「ひっ、ひっ。ぶえっ、くしょん」
くぐもったくしゃみの音がマスクの奥から会場に響き渡る。卒業式だというのになぜ僕はマスクを付けたままなのだろう。さすがに名前を呼ばれて証書を取りにに行くときだけは外したけれど、それ以降はくしゃみが止まらず、参列の父母に白い目で見られたりもした。しょうがないじゃないか、これが僕の体質なのだから。それに今日は僕の卒業式なんだ、主役は僕だろ。そんな目で睨まなくても良いじゃないかとさえ思えて、情けなくて涙が出てくる。いや、これは最近流行の花粉症というやつなのかな。きっと理由はそれだけじゃないと僕は思うんだ。
教室内には紅潮した友人の顔と、テンションの高い声が飽和している。
「たっくーん!これ書いてー」
「私も私も」
「おまえ中学も一緒なんだから、もうこういうのいいだろ~また顔あわすんだし」
「え~記念じゃん。サインしてよ。ところでさ、今日この後どうする?ようちゃんも誘おっか。メグも来るって」
普段はファミコンやキン消しの話しかしないような男子も女子と何やらひそひそ話している。彼らは式の後、地元のボーリング場で卒アルを持ち寄って集まるらしい。僕はその輪には加わらない。他のクラスの仲間とは違って、私立の中学校へ進学することになっていたので、みんなともこの卒業式でお別れになる。だから、きっと呼ばれないのだ。というか、もともと受験勉強などであまり遊びにも加わらなかった僕には誘ってくれる友達もいなかったのだが。
いつもは日直の名前しか書いていない殺風景な教室の黒板には、それぞれ思い思いのお別れの気持ちが、ほのかな恋心が入り交じった言葉で所狭しと様々なチョークで書き連ねられている。そこに目を凝らして自分の名前を探すくらい悲しい事もないので、静かに教室を後にしようと思う。発つ鳥、後を濁さずだ。使い方合ってるかなこれで。
「高津くーん!ちょっと待ってよ。もう帰っちゃうの?」
キラキラした瞳でこちらを見つめ、声を掛けてくるのは桜井ひかりだ。あまり積極的に喋ったことはなかったが、クラスで席が隣だった事もあって机を並べて給食などは食べたことがある。彼女からみたら、きっとその程度の仲だ。
「はい、これ、サイン帳。一言書いてよ」
サインって何だよと思ったけど、こんな事も最後なので、サインペンで丁寧に高津幸一と名前を書いた。この名字とも、もうすぐオサラバだ。
「関西の私立中に進学するんだってね。高津くんってやっぱ頭いいんだー。凄いじゃん。ゆくゆくはお医者さんだね!」
そう言われて初めて、自分の将来について考えた。学校に行くのが当たり前だと思っていたけど、学校を出てからの将来なんて考えてもいなかった。家で勉強以外に逃げ場がなかったのだ。今思えば、ひかりはガリ勉で無愛想な僕によく話しかけてくれた。恥ずかしくて面と向かっては言えないけど、目鼻立ちもはっきりしていて、かわいいと思う。クラスの人気者の彼女がそう言ってくれるなら、医者にだってなんだってなれそうな気がする。その上、こんな僕にも気を遣ってくれる気持ちの優しいひかりに、最後ぐらい気の聞いた事を言わなくちゃと思った。
『う、うんまぁ、そんなとこ』
この期に及んで、しょうもない一言しか出てこない僕に、自分のサイン帳を一枚取り渡してくれた。『大阪に行っても元気でね!またどこかで会えるかもね。今度会ったらボーリングしようね』まるっこい字がキャラクターが薄く印刷されたページに踊っている。微笑みを残して、彼女はまた友達の輪に戻っていった。きっとこれから集まる場所の相談をしているのだろう。
幸一が家に帰ると引っ越しのトラックと母親が乗った車が玄関先で待っていた。マンションのエレベーターで部屋まで上がると、昨日まで父親だった男はがらんとした部屋で待っていた。
「幸一、向こうに行っても、元気でな」
涙ぐみ、肩を抱く父親だった男に、部屋を出る際に涙で手を振った。
涙が出たのは浮気で母さんに愛想を尽かされた父に会えなくなるのが寂しかったからじゃない。肩越しに見えたボーリング場の大きなピンの看板が見えちゃったからだ。
「ひかるとボーリングしたかったなぁ」
大阪に向かう車の中、後部座席で一人ぽつんとつぶやいた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
得意先との打ち合わせとはよく言ったものだ。部長は会社に何と言ってこの経費を落としているのだろう。
連れて行かれたクラブでは女の子もいるのに早い時間から延々とグチを聞かされた。酒癖が悪いのはもともと知っていたが、開店と同時に一緒に入った得意先は早々に帰り、3セット目はなんと部長と二人きりだった。勘弁してくれよと思ったが、隙をみて『スズハラー、スズハラ!』という部長のダミ声を背中に聞きながら、何とか逃げるように抜け出し、渋谷にわりと早い時間に戻って来れた。これ以上、妻に悲しい顔をされるのはゴメンだ。改札を抜け、湘南新宿ラインのホームに向かうが同じ駅なのかと思うほど乗換ホームは遠く、この時間は人も多い。
「失礼」
急ぎ足の大きなバッグの女性とぶつかり会釈をするが、非難めいた悲しい表情を向けられた。去り際に何か言われたような気がしたが、振り向かず家路に急いだ。
混雑した電車の中で、先ほどの女性の顔を思い出した。最近、妻もああいう目を私に向けてくるようになった。大学のサークルで出会った頃は、友人にも鼻高々な美しい彼女だったのに、ここのところすっかり老け込んで暗い顔になってしまったように思う。なぜだろうか。
無理して都内に自分の年齢では高級ともいえるマンションを買ったのに、最近の妻はさえない顔ばかりしている。無理をしてローンを組んだオレのせいなのか?金銭的な不安からなのだろうか。それとも、オレの気持ちが足りないのだろうか。何か気が付いてないことが、実は他にもあるのだろうか…
酔いが廻る頭を振り、嫌な事を振り払おうとする。
それでも先月、起死回生にと贈った結婚10周年で奮発したスイートテンダイアモンドも手渡した時、一瞬ぱぁっと顔が明るくなったものの、すぐに何か考えたような顔になって『アリガトね』と短い感謝の言葉だけだった。何か思い詰める妻にしてあげられることはないのだろうか。きっとそう思うのは今だけで、また明日から仕事に忙殺されて家での会話もなくなるのだろうか。
ふぅっとため息をつき、電車内のニュースに目をやると、品川区で殺人事件があったニュースが流れている。品川と言えば家から近いじゃないか。ひかりは大丈夫だろうか。西大井に着いたらホームから電話してみよう。久しぶりに遅い時間だが、外に食べにでも出てみようか。焼肉屋ぐらいなら開いているだろう。クラブで電源をオフにしていた携帯電話に電源を戻した。
着信履歴には見慣れない番号が列んでいた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「行動観察の体験受験お宅どうされました?」
「ゆいちゃんママは?」
「ウチ?ウチはね先月塾で受けたのよ。うちの子は積極性がなくってねぇ、他の子のまねばっかり。体操教室の先生がわるいのかも。お教室変えようかしらねぇ~」
新興の高層マンション街のカフェスペースで若いママ友が集まっている。今日の献立や子供のお受験などたわいもない事が話されているのだが、ひかりは浮かない表情でその輪に加わっている。
今までは大手の建材メーカーに勤める夫の収入も安定していて、子供もいない上、借家住まいで悠々自適の生活だったので、大学の同級生からもうらやましがられていたが、無理して西大井の高級マンションを購入した頃から旦那にもきつく当たるようになってしまっていた。
金銭面の問題ではない、マンション内での人付き合いが苦痛になっていたのだ。何かと言えば食材やワインなどの嗜好品の話になったり、特に子供の受験の話は子供がいないひかりにとっては、苦痛そのものだった。
マンションのラウンジスペースでは先ほどのママグループとは少し雰囲気が違った高層階のグループが集まっている。
「あら鈴原さん、今時プチお直しなんで普通よ」
年齢不詳の年長のマダムが口を開く。お受験ママ達とは別の場所に集まるこのグループのリーダーをひかりはマダムと心の中で敬意を込めてそう呼んでいる。お受験世代のママ達に辟易としていたひかりにも唯一、話題を会わせやすいのがファッションや美容に関する事だった。
年齢は教えてくれないが、多分自分より少し上の別の奥さんは整形に関しての独自のボーダーラインを引いている。
「メスを入れたら整形だけど、レーザーを当てるだけならメンテナンスよ。マッサージと変わらないんだから」
「へぇ、そうなんですか?」
大げさに驚いたようにひかりは手を口にやるが、心では「あなたとっくにメスが入っているんでしょ」と思っている。そんな事は口が裂けても言えないが、シワのないその顔は人間関係に疲れたひかりよりもかなり若く見えた。いっその事、私も…と思っていると心を覗かれたように次々と美容情報をマダム達はひかりに提供してくれるようになった。
次々に繰り出される”お直し”の情報には実はひかりも興味があった。若い頃には少なからずちやほや周りからしてもらっていた記憶が、さらにひかりの自尊心をくすぐった。夫にも昔のように接してほしかったが、仕事で疲れて帰る夫にマンション住人のうわさ話を延々と聞かせると露骨に嫌な顔をされるようになった。
私だってうわさ話を聞かせたいわけじゃない。新しいコミュニティになじめない自分の話をせめて夫だけでも共感して欲しかった。何の話でも良かった。気の置けない仲間とバカな話で盛り上がりたかった。二人で借家に暮らしていた頃は、夫も帰りが早く二人で外食したり、一緒に過ごす時間が多かったが、年齢も重ね役職にも就くようになった夫は帰宅の時間もそれに比例するように遅くなった。周りの環境はこぎれいになったが、二人で笑ってテレビをみていた頃のような、ほのぼのとした幸せを感じる事はもう、ほとんどなかったのだ。
子供がいないひかりにとって、この高級住宅地の同年代のママさん達との会話は異星人と話しているかのようだった。子供のつながりがないひかりにとっては、少し年上ではあるがマンションの高層階に住むマダム達との会話の方が自然体でいられて楽しかった。50代には見えないほど容姿に気を遣っている高層階の住人達にとっては、ひかりは新しい風であり、汲みしやすいお嬢さんでもあった。
「今はいいフェイスリフトがあるのよ?」
「お注射は風邪ひいてもするでしょ?」
美容に関する情報交換が主だったが、気を遣って年下のママたちと分からない子供の教育論に知ったような顔で相づちを打つよりも気が楽だった。
「こんどひかりさんに奥田さんを紹介してあげるわね」
いかにも誇らしげな年長の婦人がひかりに微笑む。
「奥田さん所の予約なかなか取れないのよ。ほら、あのテレビによく出ているあのクリニックよ」
「でも鈴原さん、もともとお綺麗だから。結構かしらね」
そう言われると、『あなたには金銭的にも無理かしらね』とバカにされたように感じて、これがきっかけで本格的な整形に足を踏み入れていってしまった。
しかし、ひかりは言葉巧みに美容整形の世界に引き込まれてゆく自分に、不安を感じながらも恍惚としていた。朝、家を出た時に感じていた自信のなさは、”お直し”が終ると確かにどこかに消え去っていて、クリニックで働くはつらつとした美人スタッフにも『ごきげんよう』と挨拶して帰るほどに自信がついていた。きっと彼女達もたくさん“お直し”して自信をつけたのだわ、私もきっとああいう風に見えてるんだわ、そう思うと力が湧いて出てくるようだった。
気が付くとひかりはこの美容整形のクリニックにも、社交場のように頻繁に通うようになっていっていた。
「ここは居心地のいいサロンと言うか、エステ感覚なのよねぇ」
そう言うマダムはレーザーの治療後でほほを腫らしながら、ホテルのカフェのようなレストゾーンでダウンタイムの痛みに耐えていた。
いつしか家のローンに使うお金も、夫にもらったダイアモンドもひかりは換金して、全て美容につぎ込んでいってしまっていたが、それでも何事にも代え難い自信を失うわけにはいかなかった。
容姿が変わっても全く気が付かない夫に対しての意地もあったが、マダム達に認めてもらいたい気持ちも強く、美容通いはエスカレートする一方だった。その分マダムからの信頼は厚く、グループ内でも若くして発言力のある立場になっていた。ただ、高層階に住むセレブ衆とは違って、ひかりの家庭には次第に負担が大きくなっていった。
「こんなこと夫には言えないわ」
ひかりの悲壮なつぶやきも、レーザーのダウンタイムで貼れた頬では、卑屈な笑いにも見えた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
奥田は人の顔とはそんなにもバランスを欠いたものなのだろうかと常々思っていた。さして醜いとも思えない患者が、個人的な打ち明け話のようにいかに美醜で苦労したかを打ち明ける様を毎日聞いていた。まるで土塊をこねるかのように、その顔を作り替えてゆく日々。徐々に奥田には何が美しくて、何が醜いのか分からなくなっていった。ただ、彼の元を訪れる女達は会うごとに自信をつけて病院を後にしてゆくので、それほど悪い気はしなかった。
いつしか個人経営だった小さな病院は大きな持ちビルとなり、深夜のテレビではひっきりなしに彼の病院のCMを打っていた。ビル内では絶世の美人がかなりの人数働いており、羨望のまなざしを受けている。彼女達は正真証明の”天然もの”の美女だ。もって生まれた容姿の良さで世間を渡り、美に対しても卑屈な所はなく、誰に対してもにこやかに対応できるまさに生きるショーケースでもあった。病院に訪れる患者は自分も容姿が良くなればあのようになれるんだと幻想に近いものを抱いてやってくるものも多い。
ただ奥田には、もって生まれた自然の美がもたらした幼少からの天真爛漫さは、患者達に授けてあげることはできないことを知っていた。患者となる彼のお客はどんなに容姿が綺麗になっても、もっともっとと作り替えられる場所を見つけては来院し、満たされることはなかった。それは見かけの美しさではなく、心にぽっかりあいた穴に石を投げ入れる行為のように奥田には見えた。
美醜にこだわる姿を見すぎているためか、奥田自身にはお金も有り余り、整形ではあったがルックスの良さもあるのに、女の影がなかった。あれほどの美人に囲まれて仕事をしているのに、噂一つないなんて、もしかしたら同性愛者じゃないかとささやかれたりもした。しかし本当の所は、ただ美醜にこだわる女性に幻滅してしまっていただけなのだ。
「先生、これが明日のオペの患者さん一覧です」
スタッフが朝一で奥田の診察室にカルテの一覧をもってくる。既にカリスマとなった彼は一日に数件のオペをこなすだけで、その他のオペは他のスタッフ任せていた。夕方に次の日の予定をスタッフに伝え、日にいくつかの主に芸能人やセレブリティの診療を行うだけだ。東京の高層ビル群の夜景を背に奥田の手には一つのカルテが握られている。
「八木君、この患者さん明日私が診察しよう」
「わかりました、それでは明日」
「ああ」
カルテを見つめている奥田の口元に笑みがこぼれた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
他の診療室とは違って、広い室内にゆったりとした革張りのソファーが列ぶ奥田の診療室にひかりが入ってくる。診療室というよりは貴族の書斎のような雰囲気だ。サイドボードには様々なトロフィーや楯などが列んでいる。奥田は落ち着かない様子のひかりにソファーを勧めると、美しいスタッフがハーブティをテーブルに置き、流れるような動作でドアから出てゆく。
カルテをみながらゆっくりと顔を上げる奥田。
「鈴原さん、何度か当院で診療を受けて頂いているようですね」
「ええ、何度か」
普段とは違う診療室と直々にテレビにも出ているイケメン医師の奥田に直接見てもらえるとあって緊張の面持ちのひかり。
「先生、今日はどうして奥田先生、直々にみて頂くことになったんでしょうか?」
まじまじと見つめる奥田。ひかりの質問には答えない。
『私の所見では、いまのところ手術の必要はありませんよ』
それを聞いて引きつったひかりの顔が間接照明に照らされる。
「先生、それを伝える為にわざわざここに通したんですか。手術していただけないんですか?なんで、なんでなんです?」
眉根をよせるひかり。次第に声がうわずってゆく。奥田はその顔に人工的な造形を感じながらも、ひかりの懐かしい瞳に見入っていた。
「私の個人的な意見なのですが、充分鈴原さんはお綺麗ですし、無理に手を加えない方がよろしいかと」
奥田は落ち着いた口調で、ひかりに問いかける。
「美容整形の医者がね、こんな事言うのもなんなんですが、年齢なりの美しさってあると思うんですよ。鈴原さんも年齢を重ねた美しさというものにも目を向けてみたらいかがですか?」
普段奥田は治療に対しての説明はするが、こんな事は患者に対して決して言わなかった。客が手術してほしければ、箇所に関らず勧めて来た。もちろん、医学的にはどれも必要のない手術ばかりだ。健康を害するものすらある。しかし、この患者にだけはそのままの姿でいてほしい、奥田はなぜだかそう思ってしまった。ホントに今日はどうかしている。
「私はもう手術する価値もないってことですか?」
「そうじゃありませんよ、自分に自信をもってくださいって…」
ひかりが奥田の声をさえぎるように小さな声でぶつぶつと呟く
「私の自信は?わたし…どうやって…どうやって…」
顔色が悪くなってゆく。ひかりの頭に高層階のマダム達の顔がちらつく。
『あなたには無理だったかしらね』とマダムの取り巻きが自分をあざ笑っているかのように思えて来て、頭を振る。
「ね、鈴原さん、何事も自然が一番ですから。鈴原さんはもともとお綺麗ですから」
一番聞きたくなかった一言が耳元をひかりのかすめていった。
もともと綺麗なら何で私に気づいてくれないのよ、なんで…なんで!
「…った、ような…を…聞かないでよ」
ひかりの目の奥が濁ったように遠のいてゆく。今私があのコミュニティを失ったら、どこへ行けばいいの?私はだれにわかってもらえるの?私の居場所はあそこしかないのよ。
「ん?鈴原さん…何か言いましたか?」
「私には、私には…必要なのよ!ねぇ、先生お願いします、お願いします!」
立ち上がり、人が変わったように食って掛かるひかりに椅子からのけぞって後ずさる奥田。
「いや、鈴原さん、い、いや、落ち着いて下さいよ」
「ねぇ、なんで!なんで気が付いてくれないの?」
意味不明な事をわめいて泣き出すひかりに、奥田ははっとした顔つきになり顔を近づける。
「き、き、き、気付いてますよ!す、鈴原さん?いや、ひ、ひかりさん!ぼぼぼ、僕ですよ、カ、カ、カルテみて、き、気付いたんです。ぼ、僕誰だか分かります?」
極端にどもりながら、ひかりに近づいてゆく奥田に、恐怖と狂気の度合いがましてゆくひかりの瞳。
「やめて!何の事を言ってるの?あなたなんて知らないわよ!手術、手術しなさいよ!」
錯乱したひかりが奥田を突き飛ばすとよろけてトロフィーやら楯やらが列ぶサイドボードに頭をぶつけて倒れた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
ねぇ、なんで涙が出てくるんだろう。
やっときみと再会できたと思ったのに。
僕もきみも互いに気が付かないほどに変わってしまったね。
奥田の瞳が最後に映したのは黄金色に輝くボーリングのトロフィーに刻まれた自分の名前と、そこに映り込む変わり果てた美しい自分の顔だった。
奥田幸一 第5回美容学会ボーリング大会 優勝
「ひかりとボーリングしたかったなぁ」
遠のく意識で幸一は何となくそう思った。
くぐもったくしゃみの音がマスクの奥から会場に響き渡る。卒業式だというのになぜ僕はマスクを付けたままなのだろう。さすがに名前を呼ばれて証書を取りにに行くときだけは外したけれど、それ以降はくしゃみが止まらず、参列の父母に白い目で見られたりもした。しょうがないじゃないか、これが僕の体質なのだから。それに今日は僕の卒業式なんだ、主役は僕だろ。そんな目で睨まなくても良いじゃないかとさえ思えて、情けなくて涙が出てくる。いや、これは最近流行の花粉症というやつなのかな。きっと理由はそれだけじゃないと僕は思うんだ。
教室内には紅潮した友人の顔と、テンションの高い声が飽和している。
「たっくーん!これ書いてー」
「私も私も」
「おまえ中学も一緒なんだから、もうこういうのいいだろ~また顔あわすんだし」
「え~記念じゃん。サインしてよ。ところでさ、今日この後どうする?ようちゃんも誘おっか。メグも来るって」
普段はファミコンやキン消しの話しかしないような男子も女子と何やらひそひそ話している。彼らは式の後、地元のボーリング場で卒アルを持ち寄って集まるらしい。僕はその輪には加わらない。他のクラスの仲間とは違って、私立の中学校へ進学することになっていたので、みんなともこの卒業式でお別れになる。だから、きっと呼ばれないのだ。というか、もともと受験勉強などであまり遊びにも加わらなかった僕には誘ってくれる友達もいなかったのだが。
いつもは日直の名前しか書いていない殺風景な教室の黒板には、それぞれ思い思いのお別れの気持ちが、ほのかな恋心が入り交じった言葉で所狭しと様々なチョークで書き連ねられている。そこに目を凝らして自分の名前を探すくらい悲しい事もないので、静かに教室を後にしようと思う。発つ鳥、後を濁さずだ。使い方合ってるかなこれで。
「高津くーん!ちょっと待ってよ。もう帰っちゃうの?」
キラキラした瞳でこちらを見つめ、声を掛けてくるのは桜井ひかりだ。あまり積極的に喋ったことはなかったが、クラスで席が隣だった事もあって机を並べて給食などは食べたことがある。彼女からみたら、きっとその程度の仲だ。
「はい、これ、サイン帳。一言書いてよ」
サインって何だよと思ったけど、こんな事も最後なので、サインペンで丁寧に高津幸一と名前を書いた。この名字とも、もうすぐオサラバだ。
「関西の私立中に進学するんだってね。高津くんってやっぱ頭いいんだー。凄いじゃん。ゆくゆくはお医者さんだね!」
そう言われて初めて、自分の将来について考えた。学校に行くのが当たり前だと思っていたけど、学校を出てからの将来なんて考えてもいなかった。家で勉強以外に逃げ場がなかったのだ。今思えば、ひかりはガリ勉で無愛想な僕によく話しかけてくれた。恥ずかしくて面と向かっては言えないけど、目鼻立ちもはっきりしていて、かわいいと思う。クラスの人気者の彼女がそう言ってくれるなら、医者にだってなんだってなれそうな気がする。その上、こんな僕にも気を遣ってくれる気持ちの優しいひかりに、最後ぐらい気の聞いた事を言わなくちゃと思った。
『う、うんまぁ、そんなとこ』
この期に及んで、しょうもない一言しか出てこない僕に、自分のサイン帳を一枚取り渡してくれた。『大阪に行っても元気でね!またどこかで会えるかもね。今度会ったらボーリングしようね』まるっこい字がキャラクターが薄く印刷されたページに踊っている。微笑みを残して、彼女はまた友達の輪に戻っていった。きっとこれから集まる場所の相談をしているのだろう。
幸一が家に帰ると引っ越しのトラックと母親が乗った車が玄関先で待っていた。マンションのエレベーターで部屋まで上がると、昨日まで父親だった男はがらんとした部屋で待っていた。
「幸一、向こうに行っても、元気でな」
涙ぐみ、肩を抱く父親だった男に、部屋を出る際に涙で手を振った。
涙が出たのは浮気で母さんに愛想を尽かされた父に会えなくなるのが寂しかったからじゃない。肩越しに見えたボーリング場の大きなピンの看板が見えちゃったからだ。
「ひかるとボーリングしたかったなぁ」
大阪に向かう車の中、後部座席で一人ぽつんとつぶやいた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
得意先との打ち合わせとはよく言ったものだ。部長は会社に何と言ってこの経費を落としているのだろう。
連れて行かれたクラブでは女の子もいるのに早い時間から延々とグチを聞かされた。酒癖が悪いのはもともと知っていたが、開店と同時に一緒に入った得意先は早々に帰り、3セット目はなんと部長と二人きりだった。勘弁してくれよと思ったが、隙をみて『スズハラー、スズハラ!』という部長のダミ声を背中に聞きながら、何とか逃げるように抜け出し、渋谷にわりと早い時間に戻って来れた。これ以上、妻に悲しい顔をされるのはゴメンだ。改札を抜け、湘南新宿ラインのホームに向かうが同じ駅なのかと思うほど乗換ホームは遠く、この時間は人も多い。
「失礼」
急ぎ足の大きなバッグの女性とぶつかり会釈をするが、非難めいた悲しい表情を向けられた。去り際に何か言われたような気がしたが、振り向かず家路に急いだ。
混雑した電車の中で、先ほどの女性の顔を思い出した。最近、妻もああいう目を私に向けてくるようになった。大学のサークルで出会った頃は、友人にも鼻高々な美しい彼女だったのに、ここのところすっかり老け込んで暗い顔になってしまったように思う。なぜだろうか。
無理して都内に自分の年齢では高級ともいえるマンションを買ったのに、最近の妻はさえない顔ばかりしている。無理をしてローンを組んだオレのせいなのか?金銭的な不安からなのだろうか。それとも、オレの気持ちが足りないのだろうか。何か気が付いてないことが、実は他にもあるのだろうか…
酔いが廻る頭を振り、嫌な事を振り払おうとする。
それでも先月、起死回生にと贈った結婚10周年で奮発したスイートテンダイアモンドも手渡した時、一瞬ぱぁっと顔が明るくなったものの、すぐに何か考えたような顔になって『アリガトね』と短い感謝の言葉だけだった。何か思い詰める妻にしてあげられることはないのだろうか。きっとそう思うのは今だけで、また明日から仕事に忙殺されて家での会話もなくなるのだろうか。
ふぅっとため息をつき、電車内のニュースに目をやると、品川区で殺人事件があったニュースが流れている。品川と言えば家から近いじゃないか。ひかりは大丈夫だろうか。西大井に着いたらホームから電話してみよう。久しぶりに遅い時間だが、外に食べにでも出てみようか。焼肉屋ぐらいなら開いているだろう。クラブで電源をオフにしていた携帯電話に電源を戻した。
着信履歴には見慣れない番号が列んでいた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「行動観察の体験受験お宅どうされました?」
「ゆいちゃんママは?」
「ウチ?ウチはね先月塾で受けたのよ。うちの子は積極性がなくってねぇ、他の子のまねばっかり。体操教室の先生がわるいのかも。お教室変えようかしらねぇ~」
新興の高層マンション街のカフェスペースで若いママ友が集まっている。今日の献立や子供のお受験などたわいもない事が話されているのだが、ひかりは浮かない表情でその輪に加わっている。
今までは大手の建材メーカーに勤める夫の収入も安定していて、子供もいない上、借家住まいで悠々自適の生活だったので、大学の同級生からもうらやましがられていたが、無理して西大井の高級マンションを購入した頃から旦那にもきつく当たるようになってしまっていた。
金銭面の問題ではない、マンション内での人付き合いが苦痛になっていたのだ。何かと言えば食材やワインなどの嗜好品の話になったり、特に子供の受験の話は子供がいないひかりにとっては、苦痛そのものだった。
マンションのラウンジスペースでは先ほどのママグループとは少し雰囲気が違った高層階のグループが集まっている。
「あら鈴原さん、今時プチお直しなんで普通よ」
年齢不詳の年長のマダムが口を開く。お受験ママ達とは別の場所に集まるこのグループのリーダーをひかりはマダムと心の中で敬意を込めてそう呼んでいる。お受験世代のママ達に辟易としていたひかりにも唯一、話題を会わせやすいのがファッションや美容に関する事だった。
年齢は教えてくれないが、多分自分より少し上の別の奥さんは整形に関しての独自のボーダーラインを引いている。
「メスを入れたら整形だけど、レーザーを当てるだけならメンテナンスよ。マッサージと変わらないんだから」
「へぇ、そうなんですか?」
大げさに驚いたようにひかりは手を口にやるが、心では「あなたとっくにメスが入っているんでしょ」と思っている。そんな事は口が裂けても言えないが、シワのないその顔は人間関係に疲れたひかりよりもかなり若く見えた。いっその事、私も…と思っていると心を覗かれたように次々と美容情報をマダム達はひかりに提供してくれるようになった。
次々に繰り出される”お直し”の情報には実はひかりも興味があった。若い頃には少なからずちやほや周りからしてもらっていた記憶が、さらにひかりの自尊心をくすぐった。夫にも昔のように接してほしかったが、仕事で疲れて帰る夫にマンション住人のうわさ話を延々と聞かせると露骨に嫌な顔をされるようになった。
私だってうわさ話を聞かせたいわけじゃない。新しいコミュニティになじめない自分の話をせめて夫だけでも共感して欲しかった。何の話でも良かった。気の置けない仲間とバカな話で盛り上がりたかった。二人で借家に暮らしていた頃は、夫も帰りが早く二人で外食したり、一緒に過ごす時間が多かったが、年齢も重ね役職にも就くようになった夫は帰宅の時間もそれに比例するように遅くなった。周りの環境はこぎれいになったが、二人で笑ってテレビをみていた頃のような、ほのぼのとした幸せを感じる事はもう、ほとんどなかったのだ。
子供がいないひかりにとって、この高級住宅地の同年代のママさん達との会話は異星人と話しているかのようだった。子供のつながりがないひかりにとっては、少し年上ではあるがマンションの高層階に住むマダム達との会話の方が自然体でいられて楽しかった。50代には見えないほど容姿に気を遣っている高層階の住人達にとっては、ひかりは新しい風であり、汲みしやすいお嬢さんでもあった。
「今はいいフェイスリフトがあるのよ?」
「お注射は風邪ひいてもするでしょ?」
美容に関する情報交換が主だったが、気を遣って年下のママたちと分からない子供の教育論に知ったような顔で相づちを打つよりも気が楽だった。
「こんどひかりさんに奥田さんを紹介してあげるわね」
いかにも誇らしげな年長の婦人がひかりに微笑む。
「奥田さん所の予約なかなか取れないのよ。ほら、あのテレビによく出ているあのクリニックよ」
「でも鈴原さん、もともとお綺麗だから。結構かしらね」
そう言われると、『あなたには金銭的にも無理かしらね』とバカにされたように感じて、これがきっかけで本格的な整形に足を踏み入れていってしまった。
しかし、ひかりは言葉巧みに美容整形の世界に引き込まれてゆく自分に、不安を感じながらも恍惚としていた。朝、家を出た時に感じていた自信のなさは、”お直し”が終ると確かにどこかに消え去っていて、クリニックで働くはつらつとした美人スタッフにも『ごきげんよう』と挨拶して帰るほどに自信がついていた。きっと彼女達もたくさん“お直し”して自信をつけたのだわ、私もきっとああいう風に見えてるんだわ、そう思うと力が湧いて出てくるようだった。
気が付くとひかりはこの美容整形のクリニックにも、社交場のように頻繁に通うようになっていっていた。
「ここは居心地のいいサロンと言うか、エステ感覚なのよねぇ」
そう言うマダムはレーザーの治療後でほほを腫らしながら、ホテルのカフェのようなレストゾーンでダウンタイムの痛みに耐えていた。
いつしか家のローンに使うお金も、夫にもらったダイアモンドもひかりは換金して、全て美容につぎ込んでいってしまっていたが、それでも何事にも代え難い自信を失うわけにはいかなかった。
容姿が変わっても全く気が付かない夫に対しての意地もあったが、マダム達に認めてもらいたい気持ちも強く、美容通いはエスカレートする一方だった。その分マダムからの信頼は厚く、グループ内でも若くして発言力のある立場になっていた。ただ、高層階に住むセレブ衆とは違って、ひかりの家庭には次第に負担が大きくなっていった。
「こんなこと夫には言えないわ」
ひかりの悲壮なつぶやきも、レーザーのダウンタイムで貼れた頬では、卑屈な笑いにも見えた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
奥田は人の顔とはそんなにもバランスを欠いたものなのだろうかと常々思っていた。さして醜いとも思えない患者が、個人的な打ち明け話のようにいかに美醜で苦労したかを打ち明ける様を毎日聞いていた。まるで土塊をこねるかのように、その顔を作り替えてゆく日々。徐々に奥田には何が美しくて、何が醜いのか分からなくなっていった。ただ、彼の元を訪れる女達は会うごとに自信をつけて病院を後にしてゆくので、それほど悪い気はしなかった。
いつしか個人経営だった小さな病院は大きな持ちビルとなり、深夜のテレビではひっきりなしに彼の病院のCMを打っていた。ビル内では絶世の美人がかなりの人数働いており、羨望のまなざしを受けている。彼女達は正真証明の”天然もの”の美女だ。もって生まれた容姿の良さで世間を渡り、美に対しても卑屈な所はなく、誰に対してもにこやかに対応できるまさに生きるショーケースでもあった。病院に訪れる患者は自分も容姿が良くなればあのようになれるんだと幻想に近いものを抱いてやってくるものも多い。
ただ奥田には、もって生まれた自然の美がもたらした幼少からの天真爛漫さは、患者達に授けてあげることはできないことを知っていた。患者となる彼のお客はどんなに容姿が綺麗になっても、もっともっとと作り替えられる場所を見つけては来院し、満たされることはなかった。それは見かけの美しさではなく、心にぽっかりあいた穴に石を投げ入れる行為のように奥田には見えた。
美醜にこだわる姿を見すぎているためか、奥田自身にはお金も有り余り、整形ではあったがルックスの良さもあるのに、女の影がなかった。あれほどの美人に囲まれて仕事をしているのに、噂一つないなんて、もしかしたら同性愛者じゃないかとささやかれたりもした。しかし本当の所は、ただ美醜にこだわる女性に幻滅してしまっていただけなのだ。
「先生、これが明日のオペの患者さん一覧です」
スタッフが朝一で奥田の診察室にカルテの一覧をもってくる。既にカリスマとなった彼は一日に数件のオペをこなすだけで、その他のオペは他のスタッフ任せていた。夕方に次の日の予定をスタッフに伝え、日にいくつかの主に芸能人やセレブリティの診療を行うだけだ。東京の高層ビル群の夜景を背に奥田の手には一つのカルテが握られている。
「八木君、この患者さん明日私が診察しよう」
「わかりました、それでは明日」
「ああ」
カルテを見つめている奥田の口元に笑みがこぼれた。
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他の診療室とは違って、広い室内にゆったりとした革張りのソファーが列ぶ奥田の診療室にひかりが入ってくる。診療室というよりは貴族の書斎のような雰囲気だ。サイドボードには様々なトロフィーや楯などが列んでいる。奥田は落ち着かない様子のひかりにソファーを勧めると、美しいスタッフがハーブティをテーブルに置き、流れるような動作でドアから出てゆく。
カルテをみながらゆっくりと顔を上げる奥田。
「鈴原さん、何度か当院で診療を受けて頂いているようですね」
「ええ、何度か」
普段とは違う診療室と直々にテレビにも出ているイケメン医師の奥田に直接見てもらえるとあって緊張の面持ちのひかり。
「先生、今日はどうして奥田先生、直々にみて頂くことになったんでしょうか?」
まじまじと見つめる奥田。ひかりの質問には答えない。
『私の所見では、いまのところ手術の必要はありませんよ』
それを聞いて引きつったひかりの顔が間接照明に照らされる。
「先生、それを伝える為にわざわざここに通したんですか。手術していただけないんですか?なんで、なんでなんです?」
眉根をよせるひかり。次第に声がうわずってゆく。奥田はその顔に人工的な造形を感じながらも、ひかりの懐かしい瞳に見入っていた。
「私の個人的な意見なのですが、充分鈴原さんはお綺麗ですし、無理に手を加えない方がよろしいかと」
奥田は落ち着いた口調で、ひかりに問いかける。
「美容整形の医者がね、こんな事言うのもなんなんですが、年齢なりの美しさってあると思うんですよ。鈴原さんも年齢を重ねた美しさというものにも目を向けてみたらいかがですか?」
普段奥田は治療に対しての説明はするが、こんな事は患者に対して決して言わなかった。客が手術してほしければ、箇所に関らず勧めて来た。もちろん、医学的にはどれも必要のない手術ばかりだ。健康を害するものすらある。しかし、この患者にだけはそのままの姿でいてほしい、奥田はなぜだかそう思ってしまった。ホントに今日はどうかしている。
「私はもう手術する価値もないってことですか?」
「そうじゃありませんよ、自分に自信をもってくださいって…」
ひかりが奥田の声をさえぎるように小さな声でぶつぶつと呟く
「私の自信は?わたし…どうやって…どうやって…」
顔色が悪くなってゆく。ひかりの頭に高層階のマダム達の顔がちらつく。
『あなたには無理だったかしらね』とマダムの取り巻きが自分をあざ笑っているかのように思えて来て、頭を振る。
「ね、鈴原さん、何事も自然が一番ですから。鈴原さんはもともとお綺麗ですから」
一番聞きたくなかった一言が耳元をひかりのかすめていった。
もともと綺麗なら何で私に気づいてくれないのよ、なんで…なんで!
「…った、ような…を…聞かないでよ」
ひかりの目の奥が濁ったように遠のいてゆく。今私があのコミュニティを失ったら、どこへ行けばいいの?私はだれにわかってもらえるの?私の居場所はあそこしかないのよ。
「ん?鈴原さん…何か言いましたか?」
「私には、私には…必要なのよ!ねぇ、先生お願いします、お願いします!」
立ち上がり、人が変わったように食って掛かるひかりに椅子からのけぞって後ずさる奥田。
「いや、鈴原さん、い、いや、落ち着いて下さいよ」
「ねぇ、なんで!なんで気が付いてくれないの?」
意味不明な事をわめいて泣き出すひかりに、奥田ははっとした顔つきになり顔を近づける。
「き、き、き、気付いてますよ!す、鈴原さん?いや、ひ、ひかりさん!ぼぼぼ、僕ですよ、カ、カ、カルテみて、き、気付いたんです。ぼ、僕誰だか分かります?」
極端にどもりながら、ひかりに近づいてゆく奥田に、恐怖と狂気の度合いがましてゆくひかりの瞳。
「やめて!何の事を言ってるの?あなたなんて知らないわよ!手術、手術しなさいよ!」
錯乱したひかりが奥田を突き飛ばすとよろけてトロフィーやら楯やらが列ぶサイドボードに頭をぶつけて倒れた。
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ねぇ、なんで涙が出てくるんだろう。
やっときみと再会できたと思ったのに。
僕もきみも互いに気が付かないほどに変わってしまったね。
奥田の瞳が最後に映したのは黄金色に輝くボーリングのトロフィーに刻まれた自分の名前と、そこに映り込む変わり果てた美しい自分の顔だった。
奥田幸一 第5回美容学会ボーリング大会 優勝
「ひかりとボーリングしたかったなぁ」
遠のく意識で幸一は何となくそう思った。