山の鼻と呼ばれる山小屋で簡単な休憩をとることにして、近くのベンチに腰かけて早めの昼食を摂った。
まだまだ残暑の厳しい9月だったが、標高が高いせいか時折吹く風は冷たいくらいで、かき始めてきた汗がいっきに引いてきた。
歩いているときに快適と感じていた気温が、今では少し肌寒く感じる。
ただ、上着の中にもう1枚肌着を着込むほどの寒さではない。
息子の健斗の体力が心配だったが、まだ余力は残しているようだ。
食欲もあるらしく、嫌いな野菜だけを残して妻の作った弁当を美味しそうに頬張っている。
「野菜だけ残すと、またお母さんに怒られるぞ。」
「大丈夫。野菜はごみ箱に捨てて、弁当箱には残さないようにするから。」
普段からこんなことをしているのか、何の悪びれもなく、健斗は平気でそう呟いた。
「お父さんの前でそれを言っちゃダメなんじゃないか。
それに山の中では、ごみ箱は設置されていないし、自分たちで出したごみはきちんと自分達で持ち帰らなきゃダメなんだぞ。」
そう、ここ尾瀬は貴重な自然を守るためにハイカー達に対して、いろいろなマナーを設けている。
例えば、野生生物を守るため、犬などのペットの持ち込みや動植物を採取することも、落枝を杖にすることさえも禁止されている。
もちろんゴミを捨てることなんてもっての他だ。
登山では一人ひとりがマナーを守り、自然と触れ合うことが大切なのだ。
「こっそり土の中に埋めちゃえばいいじゃん。野菜だから自然に還るでしょ。」
「自然の生態系を守るために、野菜を土に埋めるのもダメ。ここに来るまでも車の排気ガスから緑を守るためにわざわざバスで来たくらいだろ。」
「ちぇっ、わかったよ。帰りのコンビニで捨てていくからいいよ。」
そんな面倒なことをするのならば、今ここで食べてしまえばいいのに。
ただ、妻ほどコミュニケーションを図ってきていない僕からその言葉を放つと、せっかくいい感じになってきた登山が水の泡となってしまう。
深呼吸をして、水筒の中のポカリスエットとその言葉を一気に飲み込んだ。今日の目的を忘れないようにしないと。
「今日、健斗の担任の先生に呼び出されて学校に行ってきたのよ。」
仕事から帰宅して、脱いだジャケットをハンガーにかけようと手を伸ばしたときに、後ろから急に妻に声をかけられた。
「健斗が何か問題でも起こしたのか!?」
「違うの。クラスメイトや先生に迷惑をかけたとかそういう話じゃなくて、むしろその逆。」
妻の表情が少しだけ不安そうに翳った。
「逆って、どういうこと。」
「先生が言うには、健斗学校の中であまり友達がいないらしいの。休み時間はずっと一人で、本読んでいるんだって。」
「別に休み時間に友達と外で遊ばなきゃいけないってことはないだろう。それだけで友達がいないっていうのも早計すぎないか。」
「それだけじゃないの。遠足のバスの席決めのとき、仲のいい子同士で隣に座るってなっても、健斗だけ最後まで隣に座る子を見つけられなかったんだって。
たまたま隣に座ってもいいって言う子が現れて、事なきを得たみたいだったけど。」
「それに最近、健斗が休みの日に友達と遊んでいるところ、全然見ていないのよ。」
「・・言われてみると確かにそうだな。健斗が外にでかけるところは全然見ていない。」
「健斗、たまに友達から声をかけられたりはしているみたいなんだけど、自分から人に声をかけていることはほとんどないって先生言ってたわ。
なんか友達と距離を置こうとしているみたいって。ちょっと積極性にかけるので、ご家族にも協力願えないかって。」
小さいときはよく近くの公園で健斗と二人でサッカーをしたり、遊具で遊んだりしていたが、
さすがに小学校にあがると友達と遊ぶようになり、父親と二人だけで遊ぶということはめっきり少なくなってしまった。
共通のアニメや漫画の話となってしまうと、僕も全くついていけず
話の合う同年代と遊ぶ方が楽しいのは至極当然のことだと感じて、それからあまり息子を干渉しないようになった。
子供とのコミュニケーションの機会が減ったことに対して親としては少し寂しくもあったが、
健斗が自分から世界を広げている感じがして、このとき今後の成長していく喜びを感じたのを覚えている。
ただ、ここ最近は外に遊びに出かけることが少なくなっただけではなく、健斗の笑っている顔をあまり見ていないことにも気が付いた。
10歳とはいえ、まだまだ子供。自分で抱えきれない不安や悩みを持っているのかもしれない。
自分が小学4年生のときにどんな生活を送っていたか、記憶を辿ってみたものの
25年経った今では全く思い出すこともできない。
今年に入ってからは仕事が忙しく、休みの日も会社にいることが多かったことで、健斗と接する機会はほとんどなくなっていた。
妻ははまだ話をする機会があるようだが、自分から学校のことを話すこともなく、妻から質問をしてかろうじて会話が成り立っているようなものだったという。
そんなこともあり、息子と本気で向き合うべく二人で尾瀬まで出かけてきたのだ。
「よし、健斗。そろそろ行くか。もう尾瀬沼はすぐそこだ。」
「はーい。」
腰をあげる際、どっこいしょと気づかないうちに自然と口からそんなフレーズがこぼれていた。
年をとるとはこういうことのだろうか。最近では、こうしたちょっとしたしぐさから、衰えを感じるようになった。
小休憩をとった山の鼻から、道は大きく分かれる。
西へ向かうと至仏山という日本百名山にも数えられる標高2281メートルの山への登山口となり、
滑り易い石質に加えて、急な上り坂、鎖場が点在しているため、中級者向けのルートとなっている。
こちらのルートを選択するには足元の装備が必須となる。
逆に東へ向かうと尾瀬ヶ原という広大な湿地帯が広がり、春にはミズバショウ、夏にはニッコウキスゲやヒツジグサを拝むことができて尾瀬の一般的なハイキングコースとなっている。初心者向けのコースでもあり、今回は健斗とこちらを回る予定だった。
歩き始めて数分もすると、周りを覆っていた木々が開けて、数キロ先も見渡せる大きな湿原が眼前に現れた。
「すっげー!お父さん、絶景だねー。東京と全然違う。」
健斗は初めて見る景色に興奮して、左右見渡しながら2本に分かれる木道をぴょこぴょこと跳ね回っている。
「健斗、周りの方に迷惑になるから、ちゃんと右側の道を歩こう。」
「はーい、あ、お父さん見てみて。蓮の花が咲いてる。」
健斗の指の先を目で追いかけると、湿原の至るところに白い花が水の上に浮かんでいた。
「あぁ、ヒツジグサか。いっぱい咲いてるなー。」
「ヒツジグサと蓮って何が違うの?」
「蓮の花の方がもっと全然大きいだろ。水面から高く花茎が伸びて、根っこは横に伸びて蓮根になるんだ。」
「えー。レンコンって、蓮の根っこだったの!?知らなかった。」
「そう、蓮根は水の下に生えているから空気を送るために、中に穴がいくつも空いてるんだよ。」
「へー、さすが俺のお父さん。いろいろなことを知ってるね。」
「勉強になったろ。今度友達にも自慢してあげろよ。」
「・・・。」
先ほどまで興奮して高揚していた表情が、少し曇りだした。
「どうした?急にだまりこんで。」
「・・お父さん、あのね。実は最近友達とあんまり遊んでいないんだ。」
うつむいていた顔をあげて、健斗は意を決したように近況をゆっくりと話しだした。
要約すると、クラスの中で山田君というリーダー的な存在がいて、
体も声も大きいため、周りに対しての発言力がかなり大きく、クラスが彼を中心に回っているとのこと。
彼はスポーツも万能で頭もそこそこ良かったので、周りからの信頼も厚く
初めは健斗も山田君みたいになりたいと尊敬していたようだ。
しかし、周りからの支持を集めると山田君の態度は傲慢になり、
次第にクラスを仕切りだして、理不尽なことを言うことになった。
他のクラスメイトはその山田君にへこへこして、それが彼の傲慢さに拍車をかけた。
山田君の言うことは鶴の一声となり、誰も逆らえなくなったと言う。
健斗はそんな山田君から距離ととるようになり、ほかのクラスメイトも
ジャイアンの機嫌を窺うスネ夫のように見えてきたみたいで、そんな彼らを情けなく思い
かかわらなくなっていったようだ。
「そんなことがあったのか。だからうんちくを披露する友達も今は周りにいないってことか。」
「うん。そう。」
「山田君はそんなに嫌なやつなのかい?」
「最近は体の小さい金子くんとか、テストの点がよくない下田くんをよくバカにしているな。」
「確かにそれはよくないな。先生はそれを知ってるの?」
「いや、それはクラスの問題だし、先生はそこまでかんよしてこないよ。」
不安な表情は先日の健斗の孤立話をしたときの妻の顔とそっくりだなと少し場違いなことを思った。
「そうか。じゃあ、健斗が山田君にそれは間違っているって言ってみようか。」
「え、それじゃあ僕がバカにされる対象になっちゃうよ。お父さんそれでもいいの?」
「自分の子供がバカにされていいなんて親なんていないよ。もちろんお父さんも健斗は友達とうまくやってもらいたい。
でも、今の健斗はそんな山田君や見て見ぬふりをするクラスメイト達にあきれている訳だし、今の状況がいいとは思わないだろ。」
「でも、自信ないし。そんな言葉言えないよ。」
「さっき山ですれ違った人たちに、健斗は元気よく挨拶できていたじゃないか。
知らない人に声をかけることができるんだから、ちゃんと間違っているって一言を健斗だったら言えるはずだよ。」
健斗の目をしっかり見てそう伝えた。
「挨拶するみたいにその一言ことが言えたら健斗の気持ちはスッキリするはずだよ。」
「うん。わかった。今度山田君に言ってみる。どうせ僕、今クラスでも孤立しているようなもんだし。」
もともと正義感の強い子だったので、クラスの中で何もできなかった自分が歯がゆかったのだろう。
「健斗のその一言で救われる人もいるし、それを見ているクラスメイトも絶対いるはずだ。お父さんもついているぞ。」
「うん。」
ゆっくり歩いていたつもりだったが、いつのまにか尾瀬ヶ原を2km近くあるいていたようで
牛首分岐というルートの分かれ道まで到達していた。
本来であればここで引き返して帰る予定だったが、健斗の今の晴れ晴れしい表情を見ていると
もっと自然を堪能したい気持ちになった。
「健斗、もう少し歩けるか。」
「うん。よゆう!」
憑き物がとれたような健斗のこの表情を早く妻に見せてあげたかったが、もう少し男二人の時間を楽しもう。
尾瀬ヶ原は午後の陽光を反射して、湿原がきらきらと輝いていた。