坂上田村麻呂が開いたと伝わる達谷窟(タッコクノイワヤ)毘沙門堂(ビシャモンドウ) | おだわらぐらし

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続いて訪ねた達谷窟毘沙門堂は・・・


一応「毘沙門堂」とは知って訪ねましたが 「達谷窟」の読み方がわかりませんでした^^;)/でも「延暦20年(801) 坂上田村麻呂公創建」なのはわかった。

駐車場から道を渡り 拝観入口へ向かいます。


んーやっぱり読み方はわからない。

↓あ、ここに書いてあるよ。

(↑バックの建屋は 後で行く「御供所(ゴクショ)」)
↓「たっこくのいわや」ですって。/覚えましょう!

↑説明板の文も写しますね。

「平泉中心部の南西約6km、太田川北岸の東西長約150m、最大標高差35mの断崖に掘られた洞窟が達谷窟です。窟の全面に

懸崖造(ケンガイヅクリ)の毘沙門堂があり、南面して中島を伴う池(蝦蟇ヶ池)が配置されます。また、毘沙門堂西側の岩面に摩崖仏(マガイブツ)が刻まれています。『吾妻鏡』によると、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼして鎌倉へ帰還のおあり、ここに立ちより別当寺の達谷西光寺の寺領を安堵したことが記されています。
 発掘調査の結果、平泉最盛期(12世紀)にはすでに毘沙門堂の前面に池が存在していたことが確認されています。
 平泉はもとより、東北地方における仏教信仰の実態を理解する上でも欠くことのできない重要な遺跡として、史跡に指定されています。」

↑_意外にも・・・ここには田村麻呂の名が出てきていません・・・。(駐車場の看板にはババンと書かれていたのに_)

↓チケットを求めます。



↑石の「一の鳥居」に山王鳥居に似た形の額に記された文字は何だろう?左は「財」の異体字?右は手へん~しかわかりません^^;)

参道を進みます。

丹塗りの「二の鳥居」は檜皮葺の屋根を持っていました。


扁額の文字は「達谷霊窟」。


↓「三の鳥居」。



↑扁額の文字・・・わかりません。(上は霊だと思うんですがー/ 後でこの文字は毘沙門堂で授与される「牛玉宝印(ゴオウフホウイン)」の文字の一部とわかりましたが やはり何と書かれているのかわからぬまま_
↓柱の近くの石に刻まれた文字もわからない。吉峯山のように見えますが・・・

こちらの山号は「真鏡山」(←これからお参りする毘沙門堂の掛けられた山の名 でもあります。)、なんですよね、 と言う訳で少なくとも「こちらの山号ではない」のは確か。

↓鳥居の説明板。


三つの鳥居を潜り抜けた先の聖域に現れる 丹塗りの柱の上に建つ懸造りのお堂。

ここが毘沙門堂ですね?


↑正面の扁額の文字は「毘沙門天王護國之寺」。

↓「毘沙門堂縁起」。

「抄/ 桓武天皇から蝦夷(エゾ)征伐の為 征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂が、延曆20年(801) この窟に籠る惡路王・赤頭・髙丸ら蝦夷を激戦の末打ち破り、の首を刎ね、蝦夷を平定した田村麻呂は「戦勝は毘沙門様の御加護と感じ、その御礼に京の清水の舞台を模して九間四面の精舎を建て、百八体の毘沙門天を祀り、鎮護国家の祈願所とし、窟毘沙門堂(別名を窟堂)と名付けた。」」(余計な補足/ 京の清水の舞台の建造年は不明ですが平安後期~鎌倉時代というのが通説のようです。尚、『吾妻鏡』⇒文治五年9/28には「坂上将軍は窟前に九間四面の寺院を建立し 鞍馬寺に模して多聞天(=毘沙門天)を祀る」と載るそうな。 // 蝦夷の頭目として名の上がっている悪路王については 延暦20年の征夷で田村麻呂に降伏し 後に都に引かれた上刑死したアテルイがモデルでは という説や 後の創作とする説等 色々のようです。)

昭和21年、隣家から火が出て、四代目だった毘沙門堂は全焼しましたが、本尊他多くの仏像が運び出されて無事だったそう。 今建つのは昭和36年に建てられた五代目のお堂ですって。

長いので全文は公式HPでお読みください。⇒

↓「中世文学の故郷 達谷窟と田村信仰」。

こちらも全文はHPで。⇒
(なるほど、毘沙門堂の創建の逸話から いつしか坂上田村麿を毘沙門の本地とする「信仰」が生まれた、んですね?)

↓ではお堂へ~、


(↑屋根のめり込み方がスゴイですよね。)
_と まずその手前を守る狛犬から見ていきましょう。


↑どこか愛嬌のある二匹、です^^)
↓堂内は撮影禁止なので~ 

せめて(堂内に入った証拠として)↓下り口。


で 堂内では_
信者さん(?)が上げられるのか 読経の声が続いていました。参拝者は思い思いに祈りをささげていましたが、中には柏手を打つ方もあって ちょっと驚かされました。(がこちらは神仏混交のお参り処、リーフレットにも「柏手を打って祈るもよし」と書かれていましたよー)

続いては「顔面大仏」を拝見。

岩に直接彫られた仏様。
寺伝によると「源義家公が馬上より弓弭(ユハズ)を以って彫り付けた」と言います。(いやそれは無理がある^^;) 残念な事に明治29年(1896)の地震で胸から下が崩れ 今のように「顔だけ」が残った~そう。/リーフレットに「南無阿弥陀仏の名号を唱えるとよし」とありますから 阿弥陀仏なんですね?

↑大仏前に簡素な拝屋が作られていました。
↓お顔の部分。(かろうじて顔とわかる~ 感じですね?)


(↑余談ながら大仏の右目の上にぶら下がっているのはスズメバチの巣_)

引き返します。


続いては毘沙門堂の前の弁天堂へ。

弁天堂も昭和21年の火災で一度焼失していますが、その後昭和46年、更に平成25年に修復されて今に至っているそうです。



↑で、このお堂の扁額が又「難解」でしたー。(全然読めません^^;)
お堂前の説明板の『物語』なかなか楽しいので ちょっと写します。
「蝦蟇ヶ池辨天堂
 昔、満面の水を湛へてゐた達谷川(タッコクガワ)を美しい浮嶋が行き来するのを、奥刕巡錫(オウシュウジュンシャク)の慈覚大師は、五色の蝦蟇の姿である貧乏を齎す(モタラス)貪欲神(トクヨクジン)が化けてゐると見破った。大師は、嶋を捕らへて窟(イワヤ)毘沙門堂のまえまで引きゐ、再び逃げ出さぬやうに一間四面の堂宇を建立し、蝦蟇を降伏(ゴウブク)する白蛇、即ち宇賀神王を冠に頂く八肘(ハッピ)の辨財天女を自ら刻して祀り、蝦蟇ヶ池辨天堂と名づけたと傳へられる。(中略) 辨天様は巳年守本尊。昔から「薬師、辨天には銭揚げて拝め」といはれ、金運商売の神で商家の信仰が篤い。智恵の神、技藝の神。そして、「生けるが如」と称される美しい御姿は美人の譬(タトヘ)とされたが、悋気(リンキ)な天女の故、仲良き男女は共に詣らぬ習しがある。また、蝦蟇ヶ池は神の池で、こゝに棲む生きとし生けるものは古来から辨天様の御使であり、特にも虵(ヘビ)はその最も尊いものとされてゐる。」 (リーフレットの「辨天堂」の項には 「悋気な天女の前で縁結びを願うと逆に縁切りになる」とまで書かれてましたよー^^;)

↓この池(蝦蟇ヶ池)の水は本当に豊でした。



(↑川からの水の引き込み口。)
それにしても弁天堂が建つ島の正体が貪欲神(トクヨクジン)だったとは!です。


続いては こちらを管理している西光寺さんの方へ行ってみましょう。

↑右が来しなに通った鳥居の連なる参道。
↓左へ行くと西光寺さんです。

時に、道の分かれ目に立つこの大きな杉の木は「奉行坊杉」、というそう。

↑昭和21年の火災ではこの杉が 木の東にある西光寺のお堂を守ったそうなー。/ へー。

_ つづく