「【豆相(ヅソウ)人車鉄道(ジンシャテツドウ)開通130周年】鉄道作家・森川天喜(モリカワ アキ)さん 講演会 『小田原の鉄道史 ~豆相人車鉄道にまつわる謎の解明~』」
に行って参りました。
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森川さんは冒頭で まず_ ご自身の「鬚」について話されました。/ 森川さんは大磯在住。大磯祭では「伊藤博文役を仰せつかっている」そうで、鬚はその為にあえて(鬚をたくわえる事にはあれこれ煩わしい事もあるのだけれども) 伸ばしておいで、なんだとか。 _そうと伺うと お顔も何となく伊藤さんに似ておいでのように感じられてきましたよ。 すごく印象に残る「自己紹介」でした。
↓配布資料

お話は_ 小田原に絞った鉄道の話で、濃くて面白かったです。
具体的には
・馬車鉄道 から動力を電気に変更して 路面電車(全国で四番目)へ~、
・人車鉄道 から動力を蒸気に変更して 軽便鉄道(熱海鉄道)へ~(←軽便鉄道になり、小田原-熱海間の所要時間は 約3時間半 から 2時間40分に短縮されたといいます。)、
_といった内容でしたが、このうち 路面電車は昭和31年(1956)まで小田原の街の中を走っていたので(←尚、この時「引退」した「モハ202号」は長崎の長崎電気軌道へ譲渡され、そこでの引退後 又小田原に「里帰り」して 今は小田原市内の箱根口ガレージに展示されています_) 会場の聴講者の中には「乗った事がある」と手を挙げた方が思いのほかに沢山(多分10名程は)いらっしゃいましたよー。

(↑2021.03.12のブログ記事から)
さて、小田原に越してから 馬車鉄道 だの 人車鉄道だの の事は色んな機会に見聞きする事があり 私もソレナリニ知っているつもり~ になっておりましたが、「なぜ馬車鉄道は すぐ電車に置き換えられたのか」「なぜ人車鉄道では 馬でも電気でも蒸気でもなく 人 が動力として選ばれたのか」など 「深く考えた事なかった...」んですよね。
で、この「なぜ~」に対しては講演の中で すぱり すぱり と答えが頂け、「爽快」でございました。
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以下は自分の為の「備忘録」でございます。/ 読み飛ばして下さい。
まず 馬車鉄道が長続きしなかったのは... 第一に「糞害」のせいだったそうです。(乾いた糞は風に舞い~ 濡れた糞はぬかるみ跳ね飛び~ 悪臭もし 不衛生で)/ 馬車鉄道第一号の「東京馬車鉄道」(←銀座を走っていた)もこの糞害が理由で短命に終わったそうです。
又その他にも 明治時代は戦争が多く 馬は軍に優先的に調達されていた のだそうです。
人車鉄道で 動力として「人」が選ばれた理由も、 馬も石炭も軍優先だった事があったのだそうです。そして機関車はまだ国産の物が無く、高価だった。計画に対する出資者が見つけられなかったのも大きかったそうです。(元々は熱海に別荘(←後の熱海御用邸敷地)を持っていた三菱財閥の岩崎弥太郎に資金を出してもらおうと考えていたそうですが きっぱり断られています_。明治23年の恐慌の影響もあるらしい_。)
という訳で「安あがり」である事が 第一条件になったんですね?
もう一つは 出資者になった雨宮敬次郎の意向が反映された事_。
雨宮さんは 熱海へ結核の療養のために行かれていたそうですが、 小田原から熱海へ人力車を使われたところ とんでもなく揺れ かえって病状を悪化させた~ のですって。
(当時の熱海は療養地。熱海を訪ねる人には 病を得た人 が多かったのですね?)
と言う訳で 揺れの少ない「軌道の上を走る乗り物」を作るべき、と雨宮さんは考えたのです。
こうして「人車鉄道」が作られました。

(↑2011.03.21のブログ記事から/星ケ山に置かれているレプリカ。)
ところが!
人車鉄道は その収益の85パーセントが人件費に消えたといいます~。「安あがり」のはずの「人」は 思いのほかに高くついたのです。 運賃も思った程安くできませんでした。(下等8人乗り33銭、 中等6人乗り64銭、 上等4人乗り1円。/ 参考までに 同じ距離をさして変わらない時間(3~4時間)で走る人力車の値段が65銭。) ブレーキのききにくい構造の車体のせいで 事故が起こる事もありました・・・。 / こうして収益性の悪い「人車鉄道」は 軽便鉄道へと切り替えられました。。。(軽便鉄道の機関車は開業当時はアメリカ製のものでしたが 後に国産のものが投入されています。)
ミステリー仕立て(?)の話もありました。/ ある本に 早川の古老の昔語りとして「自分が十歳位の頃(明治37年頃) 大正天皇が皇太子時代に人車鉄道に乗られた~」(←人車鉄道の「小田原」駅は小田原電気鉄道の「早川口」駅のほぼ向かい) という話が載っているのですが、それは本当か~?/ 森川さんは、 「乗り心地も悪く 安全性にも問題のある人車鉄道に皇太子が乗ったとは考えにくい。 同じ頃(明治37年頃) 迪宮(ミチノミヤ)裕仁親王-後の昭和天皇が 弟の淳宮(アツノミヤ)-後の秩父宮様と一緒に 小田原電気鉄道で箱根の宮ノ下の御用邸(現-富士屋ホテル菊華荘)にいらっしゃっている。早川の古老は 「早川口」あたりを通る宮様が乗った電車を見たかもしれない。 古老が覚えていたのは こちらでは?」 と推理。(なるほどー)
質疑応答の時間にも 面白い話が聞けました。
ある方が「人車鉄道は単線だったそうですが、すれ違いはどのように行われていたのでしょう?」という質問をなさったんです。
答えは 駅にすれ違いのための「スリカエ」と呼ばれる設備(分岐)があった、のだそうです。
(人車鉄道にはちゃんと「ダイヤ(時刻表)」もあったのだそう。とはいえ 予定通りに行かない事もあり、イレギュラー的に単線上で 方向の違う車輛が鉢合わせをする~ という事態も起こったらしく、その場合は どちらかが車輛を軌道から降ろして 道を譲った~ のだとか。へー。)
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資料の最後には「豆相人車鉄道・熱海鉄道の遺構」という章があり、
・熱海駅 駅前広場に保存されている「熱海軽便鉄道7機関車」(←国産!)

(↑熱海駅前に置かれているもの。2021.06.08撮影)
・小田原市 早川口の「人車鉄道 軽便鉄道 小田原駅跡」の石柱

(↑2024.03.04の記事から)
・小田原市 根府川の 人車鉄道駅跡を示す案内パネル

(↑2024.03.06の記事から)
・熱海の大江戸温泉あたみ(←元「南明ホテル」)前_人車鉄道+軽便鉄道の熱海駅跡に設置されているレリーフ

(↑2023.02.16の記事から)
~が写真とともに紹介されていました。(つけました写真は先生ご提供~ではなく 著作権の関係で ウチのものですが)
講演は「小田原-熱海間は 十分歩ける距離です。(ただし 一日でというのは厳しいので 途中真鶴あたりで一泊されてはどうかと思いますが。) 是非 これらの遺構をたどりながら ご自分の足で歩いてみて頂きたい~」と締めくくられました。
むーん、私も 歩けるうちにこのルート 歩いてみようかなー。。。(←もっともかつての線路跡を正確にたどる事は現在は不可能になっていますが) _とりあえず そんな「気持ちだけ」は湧いて参りました、よ^^;)))/ おしまい。