嶽之下(タケノシタ)神社 | おだわらぐらし

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縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

(つづき)

では 嶽之下神社へ向かいます。(先にお参りした「嶽之下宮(タケノシタグウ)」及びその「奥宮」とは別系統のお参り処です。)

↓道脇に 猪の目型っぽいくり抜きを持つ小さな石の祠。 その右横の石には うっすらとですが「馬頭観世音」の文字が読めます。


(↑石祠に馬頭観音が祀られているのでしょうか? それとも別 かな?)

↓「足柄小←」という貼り紙のある方へ 坂を上がります。(足柄小は小田原市にもあるので ちょっと親近感がわきます^^)


↑へー この坂は「馬喰坂(バクロウザカ)」っていうんだ。
↓少し坂を上がった所にも「馬頭観世音」と彫られた石や 石仏・・・。


↓その少し先の 斜面地の上には 双体の道祖神さん達。


足柄峠へ向かう道_
人や家畜の供養のための石像物、疫病を防ぐ塞の神_...
(こうしたものを 人々に祀らせるような)
色んな事があったんでしょうね。

更に坂をのぼります。




(↑道脇には まだまだ「見頃」の桜やハナモモ~)
↓右手に鳥居が見えてきました。


↑鳥居の扁額には「嶽之下神社」の文字。/ ここですね。

↓手前の庚申さんから見ていきましょう。

(↑左手前の石には「当村氏子中」と彫られています。)
↓庚申塔には 日と月 六本の腕を持つ青面金剛(ショウメンコンゴウ) 三猿 が刻まれています。それを載せる台に刻まれている文字は 庚申講 でしょうか?

↓庚申塔の左の石には「馬頭観世音」。右の年号は「天正十・・・」かなり古いものですね?


石段を上がります。

あら、すぐ社があると思ったのに・・・。


少しうねった道の先に 社殿の屋根が見えてきました。


石段を上がると 左手に手水舎がありました。


↑が残念、水は出ませんでした・・・。
↓横に立つ石灯籠。

↑火口の形が ちょっとナナメった猪の目に見える? 竿部分には蓮の葉を思わせるレリーフがついているし 個性的ですね?

改めて社殿へ。


↑こちらが「嶽之下神社」。
↓由緒書。


↑写します。
嶽之下神社
祭神 木花開耶姫命(旧浅間神社祭神)
   須佐之男命(旧天王社祭神)
   国常立尊
    伊邪那岐命(旧熊野神社祭神)
    伊邪那美命(〃 )
創建年月不詳 

再建 建武二年(1336)十二月


    御殿場市古沢 祭主 高村典子
古老の口碑
「源朝臣頼光、天延年間(973~)上総国任限充帰京の際 足柄山にて酒(←坂?)田金時を召し抱えられた。
 その時 富士山に向い遥拝の奉幣(金幣にして幣串弐尺五寸金垂れ 二尺二寸三分の古幣の神体なり)勧請の社 故に富士向い浅間神社と崇め奉る。
帰京の後、神鏡面差渡し三寸九分暑さ五分 裏面に唐草の如く 五三の桐形あり、この他 古額壱面あり、文字は(浅間宮 長 壱尺八寸 巾 壱尺)
一品中務卿(イッポンナカツカサキョウ)尊良親王(タカヨシシンノウ)
竹之下合戦(建武二年/1336年)の節の御清筆(御宸筆?)なりといわれている。この時の御製(ギョセイ)に
  竹のした しばし立ちよる程だにも
   起ふししげき 世をいかにせむ

平成十二年不審火により焼失したが 平成十九年再建した
 令和二年四月吉日
   嶽之下神社建設委員会 」

↑申し訳ありませんが これだけではよくわかりませんね? / 祭神達が「旧〇〇社祭神」~ と書かれているので 近代に入ってから 村内の三つの神社が_おそらくは明治政府の「神社合祀令(一村一社が推奨された)」を受けて_合祀されて その際に 社号が村の名をとって「嶽之下(竹之下)神社」になったのかな? と思われますがー。
 できたら合祀された三つの神社の旧社地、せめて「建武二年(1336)」に「再建」なったという「浅間宮」が今建つこの場所にあったのかどうか 知りたいですね? (同じ「たけのした」がつきながら 異なる祭神を祀る (500m程北の)「嶽之下宮(タケノシタグウ)」との関係も 気になりますー。)

ともあれ お参りしましょう。


拝殿内には (元)浅間社らしく 桜を染め抜いた幕が掛かっていました。

ありがとうございました。


境内には他に_





↑不思議過ぎる形状の木の幹の一部(?)が置かれていました。

↑横の説明板。一部読めませんでしたがー・・・
「欅(ケヤキ)の保存・展示について
 欅は平成十二年暮れの火災のとき、煽り火の影響も有り、著しく樹勢が弱まり平成十八年改築の際、近い将来倒木が懸念され、二百年、神と共に区民・旅人を見守り■いた御神木ですが止む無く伐採されました。根元の直径■・五■、幹周り■・八米の大樹で年輪による推定は二百年、文化元年(1804年)の発芽と推定されます。時は光格天皇の在位、将軍は徳川家斉の時代です。欅が三十三年成長した天保四年、同じ七年は後に言われる天保の大凶作期で、二宮尊徳(金次郎)が、天保八年(1836年)五十歳のとき窮民救済のため「報徳の教理」を説いて当竹之下村をはじめ駿東郡の村々を回ったと小山町文化財の栞に記されております。
 展示の部分は伐採のとき第一枝の中間の<こぶ>を中心にした■の・・・は有志のご協力を得たもので・・・
  平成二十年(2008年)正月 」
↑展示されているのは 幹ではなく一番したの枝のコブ部分でしたかー。/ 欅とは直接関係ありませんが 小田原の偉人-二宮金次郎の名前が見えたので その部分はしっかり読みました^^)。

その北側に 小さな祠がありました。


↑摂社かな?末社かな?どちらの神様が祀られているのか・・・ ちょっとわかりませんでした。


境内を後にしようとして 正面に富士が見える(ハズ)なのに気づきました。

やはり「(旧)富士向い浅間神社」は 昔からこの場所にあったのかも! (いや竹之下では 富士山は他の場所からもよく見える、かな???)

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続いては宝鏡寺というお寺を訪ねました。