし、チャイルドシートの主は私の子供ではなく、彼と妻の子供だ。

満足そうに頷きながらおめでとうございますとギャルソンが言うので、私はにこやかに礼を言った。

この店の花ズッキーニのフリットがあんなに美味しくなければ笑えなかったかもしれない。

ノンアルコールを頼む聡史をよそ目にひとりシャンパンをあけていたのも良かった。

私はシャンパンにとても酔うのだ。

それに店に向かう車中で見た、あの冬枯れの空に焼けるような太陽が沈む美しい景色も私の心を満たしていた。

聡史と会う日はいつだって嬉しくて悲しい。

だからそういうほんの少しの喜びが必要なのだ。

悲しみにとらわれないように。

聡史はギャルソンに浅く頭を下げると、私の肩を抱き足早に車に向った。

「恵理香、ごめんね」

小さく呟く聡史の顔を見上げると、泣いているようにも、ほろ苦く笑っているようにも見えた。

謝罪の言葉を無視して助手席のドアを開けると後部座席のチャイルドシートが目に飛び込んできた。

つい子供と妻を乗せて車を運転する聡史を想像して、悲しくなった。

しかしそんな気持ちを振り払うように口角を上げ嬉しい顔を作ってから車に乗り込んだ。

妻でない女が相手の家庭の領域を侵すには、悲しみがつきものだし、それを顔に出すほど若くもない。

私は今年で35歳になる。

聡史は5歳上だから、40歳だ。

他人からみたらいい歳の2人が一緒にいれば夫婦に間違うのも当然と思う。

背徳行為の果てに喜びが待つ事はない。

わかっていたのに、二年前のあの日私はうっかり結婚指輪がはまった手を払うことができなかった。

仕事で始めて会ったとき、挨拶と共に浮かべた聡史の屈託ない子供のような大きな笑顔が悪かったのだと思う。

その夜は奥さんと子供が里帰りをしているので、外に泊まろうと聡史が言い出し急遽新宿のホテルに泊まった。

チャイルドシートをのせた車で迎えに来た自分のデリカシーのなさに気づいたのか、ギャルソンの言葉に笑って頷いた私を不憫に思ったのか。

どっちにしろ、彼も何かしらの罪悪感を私に対して持っている事がわかり意地悪くも喜びが胸を満たした。

大きなベッドで眠る聡史の穏やかな規則正しい寝息を聞きながら、眠れない私は高層ホテルの一室で明けてゆく空を眺めていた。

窓から見えるいくつもの高層ビルやホテルがそびえたつさまはまるで山のようだ。

短くも儚い都会の静けさの中に連なり夜明けを待つ高層ビル群は、ときに命を奪いまた糧を与える山々のように荘厳で神々しくもある。

私は聡史のシャツをはおり、通りを眺める猫のように窓辺に腰を下ろし、朝になるほんの少し前の時間に身をゆだね、そっと窓ガラスに触れた。

てのひらからはひんやりとした冬の気配と静けさが体の中に流れ込んできた。

冷たさと静けさが私を満たすと、まるで自分が外の大気の一部のような気持ちになる。

毎日の日課なのであろう。

はるか下では街頭に照らされ朝を待たずにジョギングをする人たちが見える。

正常な時間を過ごす、規則正しい人達。

彼らがとてもまともで正しい人間に思え、ふと私は自分の背徳行為に強い嫌悪を感じた。

彼の妻が洗ったシャツは清潔で、まくった袖口の裏も垢染みていない。

きっと洗濯の度にいちいち袖をまくりあげ手もみで洗ってから洗濯機にいれるという、細やかな気配りができる女なのだろう。

そんな妻を平気で裏切る聡史を夫として最低だと思いつつも、その裏切りの相手が自分だという事が急に大罪に思え怖くなった。

秘密の恋は始まったときから、終わりしかない。

続く事はないのだ。

ただ、終わりへとむかうだけ。

私達はなんて、うれしくて悲しくて正しくない関係なのだろう。

虚しさに襲われ、私は捨てられた猫のように小さく泣き声をあげた。

寝返りをうつ聡史の気配を感じ、思わず両手で口を覆うとますます惨めになった。

聡史のシャツで涙を拭い清潔な洗剤の匂いを嗅いだとき、私は別れを決めた。

外はもう夜明けで、都会の山々に光が差し込み新しい一日が始まろうとしていた。