静江が戻ってこない。
旦那の目をくらますために山奥の断食道場にこもって、そこを抜け出して落ち合う予定が、
もう2週間もたってしまった。携帯に電話しても全く通じない…やっぱり…旦那の所に帰ったのかな。
それならそれで仕方のないことだ。
もともと、ことの発端は静江がDVの旦那に殴られて可哀想だからいっしょに逃げようかということになっただけのことで恋愛感情は、欠片もなかった。
昔ひどい別れ方をして、悪かったなと心のどこかで思っていたところでボロボロの静江と再会して罪滅ぼしのような気持ちだった。

今の毎日を惜しいとも思わなかったし、DV旦那から逃げるつもりで、会社を辞めてアパートも解約して手元に残っているのは、わずかばかりの貯金と軽のキャンピングカーが一台。ボロボロの静江があんまり俺にしがみついてくるから、それが心地よくて、このまま二人で逃げるところまで一緒に逃げて、どこかほどほどの所で心中でもすればいいと思ってたのに、困ったな。
一人では死ぬ気にならないし、帰るところも、行くところもない。

断食道場を離れる気にもなれず、とりあえず近くの大型ショッピングモールに入りぶらぶらとフードコートに向かうことにした。
平日のショッピングモールのフードコートはがらんとしていた。給水機の水をコップに入れ4人がけのテーブルにつく。
広々としたフードコートの中に、てんてんと幼児を連れた母親と、30代くらいの女たち、80歳くらいの男が食事をしていた。

こんなところで一人で飯を食っている年寄りってのは、どういう生活してんだろうな。
やっぱり孤独なんだろうか。このままの生活を続けてたら俺もあんな風になったのかもしれないな。
考えると気持ちが、ずーんと暗くなる。
こんな気持ちになるのが嫌だから、静江と逃げたかったのかもしれないな。

と向かいの席に誰かの気配を感じた。
「お父さん」
驚いて顔をあげると、そこに座っていたのは元娘だった。
いや、娘に元はない。元妻の娘…?
元妻が連れて行った俺の娘だった。
「真由…ほんとに?どうして?」
「テスト休みで友達と買い物に来てた」
真由の視線の方向を見ると少し離れたテーブルに女子高生が5人座って
ペコリと会釈をしていた。

戸惑いつつ会釈を返し考える。
そうか、この街は妻の実家からそう遠くなかったな。
「お父さんに似てるなって思ってずっと見てたのに、全然こっち見ないから」つぶやく。妻と別れたのは7年前。真由はその時10歳だった。
「そうか。まさか真由に会えるなんて思わなくて気づかなかった。こんな大きい真由なんて想像もできなかった。元気か?」
「はは…だよね。元気元気。お父さんは?…」
真由の視線が俺のシワシワのTシャツからテーブルの上の紙コップへと移る。
「わたし、ランチしに来たんだけど、お父さんも何か食べる?お金あるよ」
「お金は、お父さんだってあるよ。こんなところ来たことないから何食べようか迷ってたんだよ」
「あはは。そっかごめん、お父さんすごい落ち込んでるみたいだったから、お金が全然ないのかと思った」
その時、5人組の女子高生が真由~と呼んだ。
「わたし、もう少しお父さんといる~」と手を振りながら真由が返すと、
女子高生たちは立ち上がり手を振りながらショッピングフロアの方に出て行った。
俺は内心慌てた。7年ぶりの娘と何を話していいかわからないし
こんな自分の状況を知られてはまずい。口をついて出たのは
「いいのか友達といかなくて」という言葉だった。

真由は、俺をまっすぐに見つめている。気まずさを感じるくらいの沈黙の後
「お父さんと、一緒にご飯を食べたいんだけど…だめかな」

視線を受け止めきれず、下を向く。
俺が悪い。俺は夫としても、父親としても失格だった。
こんな俺は、妻や娘に二度と会うことは許されない。
7年間、そう言い聞かせてきた。

「やっぱり…だよね」真由が泣きそうな声でつぶやく。

自業自得だから、もうあわせる顔がない。
俺とは別の世界のことだあきらめよう。

「いいよ。ごめんね。だめかなと思ったけど、もしかしたらと思って言ってみただけだから」
真由は慌てたように言い笑ってみせる。指先が震えている。

俺は…自業自得を言い訳にして娘を傷つけている。
別の世界とあきらめるふりをして、逃げている。
目の前にいる娘が震えるほど勇気を振り絞っている時に。

「何が食べたい?」
真由の驚く気配が伝わってくる。ぱーっと明るくなる気配が。
「こうゆうところはよくわからないんだ。真由のおすすめを食べよう。」
「パンケーキにする?すごく流行ってるんだよ!」
「じゃあそれにしよう」一万円札を渡すと真由は嬉しそうに立ち上がり、
カウンターに走っていった。

ずっと、傷つけたくないんだと言い訳して、傷つけてきたのかもしれない。
傷つきたくなかったのは俺だったんだな…

満面の笑みを浮かべて真由が運んできたのは
山のような生クリームをのせたパンケーキだった。

甘さに閉口しながらも、2人で食べるパンケーキは格別の味がした。
「この近くに住んでるの?また、いっしょにごはん食べたりできる?」
小さな声で、真由が聞く。
「もちろんだよ」俺は答える。

早急に、仕事と住むところを探さなくては。
「そうか、ごちそうさまでした。」
真由は満足げな声で、俺に向かって手を合わせた。

2人で立ち上がって歩きだすと右手に真由の左手がそっと繋がれた。
小さくて、柔らかくて緊張したその手を、ぎゅっと握りしめると
ぎゅっと握りしめ返してきた。

困ったな。嬉しくて涙が溢れてきてしまった。
こんなみっともないところを真由に見られるなんて困る。
真由の顔をそっとうかがうと、真由も泣いていた。
気配を感じて、顔をあげ目が合うと真由が笑った。
涙でくしゃくしゃになった顔をさらにくしゃくしゃにして真由が笑っていた。

この世界に初めて生まれてきた時と同じ顔で真由は笑っていた。
野良作業から戻り、お風呂で汗を流すとあたりは夕暮れにかわっていた。

いつもなら夕飯の時刻だが、食事という一大イベントがないので、参加者4人は広間でテレビを見ながらゴロゴロしている。DV男の襲来があったので、中森さんになんと声を掛けて良いのか分からず、それぞれ微妙な距離を保ちながら過ごしている。おじさんは昼間の一件が気になるのかチラチラと中森さんを見ているが、結局他のメンバーも中森さんにはあれ以降、いっさい声をかけなかった。

「あー、ひま」

ギャルのアスカちゃんはこっちに来て喋りたそうにしているが、中森さんの手前、彼氏の話を続ける訳にもいかず、つまらなそうにしている。一応、そのあたりの気の遣える所がこの子を憎めない所なのかもしれないなとぼんやり思った。私は、時おりテレビを見て話し出すアスカちゃんの芸能人のうわさ話に適当な相づちを打ちながら、聞き流している。空腹で喋る元気もない私にはそれが今できる精一杯だった。

あと半日頑張れば、念願の食事にありつける。

食事を制限するためにここに来たのに、結局食事の事しか考えられないなんて、アスカちゃんのことをバカにできない。アスカちゃんは彼氏の事、私は食事の事。目をつぶれば、焼きたての甘ーい香りのパンやら、鰹節が踊るお好み焼きなどやたら味の濃い食べ物ばかりがまぶたの裏を駆け巡っていた。

食事の事で頭がいっぱいな私なんかよりよっぽど、彼氏の事で食事ものどを通らないというアスカちゃんの方が男の人にはかわいく映るだろう。こんな事では断食道場なんて何の意味もない、なんて弱気な気持ちになってくる。

そんなことを考えていると、スーッとふすまが開き、お茶を持った坊さんが広間に入ってくる。

「こんばんは。みなさん、いかがですか?今が一番つらい時間とちゃいますか?普段、あれやコレや食べ過ぎて負担をかけてる胃腸をお休みさせてると思たらね、明日から自分の身体に感謝して過ごせると思いますよ」

お茶を配りながら坊さんは、ありがたいお言葉を投げかけてくるのだけれど、残念ながら私以外にはあまり響いていないはずだ。

「あとね、昼間お騒がせした男の方ね、もうおらんかったわ。ひと立ち回りしはったんも、空腹にはかなんかったかな。もう山を下りてはるやろ。安心し」

中森さんの表情がパッと明るくなった。
おじさんも中森さんを見つめていて、アスカちゃんもキャっと小さく手を叩いた。

「ありがとうございます」

中森さんが礼を言うと、坊さんはウインクしながら手をふった。坊さんらしからぬ態度だ。

「山やからね、いろんな動物もおるし、夜は冷えよる。風邪ひかれても困るんで外には出んといて下さいね。戸締まりしときますさかいに。私らも上のお寺の宿房に帰るんで、9時になったらそれぞれお部屋に帰って寝て下さいね。朝の9時ちゃいますよ。ハハハ」

そう言うと、坊主はふすまを閉めて広間を後にした。テレビではスポーツの結果などを放送していたが、おじさんは明るい表情になった中森さんの方を変わらずじっと見つめていた。

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部屋に帰っても、窓のない宿房で布団に入るが眠れる訳がない。遠くで小さくブゥンとエンジン音のようなものが聞こえた。昼間お手伝いをしていたパートのおばさんでも帰るのだろうか、都会では気にならないが、こんな小さな音でも気になって眠れない。

夜の9時。普段夜更かししていない私でも、早すぎる就寝時間。
布団の中で寝返りを打ちながら、今日一日の騒動を思い出している。

あのDV男は手ぶらで帰ったんだろうか…

執拗に携帯も繋がらない所にまで妻を追って来たのに、
坊さんに追い払われたくらいで簡単に帰るのだろうか…

殴るほど嫌いなら、妻が出てゆくなんて都合が良いじゃないか?

そもそも、なんで殴られたんだろう…

そんなことをしばらく、ぐるぐると考えていると、空腹がさらに目を冴えさせてしまっていた。
狭苦しい宿房の息苦しさと空腹に耐えきれず、衝動的に廊下に出るとひんやりした夜風が吹き込んで来ている。

廊下に面した縁側の窓が開いている。少し外に出てみると、満月が光っていた。
庭にはツツジが咲いており、花をちぎって蜜を吸ってみた。甘い。

夜空は星をさえぎるネオンもなく、暗闇はどこまでも暗く、そして星の光に満ちている。
見上げるとダイエットなんてとってもちっぽけな事に感じて、気がつくと月夜に照らされた赤く魅惑的なツツジの甘い密を随分長い時間むさぼっていた。

「グラヤノトキシン」

不意に声をかけられビックリして振り向くと、タバコをふかしたおじさんが縁側に腰掛けていた。

「えっ?あっ、タバコ!ダメですよー。断食中にタバコなんて」
「堅い事言うなよ。おれも腹へって眠れないのよ。鞄にあるのがコレだけだったから、腹は膨れないけどタバコくらい許してよ」

おじさんは旨そうにタバコを肺いっぱいに吸い込んだ。

「さっき、何か言ってましたけど、あれなんですか?」
「グラヤノトキシン、ツツジに含まれる毒だよ。蜜は甘いけど、ツツジには毒があるんだ」
「蜜吸ってる所見られてました?恥ずかしい」

にやっと笑うおじさんに顔がほころんだ。

「私もお腹すきすぎて眠れなくって。昼間はあんなことがあったし…怖いですよね」
「中森亮一っていうんだ」
「えっ?」
「DV男、中森の旦那だよ。オレのクライアント」

おじさんの目つきが急に真剣になった。

「クライアントって、どういう事ですか?」
「依頼主ってことだよ。あんた、昼間おばさんと話してただろ。何言ってた?」
「え、あの…旦那にDVを受けて大変とか、そんな…」
「なるほどね…その旦那が悪いって話、ホントに信じるか?」

急な展開で何をおじさんが話し始めたのかついて行くので頭が精一杯だった。
蜜の毒?中森亮一?依頼主?

「殴られるには理由がある、そうは思わないか?」
「ちょっと、急にどうしたんですか。雲行きが怪しくなってきましたけど、あの
DV男が依頼主ってどういう事ですか?」
「奥さんが中にいるから聞かれちゃ困るな。小さな声で話すから、あくまでも暇つぶしのヨタ話だと思って聞いてくれよな。実はオレ、あのDV男に奥さんの素行調査を依頼されてるの。要は探偵だな」
「はぁ、やっぱりおじさんもダイエット目的じゃないんですね」

すまんなというような顔をして、おじさんは話を続ける。

「中森亮一は昔浮気をしてたんだよ。あのDV男ね。それが見つかって奥さんと離婚しそうになった」
「うわ、サイテー。それで、もめて奥さんを殴ったと?」
「それだと、オレは要らなくなっちゃうな」
「ま、そうなりますね」
「話を急ぐなよ。それからというものDV男は心を入れ替えて真面目に働いた、浮気もせずに。ま、世間では、当たり前だけどな。でも奥さんの信用は勝ち取れなかったらしいんだな」
「一度失った信用は、なかなか戻らないと」
「そう、そう言う事。奥さんは夫の浮気を悩んでいる間、ある男に相談してたんだ、よくある話、元カレだな」

夜風がふわっと通り過ぎ、何かが倒れたのか宿房の方でゴトッと音がした。

「DV男はさ、昔浮気をしてたけど、なんだかんだ言って奥さんの事を愛してたんだよね。だから、今度は妻の様子が気になってしょうがない」
「それで、探偵を雇ったと」
「そう言う事」
「で、奥さんの方はどうだったんですか?もしかして…」
「あぁ、勘がいいねぇクロだよ。あんたDV男が一方的に悪いと思ってただろ。あいつだってバカじゃない、様子がおかしいって奥さんを問いつめたそうだよ。あんたが見たのは、きっとそのときのアザなんじゃないのかな。世の中にはいろんな側面がある。知らない方がいいこと、気が付かない方がいいこと。残念ながら、奥さんの方は浮気じゃなくて、本気だけどな」

そう言うと、おじさんはもう一本のタバコに火をつけた。

「今まで、中森さんに同情してたけど…何か愛とか結婚とかよくわからなくなっちゃった」
「女の嘘は男と違って隙がないからな」

あの地味なおばさんの中森さんが、そんな事になってるとは…
驚きを隠せず、惚けていると宿房の方でゴソゴソと音がする。

「そういえば、君はどうやって外に出たの?」
「廊下に出たら、窓がいてたのでフラーっと」
「窓があいてた?」
「まずいっ!」

おじさんは火のついたタバコを投げ捨てると急に宿房の方に駆け出していった。
もしかして…そんな事がと最悪の事態が頭をよぎる。
私もおじさんを追って、宿房に駆け寄った。

あのエンジン音が、
戸締まりしたはずの窓があいてたのも、
時おり聞こえる物音も、
誰かの仕業だったら…

いやな予感がだんだん確信に変わってゆく。

自分の宿房の2つとなりの部屋でDV男が中森さんを羽交い締めにしていた。
首にはナイフを突きつけて、中森さんは泣きながら懇願している。

「お願い、お願いだから。もうこんなことしないで、私はあなたを裏切ってないわ」
「いいや、お前は男と繋がってる。オレは知っているんだ」
「あれは、あなたが…」

ナイフを当てた中森さんの首から少し血がにじむ。

「中森さん、落ち着いて。私です、探偵の北村です。ナイフを置いて下さい」
「北村さん、もう妻が信じられないんです。妻を殺して私も死にます」
「落ち着いて、一階冷静になりましょう、ね。ね。」

おじさんが低いトーンでなだめようとしている。

「あなたが疑っている人は男友達で、あなたの浮気の相談をしていたの、信じてお願い!」
「いいや、あの人もお前の不貞は知っているよ、何しろお前を調べてもらっている探偵だからな」

DV男がナイフの先でおじさんを指すと中森さんの顔が引きつった。
震えるナイフの先に血が滲み、赤く月夜に照らされている。

ナイフを持った腕がまた中森さんの首に戻ろうとする刹那、おじさんがDV男の顔に拳を入れる。すかさず腕を掴み関節を極める。ナイフが音を立てて宿房の床を転がった。DV男はあらぬ方向に曲がった腕を痛みに顔を歪め、悲鳴にも似た、うめき声を出している。突っ伏したDV男に馬乗りになりながら、おじさんは続ける。

「中森さん、よーく聞いて下さいね。奥さんはその方とあなた浮気の相談をしていただけです。私も何ヶ月も張っていましたし、こうして断食道場までこっそりついてきましたが、シロでした。中森さん、どうか落ち着いて」

DV男は自分の情けなさに涙しているのか、
痛みに涙しているのか分からないような、ボロボロの表情で、嗚咽を漏らしている。

「どこから入って来たか知りませんが、今日はこっそり街に帰って下さい。警察沙汰にしたくないんです、奥さんもいいですね」

恐怖にブルブル震えながら中森さんはうなづいた。

「中森さん、奥さんとうまくやって下さい。お互いを信じる事、そこから始めましょう」
「私、私…うぅっ…妻を失いたくないんです」
「あなた…」

ゆっくりおじさんが泣き腫らしたDV男から離れると、男はおじさんに一度振り向き会釈をすると、腕をさすりながら廊下から外へ出て行った。私はただただ嵐の様に起こった一部始終を見ている傍観者に過ぎず、恐怖に震える中森さんに寄り添ってあげる事しかできなかった。

宿房にはすすり泣く中森さんの声だけがシクシクと響いていた。

しばらくするとおじさんは中森さんを乱暴に立ち上がらせ、横腹に拳を突き立てた。
手には中森さんと男が写っている一枚の写真が握られていた。

「嘘は墓場まで持って行けよ」

ウッという軽いうめきが宿房に響くとおじさんは引きつった笑顔で、
月明かりが照らす廊下に出て来た。

「依頼主が捕まっちゃうと報酬がもらえないんでね。お金っていう甘い蜜ですわ。あんたも内緒にしてくれると助かるわ」

そう私の耳元でおじさんはささやいた。
少し困ったようなおじさんの顔が月夜に照らされて、悲しく見えた。
お堂の板間で私は足のしびれに悶絶している。足がしびれてしまっていて空腹が少しだけ和らいでいるのは、ありがたい。今日でやっと2日目、あと一日半の我慢だ。この空腹感からするとよっぽどダイエットもはかどっているに違いないと思う、いや、思いたい。

断食道場とか言っているけれど、2泊3日で10万円も取るんだからよっぽど高級なホテルのような寝室を期待したが、現実は残酷だ。独居房のような1畳あまりの宿房と呼ばれるスペースにお布団が1組敷いてあるだけだった。もちろんおトイレも共同、断食なので食事もない。

暇を持て余す自由時間も初日は参加者が微妙な距離感を保ちつつ、会話もなく座敷でただゴロゴロするだけだった。一緒にツアーに来たメンバーは疲れきったおばちゃんに、おじさん、後はけばけばしいギャルと私。何だか思い詰めたような顔の人ばかりでとても愉しく会話できる雰囲気ではないのだ。お互い挨拶も無し。ま、修行やら野良作業で忙しく、仲良くなるとかそれどころじゃないんだけど。

このままだと私の虎の子の10万円は水の泡ときえてゆく。もう、何なのよ!イケメンなんて影も形もない。寺の坊さんは怪しい関西弁のおっさんだし、他にいるのは壮年で強面の修行僧が数人。もしかしたら体型に気を遣う素敵なイケメンに出会えるかも…なんて淡い期待もあったのに。こうなったら、私もHINATAみたいにガッツリ痩せてやるんだから。あ、これもまた雑念か。

そう思っていると、後ろに人の気配がする。頬の横をふわっと風が通り、肩をやさしくポンポンと警策で叩かれる。この棒が”キョウサク”という事も初めて知ったくらい、私は寺についても、座禅についてほとんど何も知らなかった。このポンポンがきたら首を傾けるのだそうだ。

「喝ッ!」

煩悩だらけの私の右肩に警策が鋭く振り下ろされる。もう足のしびれが勝っていて、肩の痛みはどうでも良かった。これが『無』の境地なの?もう何も考えられない。感覚が無くなってから時間はどのくらい経ったのだろうか。

煩悩と無の境地の間を懊悩しているうちに初夏の日がどんどん上がってゆく。
背を向けていた僧侶が振り向く衣擦れの音が、静寂から私を現実に連れ戻す。

「はい、おつかれさまでした」

目を開けるとお堂にいる参加者4人それぞれが足を崩していた。生まれたての子鹿のように足をぷるぷるさせ、それぞれ悶絶している。隣にいるおばさんは生気がない顔を浮かべこちらに笑みを送ってくる。

「わたし足がしびれちゃって、あなたも?」
「あたしもですよ。もうガクガクで。座禅ってこんなにもきついんですね。あ、あたし美奈って言います、細野美奈。ほそくないんですけど、細野って名前負けで恥ずかしい」
「あらそんな事ないわよ、私は中森っていうの。短い間だけどよろしくね」

断食道場始まって以来、1日ぶりの人との会話だ。中森さんも少し寂しそうな顔から笑みがこぼれている。中森さんが足を崩すと、はだけた作務衣の下から痣だらけの足が見え隠れしている。

「あ、痣だらけじゃないですか?こんな板間に何時間も座ってたら、お肌が弱い人は痣ができちゃいますよね。まったく10万も払ったのに!ふっかふかの座布団くらい用意しとけっての、ねぇ~」

私がおばさんのような口調で問いかけると、中森さんは作務衣の下をそそくさと直して、ガクガクした足で立ち上がろうとするが立ち上がれない。あきらめた様子で私に背を向けた。ん、何なのだろう、なにか気に触る事でも言っちゃっただろうか?しばらく間があいてこちらを向き、おばさんはため息をつきながら、ゆっくり口を開いた。

「これね、座禅のせいじゃないのよ。旦那にね、蹴られ殴られてできたの。洋服きてたら見えない所よね、ひどいでしょ?私旦那から隠れる為にここにきたの。ここ田舎だし電話も通じないから…外からの人もお寺だから入れないし、私逃げてるのよ」

そう言うとゆっくり中森さんは立ち上がり、俯いてヨロヨロお堂を出て行った。

え?ここってダイエット道場じゃないの?初会話が随分ヘビーなんですけど。耳が痛いくらいに静寂なお堂にいた外のメンバーもきっと聞き耳を立てていたに違いない。みんなも、よそよそしく動き始めた。

中森さんが出てしばらくするとお堂の中の外の面子もゆっくり立ち上がり、外に向かっている。このあとは敷地内にある畑で野良作業だ。せめてこのつらい修行中、少しでも愉しく同じダイエット仲間と過ごそうと思ったのに、目的すら違うとは…残りに時間を考えると、さらにどんよりした気持ちになった。

この寺は伊豆半島にある膨大な土地を有するお寺だ。前日の自由時間に何もする事がないのでぶらぶらと敷地を散歩してみたのだが、とても数時間では廻りきれそうになかった。

崖から海に面する南面には太平洋が一望でき、日当りの良い斜面には畑が広がっていて畑の周りをツツジが彩っている。北面は急な斜面に面していて、敷地の周りをぐるりと囲いが設けてある。まさに要塞のような寺である。

野良作業に向かう為、お堂の外に出ると、門の外から激しく門を叩く音と男の声が聞こえる。中森さんがおびえた様子で柱の影にへたり込んでいた。

「おらぁ、開けろや!いるのは分かってんだぞ!静江、開けなさい!」
「帰って下さい。お願いですから」
蚊の鳴くような声で中森さんが答えている。

「いいから、ここ開けろ!」

怒鳴り散らしていた男は急に門の向こうから優しい声にかわり、諭すような声で中森さんに語りかける。

「な、静江、話すれば分かるって」
「もう無理なんです。許して下さい」

野次馬根性というのはおそろしいもので、退屈な修行中にこんな大イベントが不意に訪れたら容易にはあらがえない。それは誰もが一緒のようで、気が付けば昨日まで一言も交わさなかったメンバーも重なるようにして柱の影から門の様子を覗いていた。

「え、なになに?さっき話してた旦那がきたの?」

おじさんが小声でこちらに顔を向ける。やはり聞こえていたのだ。いい歳したオヤジが野次馬かよと思うが私も首を縦に振り、唇に人差し指を当てシーっとポーズした。

門の方ではしばらくやんでいた門を叩く音がまた激しくなる。

「おらぁ、開けろや!」

乱暴な声の向こうに向かって、法衣をまとった小太りの坊さんが向かってゆく。

「あいあい、そない大声出さんでもきこえとりますがな。今開けます、開けますよ~。もううるさくてかなんな、自分」

中森さんが坊さんに近づいてゆき、手を掴んで首を振っている。坊さんは中森さんの肩を優しく叩き、耳元で小さな声で何か伝えると、中森さんはお堂の方に小走りで消えていった。

門を開けると男が中に乗り込んでくる。

「ウチの嫁がここに隠れてるだろ、隠しても無駄だぞ。さっき声が聞こえたからな」
「何を言わはってるか、わかりませんな。ここは女人禁制のお寺や。女の人などおりませんよ。もし、百歩譲ってお宅の奥さんがかくまわれてるとしたら、その態度はあかんのとちゃいますかな?」

この坊主も相当とぼけたオヤジだ。女人禁制って。ダイエット目的の断食道場ってネットでも簡単に予約できるほどなのに。ひょうひょうと嘘をつく。

「は?お前何だよ。いいから、静江をつれてこいや!何なら力づくでも」
「そないにすごまれても、おらへんもんは出されへんわ、さ、帰り」

坊さんとの小競り合いはしばらく続き、いる、いないと禅問答のような会話が境内に響く。
隠れてそっと見ていたが、力づくで中に入ろうとした男が組み伏せられている。それでもDV男は地べたにあぐらをかいて動こうとしない。

「あぁ!こうなったら居座ってやる。警察でも何でも呼べば良い。警察は民事不介入だからな、夫婦喧嘩に口出しはできないんだよ」
「そうでっか、敷地に入ってるってことで不法侵入っちゅうことで警察呼べますけどな」

警察はまずいと思ったのか、不満そうな顔で門の外に後ずさりするDV男。
「ここなら文句ないだろ。嫁が出てくるまで、オレはここを一歩も動かないからな」

坊さんがニヤニヤして門を閉めながら、
「ウチも断食道場やってるさかいな、飯は出されへんけど、堪忍な。あんたもいつまで腹ペコで座ってられるか見物やな」
「うるせぇ、オレは門の外で待たせてもらうからな」
「どうぞ、ご自由に」

大きな音がして門にかんぬきがかけられた。

「さあさ、皆さんも農作業の時間やで、畑にいかな」

追い立てられて、中森さんを除く私達3人は畑に向かった。

一面続くダイコン畑の収穫を昼過ぎから行うのだが、さっきの騒動を見てしまった為か、皆惚けたように手が動かない。ギャル風のメイクをした女の子に至っては泣き出してしまっている。おじさんはそれをみてオロオロしている、頼りないけど私がここは彼女の力になってやるしかない。

「ねぇ、大丈夫?怖い人見ちゃって、驚いちゃった?」

ギャルは泣きじゃくってしまって軍手で顔を拭うから、マスカラが落ちるのと畑の土がつくのが相まって汚れたパンダのような顔になってしまっている。

「つらかったらさ、農作業は無理してやらなくてもいいんじゃない?私達お金払ってここに来てる訳だし、言うなればお客さんな訳じゃん。ね、大根なんていじってないでちょっと大自然でも見てさ、のんびりしようよ」

我ながらなんと説得力の無い、的外れな慰めなんだろうと思うけど、なんで泣いてるか分からないんだからしょうがない。パンダみたいな顔の女がこちらを向き、私の手を握る。

「アスカね、おばさんの旦那さんがどんな人か知らないよ。でもこんなド田舎までたった一人の為に迎えに来てくれて…アスカいいなと思っちゃって」

そう言ってまたパンダは泣き出した。パンダはアスカというらしい。そしてきっとバカだ。

「いやいやいやー。でも旦那さんが暴力ふるう人なんだよ。アスカちゃんが思うような好き嫌いってそう言うレベルじゃと思うんだけど。下手したら殺されちゃうよストーカーみたいなもんだからね」

私がすごむと、アスカちゃんは目をうるうるさせてこちらを見る。

「違うの、アスカね、アスカね、彼とお別れしたばっかりなの。だから彼が迎えに来てくれるって場面を見ただけで泣けてきちゃっうの。私の彼ね、板前さんなの。毎日おいしいお料理作ってくれたから、食事の時間になると彼の事ばかり思い出しちゃって、それでアスカ泣いてばっかりで」

聞いてもいない恋愛話が繰り広げられる中、おじさんは後はまかせたよ、と言う感じでトボトボと農作業に戻っていった。ああ、おじさん、私を一人にしないで。

「でね、でね、食べる時間になると料理してる彼の事思い出しちゃうからいっその事、食べないって決めたの。そしたら彼の事思い出さないでいられるでしょ、それでね断食道場に」
「あーそう、そうなんだ…もういい?」

話もそこそこに私も農作業に戻ることにした。泣きじゃくる若い子をほっとくのは自分でも冷たいと思ったけど、空腹も相まって、急速にバカバカしくなり聞いていられなくなった。その後も大根を見ると桂剥きを思い出すだの聞いてもいない思い出話をしながら後をついてくるので、適当に相づちを打って黙々と大根を引き抜く事に集中した。

結局の所、ダイエット目的でこの道場に来ているのは私だけなのだろうか。この調子で行くと一番ダイエット効果を上げてげっそりするのは、門の外にいるDV男なのではないかと思うと、私はだんだん頭が痛くなってきた。

後半に続く。