途中見た景色 寄った所も(備忘録として)貼ろうと思います。
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五代目花山うどん、の前に_

↓こんなパネルが。

↑「明治会堂跡
所在地 中央区銀座三丁目十四番
明治会堂は、明治十四年(1881)、福沢諭吉の発案により建設された演説会場です。瓦葺木造二階建て、建坪約620平方メートルの擬洋風建築で、福沢の親戚である藤本寿吉により設計されました。
当時の演説会場としては、福沢の建てた三田演説館など若干の施設が存在しましたが、規模などの面から、多くの演説は本来演説会場ではない貸席、劇場、料亭などで行われていました。これれに代わる施設の整った演説会場として明治会堂は建設されました。
左の錦絵「明治会堂之図」の説明文に、「会場の広間は三千人を容れ、食堂には二百人の席を設く(モウク)べし、講義室あり事務室あり結構至らざる所なく実に東京第一の会堂なり」(←おおらかな表現が楽しい文ですね^^)とあり、当時としては、会食もできる東京随一の演説会場で、政談演説をはじめ、各種演説・行事が頻繁に行われました。明治十五年に立憲改進党の結党式がここで行われたほか、明治十六年には鹿鳴館に先駆けて日本初の西洋舞踏会が行われました。
明治十五年末に福沢の所有から農商務省の手に渡り、明治十七年には厚生館と改称されて使用されましたが、明治二十三年(1890)に民間に払い下げられた後、大正十二年(1923)の関東大震災で焼失しました。
平成二十四年三月
中央区教育委員会 」
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↓そこから少し北へ歩くと_宝珠稲荷神社。

↓説明板が立っていました。

「宝珠稲荷神社の由来
宝珠稲荷神社は1615年の頃三河の国深溝の領主板倉内膳匠(ナイゼンノカミ/~タクミ)重昌の江戸屋敷内に家の安全火除の神として祭神せられたるものなり
内膳匠重昌は京都所司代及び江戸町奉行として令名高かりし板倉勝重の次男として1588年 後陽成天王の御代天正13年の頃の生れである 重昌は武勇に富み敬神の念厚く大阪冬の陣 島原の乱等に追討軍令として鎮台に務めたるも不幸にして島原に於て年令50才にして戦死したるものなり 時の将軍は家光であり㐧110代御光明天王御代である 内膳匠の兄周防の守(カミ)重宗は下総の国開宿の城主なり 年経て1760年 宝暦年間岩見の国津和野の城主亀井家に譲渡せられたるものなり
明治の維新に於ける亀井滋玄(茲監?)の功績は大(太?)鼓稲荷と共に有名なり(←廃藩後稲荷社を庶民にも開放し 太鼓稲荷を「日本五大稲荷」の一つにした事をさしてる?) 更に大正7年岡山の岡崎家に売却されたるも爾来本神社は敷地と共に地元木挽町三丁目氏子に寄進され1950年地元氏子有志相計り隣接地を買収し社殿及社務所を建設して今日に至るものなり
1972年5月
宗教法人 宝珠稲荷神社
東京都中央区銀座三丁目東町会 」
そうかーこちら、 元々は大名家や資産家のお屋敷の屋敷神さんだったんですね?(お稲荷さんを頂いた町衆さん達、説明板に「隣接地を買収~」とありますが、ここは銀座_。買収~ は大変な事だったのではありますまいか。。。)
伺います。



↓入口を守る シュ っとした狐さん達。

↑右の狐は鍵を、
↓左の狐は如意宝珠を咥えています。(一説にこの宝珠、が社号の由来 とか)

ご挨拶をしましょう。

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↓わざわざ矢場とん前を通る。(亭主はナゴヤンなので 矢場とんを見ると「同郷の仲間」の様な気持ちになるらしい。)



↓ホテルモントレ銀座。

その先の「銀座三原通り」を北へ上がるとー

目指す建物(奥野ビル/旧銀座アパート)が見えてきます_。/ つづく