山の鼻と呼ばれる山小屋で簡単な休憩をとることにして、近くのベンチに腰かけて早めの昼食を摂った。
まだまだ残暑の厳しい9月だったが、標高が高いせいか時折吹く風は冷たいくらいで、かき始めてきた汗がいっきに引いてきた。
歩いているときに快適と感じていた気温が、今では少し肌寒く感じる。
ただ、上着の中にもう1枚肌着を着込むほどの寒さではない。

息子の健斗の体力が心配だったが、まだ余力は残しているようだ。
食欲もあるらしく、嫌いな野菜だけを残して妻の作った弁当を美味しそうに頬張っている。


「野菜だけ残すと、またお母さんに怒られるぞ。」
「大丈夫。野菜はごみ箱に捨てて、弁当箱には残さないようにするから。」
普段からこんなことをしているのか、何の悪びれもなく、健斗は平気でそう呟いた。

「お父さんの前でそれを言っちゃダメなんじゃないか。
それに山の中では、ごみ箱は設置されていないし、自分たちで出したごみはきちんと自分達で持ち帰らなきゃダメなんだぞ。」


そう、ここ尾瀬は貴重な自然を守るためにハイカー達に対して、いろいろなマナーを設けている。
例えば、野生生物を守るため、犬などのペットの持ち込みや動植物を採取することも、落枝を杖にすることさえも禁止されている。
もちろんゴミを捨てることなんてもっての他だ。
登山では一人ひとりがマナーを守り、自然と触れ合うことが大切なのだ。


「こっそり土の中に埋めちゃえばいいじゃん。野菜だから自然に還るでしょ。」
「自然の生態系を守るために、野菜を土に埋めるのもダメ。ここに来るまでも車の排気ガスから緑を守るためにわざわざバスで来たくらいだろ。」
「ちぇっ、わかったよ。帰りのコンビニで捨てていくからいいよ。」

そんな面倒なことをするのならば、今ここで食べてしまえばいいのに。
ただ、妻ほどコミュニケーションを図ってきていない僕からその言葉を放つと、せっかくいい感じになってきた登山が水の泡となってしまう。
深呼吸をして、水筒の中のポカリスエットとその言葉を一気に飲み込んだ。今日の目的を忘れないようにしないと。



「今日、健斗の担任の先生に呼び出されて学校に行ってきたのよ。」
仕事から帰宅して、脱いだジャケットをハンガーにかけようと手を伸ばしたときに、後ろから急に妻に声をかけられた。

「健斗が何か問題でも起こしたのか!?」
「違うの。クラスメイトや先生に迷惑をかけたとかそういう話じゃなくて、むしろその逆。」
妻の表情が少しだけ不安そうに翳った。

「逆って、どういうこと。」
「先生が言うには、健斗学校の中であまり友達がいないらしいの。休み時間はずっと一人で、本読んでいるんだって。」
「別に休み時間に友達と外で遊ばなきゃいけないってことはないだろう。それだけで友達がいないっていうのも早計すぎないか。」
「それだけじゃないの。遠足のバスの席決めのとき、仲のいい子同士で隣に座るってなっても、健斗だけ最後まで隣に座る子を見つけられなかったんだって。
たまたま隣に座ってもいいって言う子が現れて、事なきを得たみたいだったけど。」
「それに最近、健斗が休みの日に友達と遊んでいるところ、全然見ていないのよ。」
「・・言われてみると確かにそうだな。健斗が外にでかけるところは全然見ていない。」
「健斗、たまに友達から声をかけられたりはしているみたいなんだけど、自分から人に声をかけていることはほとんどないって先生言ってたわ。
なんか友達と距離を置こうとしているみたいって。ちょっと積極性にかけるので、ご家族にも協力願えないかって。」


小さいときはよく近くの公園で健斗と二人でサッカーをしたり、遊具で遊んだりしていたが、
さすがに小学校にあがると友達と遊ぶようになり、父親と二人だけで遊ぶということはめっきり少なくなってしまった。
共通のアニメや漫画の話となってしまうと、僕も全くついていけず
話の合う同年代と遊ぶ方が楽しいのは至極当然のことだと感じて、それからあまり息子を干渉しないようになった。

子供とのコミュニケーションの機会が減ったことに対して親としては少し寂しくもあったが、
健斗が自分から世界を広げている感じがして、このとき今後の成長していく喜びを感じたのを覚えている。
ただ、ここ最近は外に遊びに出かけることが少なくなっただけではなく、健斗の笑っている顔をあまり見ていないことにも気が付いた。


10歳とはいえ、まだまだ子供。自分で抱えきれない不安や悩みを持っているのかもしれない。
自分が小学4年生のときにどんな生活を送っていたか、記憶を辿ってみたものの
25年経った今では全く思い出すこともできない。

今年に入ってからは仕事が忙しく、休みの日も会社にいることが多かったことで、健斗と接する機会はほとんどなくなっていた。
妻ははまだ話をする機会があるようだが、自分から学校のことを話すこともなく、妻から質問をしてかろうじて会話が成り立っているようなものだったという。

そんなこともあり、息子と本気で向き合うべく二人で尾瀬まで出かけてきたのだ。



「よし、健斗。そろそろ行くか。もう尾瀬沼はすぐそこだ。」
「はーい。」
腰をあげる際、どっこいしょと気づかないうちに自然と口からそんなフレーズがこぼれていた。
年をとるとはこういうことのだろうか。最近では、こうしたちょっとしたしぐさから、衰えを感じるようになった。

小休憩をとった山の鼻から、道は大きく分かれる。

西へ向かうと至仏山という日本百名山にも数えられる標高2281メートルの山への登山口となり、
滑り易い石質に加えて、急な上り坂、鎖場が点在しているため、中級者向けのルートとなっている。
こちらのルートを選択するには足元の装備が必須となる。
逆に東へ向かうと尾瀬ヶ原という広大な湿地帯が広がり、春にはミズバショウ、夏にはニッコウキスゲやヒツジグサを拝むことができて尾瀬の一般的なハイキングコースとなっている。初心者向けのコースでもあり、今回は健斗とこちらを回る予定だった。


歩き始めて数分もすると、周りを覆っていた木々が開けて、数キロ先も見渡せる大きな湿原が眼前に現れた。
「すっげー!お父さん、絶景だねー。東京と全然違う。」
健斗は初めて見る景色に興奮して、左右見渡しながら2本に分かれる木道をぴょこぴょこと跳ね回っている。
「健斗、周りの方に迷惑になるから、ちゃんと右側の道を歩こう。」
「はーい、あ、お父さん見てみて。蓮の花が咲いてる。」
健斗の指の先を目で追いかけると、湿原の至るところに白い花が水の上に浮かんでいた。
「あぁ、ヒツジグサか。いっぱい咲いてるなー。」
「ヒツジグサと蓮って何が違うの?」
「蓮の花の方がもっと全然大きいだろ。水面から高く花茎が伸びて、根っこは横に伸びて蓮根になるんだ。」
「えー。レンコンって、蓮の根っこだったの!?知らなかった。」
「そう、蓮根は水の下に生えているから空気を送るために、中に穴がいくつも空いてるんだよ。」
「へー、さすが俺のお父さん。いろいろなことを知ってるね。」
「勉強になったろ。今度友達にも自慢してあげろよ。」
「・・・。」
先ほどまで興奮して高揚していた表情が、少し曇りだした。

「どうした?急にだまりこんで。」
「・・お父さん、あのね。実は最近友達とあんまり遊んでいないんだ。」
うつむいていた顔をあげて、健斗は意を決したように近況をゆっくりと話しだした。


要約すると、クラスの中で山田君というリーダー的な存在がいて、
体も声も大きいため、周りに対しての発言力がかなり大きく、クラスが彼を中心に回っているとのこと。

彼はスポーツも万能で頭もそこそこ良かったので、周りからの信頼も厚く
初めは健斗も山田君みたいになりたいと尊敬していたようだ。

しかし、周りからの支持を集めると山田君の態度は傲慢になり、
次第にクラスを仕切りだして、理不尽なことを言うことになった。
他のクラスメイトはその山田君にへこへこして、それが彼の傲慢さに拍車をかけた。
山田君の言うことは鶴の一声となり、誰も逆らえなくなったと言う。

健斗はそんな山田君から距離ととるようになり、ほかのクラスメイトも
ジャイアンの機嫌を窺うスネ夫のように見えてきたみたいで、そんな彼らを情けなく思い
かかわらなくなっていったようだ。


「そんなことがあったのか。だからうんちくを披露する友達も今は周りにいないってことか。」
「うん。そう。」
「山田君はそんなに嫌なやつなのかい?」
「最近は体の小さい金子くんとか、テストの点がよくない下田くんをよくバカにしているな。」
「確かにそれはよくないな。先生はそれを知ってるの?」
「いや、それはクラスの問題だし、先生はそこまでかんよしてこないよ。」
不安な表情は先日の健斗の孤立話をしたときの妻の顔とそっくりだなと少し場違いなことを思った。

「そうか。じゃあ、健斗が山田君にそれは間違っているって言ってみようか。」
「え、それじゃあ僕がバカにされる対象になっちゃうよ。お父さんそれでもいいの?」
「自分の子供がバカにされていいなんて親なんていないよ。もちろんお父さんも健斗は友達とうまくやってもらいたい。
でも、今の健斗はそんな山田君や見て見ぬふりをするクラスメイト達にあきれている訳だし、今の状況がいいとは思わないだろ。」
「でも、自信ないし。そんな言葉言えないよ。」

「さっき山ですれ違った人たちに、健斗は元気よく挨拶できていたじゃないか。
知らない人に声をかけることができるんだから、ちゃんと間違っているって一言を健斗だったら言えるはずだよ。」
健斗の目をしっかり見てそう伝えた。
「挨拶するみたいにその一言ことが言えたら健斗の気持ちはスッキリするはずだよ。」
「うん。わかった。今度山田君に言ってみる。どうせ僕、今クラスでも孤立しているようなもんだし。」
もともと正義感の強い子だったので、クラスの中で何もできなかった自分が歯がゆかったのだろう。
「健斗のその一言で救われる人もいるし、それを見ているクラスメイトも絶対いるはずだ。お父さんもついているぞ。」
「うん。」


ゆっくり歩いていたつもりだったが、いつのまにか尾瀬ヶ原を2km近くあるいていたようで
牛首分岐というルートの分かれ道まで到達していた。
本来であればここで引き返して帰る予定だったが、健斗の今の晴れ晴れしい表情を見ていると
もっと自然を堪能したい気持ちになった。

「健斗、もう少し歩けるか。」
「うん。よゆう!」
憑き物がとれたような健斗のこの表情を早く妻に見せてあげたかったが、もう少し男二人の時間を楽しもう。

尾瀬ヶ原は午後の陽光を反射して、湿原がきらきらと輝いていた。

9歳、俺はマイクだった。

名前じゃない、マイクロフォンになりきっていたんだ。

6歳上の姉ちゃんは当時憧れていたロッカーの真似をして、俺をマイク代わりに立たせ、よく抱きかかえて歌っていた。

俺は一緒に遊んでもらえるのが嬉しくて楽しくて、マイクになりきっていたよ。

直立不動で頭をぐんとそびえて、一歩も動かない、喋らない。

抱きかかえられて斜めになっても、まっすぐ一本のマイクになりきっていた。

頭に赤いバンダナを巻いた姉ちゃんは、よくバランスを崩して俺を床に転がしたが、マイクは喋らないから無言のまま倒れなきゃいけない。

それがなんだか可笑しくて、俺たちはよくこのマイクとロッカーごっこをやっていた。


だから、学校で将来なりたいものという題材で作文を書かせられたとき、おれは迷わず書いた。

「僕は将来、マイクになりたいです」

最悪な事に作文は授業参観日に親がいる前で発表され、おれはクラスメートと親の爆笑をさらった。

そしてもうひとり、笑いをさらった作文を書いたのが矢島孝則だった。

矢島の作文は北関東の田舎町に住みながら世界を見据えていた。

「僕は将来、大統領になりたいです」

小賢しく他人の揚げ足をとるのが得意な香山マコトが言った一言が矢島を後に引かせなかった。

「なあ、日本は大統領じゃなくて総理大臣だろ、間違ってんじゃん」

香山の声は高くクラス中に響きわたり、嘲笑を誘った。

しかし矢島は一歩もひかず、いやおれは大統領になるんだと言い張ったため、その後のあだ名が決定した。

俺、北川悟が「マイク」で矢島孝則は「大統領」。

どっちもバカみたいなあだ名だろ?

もちろんつけたのは香山マコトだ。

40歳を過ぎた今やつは田舎の役場で課長になっていてデカいツラして威張っている。

と、この前久しぶりに電話をかけてきた母ちゃんが言っていた。

そう矢島に話すとフフンと鼻をならした。

「木っ端役人が!」

さすが大統領志望だった男は違う。

皆の憧れ公務員を木っ端役人と斬り捨てた。

俺たちは今、東京の空の下、矢島の古くて汚い倉庫を改築した古物屋の中でTシャツを汗で濡らし明日のフリマで売る商品の値札をつけている。

残暑というには暑すぎる。

9月だというのに店の柱にくくりつけられている温度計は30℃を超え、風通しの悪い元倉庫内は無風状態だ。

そんな中、ハンドラベラーで300だの、500だのと細かい値段をぺたぺた貼っていると時間の感覚が薄れていく。

しかし、今の俺にはこの終わりのない作業がありがたかった。

家にいてもひとり落ち込み苦悩の声をあげるばかりで、部屋の空気を淀ませる事しかできない。

なんでこんな事になったのか。

あぁ、おもわずまた、ため息が漏れる。

「っなぁ、そのため息、幸せが逃げるからやめろよ!」

矢島はそう言って掌くらいの小さな箱をおれに投げつけた。

「んだよ、俺が落ち込んでんのに。ちょっとは優しくしろよ」

投げつけられた箱から、カーケシと呼ばれていた昔のスーパーカー消しゴムがどばっと飛び出し、バラバラと床に落ちた。

「懐かしいなぁ。俺も持ってたよ、こういう箱にしまってさ。自分のがわかるようにいちいち裏に名前を書いてたっけ。クラス中の男子、みんな持ってたかんな」

赤いカーケシを拾い上げぐるり一周みると、裏に微かに読み取れる文字があった。

「おい、このカーケシも名前あるぜ!」

「え~と、さ・と・る、か!俺と同じ名前だ!!すげえ、偶然!!」

興奮して矢島に話しかけると、奴は無表情のままハンドラベラーを打ちながら言った。

「それお前のだぜ。この前田舎に帰った時、お前の母ちゃんが不用品だから良かったら引き取ってくれって持ってきたんだから」

「なんだよ、それ?なんで俺のものがここにあんだよ!つうか、母ちゃん俺のものを勝手に捨てたのか!くっそ~!」

俺が悔しがっていると、矢島は面倒臭そうに近くにあった煎餅やの箱を指差した。

「あれ、お前の遺物じゃね?昔、見た事あるものとか入ってたし」

箱を引き寄せ、中を確かめると忘れていた俺の昭和遺産が入っていた。

「そういや母ちゃん、電話で断捨離にハマッていて、部屋が綺麗になったと自慢していたっけな。そうか、俺のものまで捨てたのか。そうだ、どうせ俺は捨てられるんだ・・。」

箱の中のものを確認しながらため息まじりに言うと、今度は汚ねえ女物のサンダルが飛んできた。

「あ~、ちっせえ、ちっせえ、ちっせえ!!なんだよ、さっきからため息ばっかり、うざいな。だいたい、お前のため息の原因は嫁が男作って出ていっただけだろ?」

「なんだよ、それだけじゃねえぞ。家庭不和のせいで、仕事でミス連発してあのいつもは嫌味な部長に優しくちょっと休めって言われてみろ、絶対いまのプロジェクトから外される!」

「わかったから、叫ぶなよ。はいはい、ちょっとウツ気味で僕ちゃん不調なだけですよ。

でもよ、お前の困りごとってさ一流の困りごとなんだよな。電化製品で言えば東芝とかパナソニック。そんな困りごと、コイズミとかヤマデンレベルの俺からしたら笑っちゃうぜ」

矢島はもくもくと値札つけをしていたが、茶のハンドバッグを片手にスッと立ち上がった。

あ、あのバッグ、母ちゃんのだ。

「俺はな、今!現在!なう!この店を維持できるかどうかの瀬戸際なんだよ!」

叫ぶ詩人の会ばりに矢島は雄たけびをあげた。

「いいか、お前のは嫁がいたり会社員だからこその困りごとだろ!しかも休暇を二週間とっても、給料は貰える!俺は嫁もない、会社員でもない、何もナイナイシックスティーンなんだよ!この小汚ねえ古物屋しかねえ。必死で貯めた金でやっと店もったけど、いつまでたっても自転車操業、火の車、金もねえ男には女もよってこねえ。この店だって、家賃滞納してんだ、今月分払えないなら出ていけって金のロレックスはめた25.6才の親の不動産屋で働く土地持ちボンボンに言われてみろや」

矢島はがっくりと肩を落とし、顎を前につきだした。

奴が落ち込んだ時には必ず顎が出る。

「な、へこむだろ。お前よりも深刻なんだよ、米買う金もねえんだぞ。これが三流の困りごとだ!40才過ぎの俺のなう!どうよ?」

「お前の自由の象徴、自慢のアフロヘアも泣いてるな。でもお前の困りごとは自由との引き換えだろ?」

「あ~、冷たいねぇ。バブルの残り香嗅いで、大量採用時代にうっかり一部上場会社に滑り込んだ奴は。自分の困り事は、全部持っているからこそのものだって自慢してんのか!」

俺の母ちゃんが昔ヨーカドーで買ったバッグを握り締め、矢島は吠えた。

「・・・お前も相当ストレスたまってんだな」

「いや、ストレスとかいうな!俺は何でもストレスのせいにするのは嫌いなんだよ!」

「あ~。まあな。俺もだ。まっ、明日のフリマで稼いで少しでも家賃払え」

「・・・・がんばりまっす!」

矢島は足を揃え、手を額に敬礼のポーズを決めた。

とても40代とは思えぬ会話はそこで終わり、矢島は黙々と値札貼りに戻った。

俺は田舎の母ちゃんが捨てた昭和遺産が詰まったダンボール箱をひっくり返して見た。

カピカピになった黒のマディソンバッグや、近鉄バッファローズの野球帽と共に、それは出てきた。

見るまで、すっかり記憶から抜け落ちていた俺の高校時代の青春!

俺は涙を流してそれを手にとり、矢島にかざした。

矢島は顔を上げると、ウオッと叫んだ。

「そ、それは、あの伝説の学園祭ライブ、横浜国大でチャーミーが投げたガーゼシャツ!!

お前はそれもあの田舎に置き去りにしていたのか!」

「矢島、しかも愛用していたラバーソールもある!」

俺は泣きながら言った。

矢島は姉ちゃんが昔よく下げていたピンクのポシェットを首から提げてぴょんと跳ねて両手を広げた。

「カモ~ン!!履け!履くんだ!昔のお前を思い出せ!あの輝いていた頃を!」

Tシャツの上にカビ臭いガーゼシャツを被り、アディダスを厚底五センチはあるラバーソールに履き替えると、俺の空洞のようにスカスカの胸に何か熱いものが湧いてきた。

「跳ねろ!跳ねるんだ!ロック魂は跳ねてナンボだろ!」

何処から持ってきたのか、矢島はポシェットを提げたまま弦の切れたギターを弾く真似をしながら歌を絶叫し始めた。

「ゲットザグローリー!!」

矢島がギター片手にとび跳ねる。

あの雨の横浜国立大学の学園祭でラフィンノーズが歌っていたように!

あの時と同じようにアフロが揺れる。

自由が揺れる。

そうだ!

誰よりも高く、高く、俺は飛び跳ねて、自分の小さな世界から飛び出したかったんだ!

中敷がグズグズのラバーソールは足裏がぼこぼことしていたが、おれは跳んだ!

大きく跳んだ!

飛び跳ねた!

「俺はこんな事で、へこたりねえぞ!」

「そうだ、お前はそんな事で悩むために生まれてきた訳じゃねえ。思い出せ、お前のロック魂を!マイク~!!!!」

俺たちは歌いながら、息切れしながら、飛び続けた。

すると、どんどん心が弾み胸の中が嬉しさでいっぱいになった。

いつのまにか忘れていた気持ちが溢れだす。

その気持ちをなんて言うのかはわからないが、楽しくて嬉しくて飛び跳ねずにはいられない、そんな感じだ。

歌い飛び跳ねていると、心のずっと奥のほうで、一度死んでいた自分が生まれてくるような気持ちになっていく。

なんだろうな、これ、生まれてきたのが嬉しくてしょうがない気分だ!

ノリノリでエアギターを弾きながら、飛び跳ねアフロを揺らす矢島の後ろでこの前の台風で飛ばされた看板がチラチラ見え隠れする。

「ないものはない!古物屋大統領」

バカでアホで明日喰うものにも困ってはいるが、矢島は宣言通り大統領になっていた。




「明日早いんだから、早く休みなさい。さすがに寝坊はできないわよ。」
階下から母、美代子の声が届いた。

「はーい。1時までにはちゃんと寝るから、大丈夫。」
自室のクローゼットから昔のアルバムやノートを引っ張りながら、マミは返事をした。
26歳にもなって母に寝起きの心配をされている娘も娘だが、明日結婚式という大イベントを控えている身であればその慮る気持ちも当然なのだろう。


それにしても昔の写真や手紙は出てくるのだが、さっきから探し続けている目当てのノートだけがいっこうに見つからない。

学生時代に使用していた淡い思い出は、クローゼットの奥に仕舞いこんだままのはずだったので、
すぐに目的のものは見るかるはずだったのに。

自室とはいえ、マミが大学入学に合わせて実家を離れてから8年。
毎年正月やお盆には必ず実家に帰省はしていたが、クローゼットを開くことなど皆無に等しかった。

目的のものとはマミが7歳から15歳まで綴っていた日記なのだが、
ただの日記ではなく、父の正晴と続けていた二人の交換日記だった。


かれこれ1時間も探しているのだが、いっこうに見つかる気配がない。
このまま日記が見つからないまま明日を迎えるのは気持ちが悪かったので、階段を降り、まだ居間でテレビを見ていた母に駄目元で尋ねてみた。


「お母さん、ゴメン。わたしの昔の日記、知らないよね?」


「あら、まだ起きてたの。日記・・ああ、例の日記でしょ。確かお父さんの書斎にあったわよ。」


「うそ、あんな日記残しておいても恥ずかしいから、封印しておいたのに・・なんで。」


「マミの日記は15歳で止まっちゃってたけど、マミが家を出てから、お父さんまた一人で続けていたのよ。」

「え、お父さんが一人で?お母さん私の代わりに付き合ってあげれば良かったのに」


「何バカなこと言ってるのよ。そんな恥ずかしいことできるわけないじゃない。」
それから母は、もう寝るよと言ってそのまま寝室へ消えてしまった。


父の書斎へ勝手に足を踏み入れることは、家族の中ではタブーとなっていたが
ここまで探して諦めきれず父の書斎にこっそり入って、本棚を調べてから机の中を確認してみると
二人で綴った交換日記、8冊分が出てきた。
正確にいうと日記の数は12冊あり、見慣れないノートの4冊が父の一人の日記となっていたようだ。

表紙に『1994』と書かれたノートをめくってみると、懐かしい父の文字とまだ拙かったマミの文字が目に入った。


日記を始めたきっかけは単純な理由で、当時クラスのほとんどの女子が持っていた手帳がどうしても欲しくて、散々父にねだり、買ってもらう交換条件として持ち出されたのが、この父娘間での交換日記だった。


父の職業が中学校の国語教師ということもあり、日記を始めた当初、漢字の勉強や
文法の練習を兼ねて日々の出来事を綴ることはマミにとって正直楽しかった。

再三指摘をされた結果『ら抜き言葉』を克服することができたし、
父の日記の中で知らない漢字が山ほど出てきて、それらを毎日目にすることで
自然と漢字が身に付き、おかげで漢字テストではほとんど満点をとることだできた。
その点では正しい日本語を教示してくれた父に感謝をしてはいるのだが、
反面、父側の日記の内容は、確実に小学生の娘に見せられるものではなく、
平気で教え子を誹謗中傷したり、罵るようなことも多く見られた。


本当に変わった父親だった。


一緒にテレビを見ていて、ニュース番組が始まり、キャスターが誤った日本語を言ったものなら
「ほんとに大学でているのか、このアホは。」「もっと言葉に責任を持って話せ。」などと罵ったいたかと思うと、その後に始まった動物の特集番組で、白クマ親子の過酷な一生を見ていたら、感動してわんわん泣いてしまうような人だった。

マミとしては、男の人は滅多に涙を見せることのない人種と勝手に思い込んでいたので
父親が声を出して泣いている姿を見て、妙に興ざめしたほどだ。


教師という立場だからかどうか不明ではあるが、人と一線を置いて冷静に観察することのある人でもあった。


マミが小学5年生のとき、夏休み入ってすぐだったと思う。
仲の良かった友達数人とプールへ出かけて、自宅に帰ってみると家の前に知らない女の子が一人立っていた。
背はマミよりもずっと高く、服装や雰囲気からして、中学生だなとぱっと見た感じで判断することができた。
近づくとその女の子は目が大きく、顔が整っていて、同性のマミが見てもうっとりするほどの美少女だった。
ただ、その美少女は不機嫌な様子で、マミをしたためると開口一番、
「あなたが噂のマミちゃんね?」と決して感じの良いとはいえないぞんざいな言葉を投げかけた。


「え、はい。そうですけど・・」
突然の質問に動揺しつつもそう答えるしかなく、目をそらしながら答えると
「先生が自慢するほどの子じゃないじゃない。わたしの方がずっとかわいくて聡明じゃないの。」
そう言うとその美少女はフンと鼻を鳴らして、マミには一瞥もくれず、スタスタと駅方面へ歩いて行ってしまった。
ほんの数分の出来事だったが、マミからしてみれば知らない人に自分を否定されたような
微妙な居心地の悪さだけが残った。


後々知ったのだがその子は西里ほのかという父の教え子だった。


日記の中で父が面倒くさい女子として綴っていた子がこの西里ほのかだった。
容姿や特徴を確認してみると、一度だけ会ったあの美少女と見事に一致していた。

言動を見る限り、明らかに父に気があったようで、
毎日手紙を渡したり、相談があると言ってしょっちゅう父を進路相談室に呼び出していたらしい。
その生徒に対して、『ませたガキ』だの『調子にのっている』だの明らかにその教え子に辟易しているようだった。

父の魅力に理解が得られないマミからしてみれば、何故あんなに可愛い子がこんな父に憧れているのかが本当に謎だった。


ただ、不思議なことに父は昔から女子生徒に人気があったようで
マミの母である美代子もその一人であったと母に聞かされたことがある。


厳格ではあるが、どこか可愛げのある父の正確に次第に惹かれ
母の猛アタックの末、交際が始まったらしい。

もちろん教師と生徒という立場上、母が在学中はさすがに弁えていたようだが
母が中学を卒業してから本格的に交際が始まり、そして三年後に母が高校を卒業を待って結婚をしたようだ。
交際期間中、周りの目を気にして堂々と付き合うことはなかったが
毎日二人で交換日記を行って、愛を育んでいたようだ。


さすがに両親の交換日記を覗いたことはなかったが、父は当時からこんな感じだったのだろう。
この母との交換日記が、マミとの交換日記を始める原型となっていたことは間違いないようだだった。

マミが高校に入ると、身近な異性が煩わしいと感じる一般的に反抗期と呼ばれる時期が始まり
さすがに父親と日記をしていることが無性に恥ずかしくなり、自然と交換日記を開くことはなくなり、
気が付くとクローゼットの奥に封印されてしまった。


まさか父が改めて日記を引っ張り出し、一人で綴っていたなどとは考えもしなかった。

11年ぶりにぱらぱらと昔の交換日記を捲っていると、当時のマミの初恋について記していた一文が目に止まった。
今見返してみると顔から火が出るくらい恥ずかしいことをよくもまぁ、父親に見せることができたなと
複雑な気持ちでいると、そのあとの父の日記が気になって覗いてみた。

すると、『マミは見せかけだけの魅力にとらわれているだけで、この男の本質をまだ理解できていない。男を知るにはまだ若すぎる』と教師らしい感想を綴っていた。
そのあとの自分の感想も気になり、あとを見てみると、その父の達観したコメントが気に入らなくて、3日間ふてくされて日記をボイコットしていたようだ。
父は教師としての威厳をふるっていたのかもしれないが、今見返してみるとただ、マミの初恋の男の子に嫉妬しているようにしか見えなかった。


こういったことを含め、過去の出来事を振り返ると父の傍若無人ぶりが本当に懐かしく感じられた。


それから後ろめたさを感じながらも、マミが家を出てから父が一人で綴っていた日記を覗いてみると
ほとんどがほそぼそとした夫婦のくらしが載っているだけだったが、たまにマミが帰省したときの歓喜の一文やマミが滅多に連絡をよこさないことへの不満などがたまに記載されていた。


そんな中でも、いたるところに母やマミのことを本当に気遣い二人のことを本当に愛してくれていると感じとることができた。


ふと気が付くと、時計の針はすでに夜中の二時を回っていた。
さすがにそろそろ床に就かないと明日の結婚式に遅刻してしまうと、日記を持って父の書斎から出ようとしたとき隣の両親の寝室から大きな父の鼾が響いた。


もう、ほんとに困った父親だ。


明日の結婚式では母への感謝の手紙を読み上げることになっていたが、父への感謝の気持ちを言葉で伝えるのはやっぱり恥ずかしいので、この日記にこっそり残しておこう。