
今回の補修工事で 古希庵の茅葺の門と竹の塀も 新しくなっています。

↑が山縣さん自身の揮毫になる「古希庵」の名の入った板は 以前のまま、の物が使われていました。
↓門の横にあった説明板。

(↑これのみ 2020.11.15撮影)
写します_
「古希庵の由来
明治四十年、明治の元勲、山縣有朋公は、ここ小田原の地に、独創的な庭園を築きました。ときに公の七十歳、古希の年に因んで古希庵と名付けられました。相模湾を望む小田原城址製法の丘陵地中腹に築造された古希庵は、同じ公の所有だった東京の椿山荘、京都の無鄰菴とともに、近代日本庭園の傑作とうたわれました。
公は築造当時、すでに政界を退き大正十一年に没するまでの晩年を古希庵で過ごし、その間、政財界に隠然とした影響を及ぼし続けました。当庭園の顔、茅葺切妻四脚門の山門は「青竹の垣(←銅板では「庭」)、茅葺の門、 既に山荘めきたる門に入って忽ち潺湲(センカン)の響きを聴く」の風情を史実により復元しました。紋には山形鋼自筆の額を掲げ往時を再現しています。公は作庭に当たって、その独自の造園構想から、随所に新手法を駆使し、主題を水流に求め、滝組により変化ある景観と力動感を表出することに成功しました。
それまでの日本古来の庭園は、山水回遊式による象徴主義でしたが、あえてこの伝統を排した古希庵築造は、その後、専門の造園師たちが新手法として取り入れたことで、明治、大正期の自然主義的和風庭園のルーツとなりました。「山縣有朋公の庭園に水無きものなく古希庵もまた水の流れに趣向が・・・」と評されているように高低差14.9メートルを工に利用して流水を配した、洗頭瀑、聴潭泉などの滝組みに大きな特徴があります。
当社は、研修センター建設に際し学識経験者による調査に基づき保存と復原に最新の注意をはらいました。
一、公開日 毎週日曜日
二、時間 午前十時~午後四時
三、入場料 一般百円(全額市内福祉施設へ寄附)」
説明板内にある「山門」の説明箇所_
「青竹の垣、茅葺の門、 既に山荘めきたる 門に入って忽ち(タチマチ) 潺湲(センカン/サラサラと水が流れる様)の響きを聴く」の部分は、『東都茶会記』の中で高橋箒庵が書いている文の引用。(この文を元に今建つ門が復元されたんですね?) 先の 皆春荘での講義の中でも 講師の先生が読んで紹介して下さっていたので、見学者はふむふむと頷きながら 先生が 古文調の一文を再度読まれるのを聞きました。(ただ・・・ どういう訳か銅板の方では「青竹の垣」が「青竹の庭」となっておりー・・・ 「ここは誤りだねー」と先生がおっしゃて 小田原市民としてちょっと恥ずかしかったです^^;))) (誰か直してーーー)
敷地内に入ると、
すぐに 潺(セセラギ)を渡る事になります。


(↑先程聞いた「門に入って忽ち(タチマチ) 潺湲(センカン)の響きを聴く」が思い出されますね?)
↓その潺の出発点と思しきポイント。少し 水を「落とし」ているので これがさらさらという水音の元になっているのでしょう。

(時にこの流れ_ 上の皆春荘の小川と繋がっているはずなのですが どうなっているのかな? そこは考えちゃダメなところ?^^;)

ともあれ この流れに沿って庭の西の小径を下っていきます。
さて、(話は少しそれるのですが)斜面地に椿の木が植えられていました。(見学者は 廊下 からこの木を眺めています_)

↑これは東京の「ホテル椿山荘」(←元・山縣有朋の本宅)の椿が移植されたもの、とか。/ 尚、お返しに 古希庵からは椿山荘にヤマモミジ(←有朋公お好みの木)が贈られたといいます。(ヤマモミジが植えられたのは三重塔の近く、だそうですよ?今度行ったら見てみましょう。)
↓門(と建屋)のあった場所からは 一段下がった場所に 水が流れる開けた庭が作られています。



ここが 広い庭園の中で 最初に作庭された場所、だそうです。
最初 がどんな状態だったかはわからないものの、講師の先生によると 「今は苔に覆われてますが、山縣さんのお好みを考えると おそらく 無鄰菴のような芝の庭ではなかったか と思われます。」との事。

↑写真ではわかりにくいのですが 小川は(写っていない)右奥で分岐し 飛び石の手前で 合流 しています。この まるで「庭を作った」というより「そのままの自然を庭に取り込んだ」ような雰囲気こそ 山縣さんの庭の「らしい」ところ_。/ 尚 見学者が携帯を向けているのは 流れの合流地点 です。
さてこの緩やかな流れの小川はどこから来るのでしょう?

流れを遡ると・・・ 小さな滝が現れました。

「洗頭瀑」という名を持つ滝で、山縣さんはここを気に入っていらしたようです。(因みにここは庭の東の端。門付近の潺(セセラギ)とは「別」の流れ、です。)


↓近くに置かれていたプレート。

↑「『滝の姿は始終同様なる筈なれども打ち見たる処始終変化あるやうにて見れどもさらに飽く事なし、自分は時々此処に佇みて長時間眺め居る事あり』 と山県公が語ったように、水量豊富で、滝踏みも左右から滝添石が迫り、立体感に富んでいる。」
頭上を覆うように枝を張り出しているのは 楓の木。山縣さんお好みの木ですし かなり年数が経っている事から 古希庵が作られた頃に植えられた物と考えられる~そうです。


何ゆえ楓は開けた西側にだけ枝をのばしているのか・・・。/ 講師の先生によると「東に生えている杉からの被圧のせい~」との事。(力関係的に上に伸びる針葉樹の方がまさっている、という事ですかね? ともかく楓はしなやかさをもって この環境に順応し 横に伸びる事で陽光を得ている。 そして人は秋、 空を覆うような紅葉を鑑賞できる・・・。なるほどー。_「もっとも 山縣さんがそこまでを考えておられたかどうかはわかりませんけどね?」と先生。
振り返ったところ_。

(↑手前が流れの「分岐点」になります。)
↓川は庭を東から西へ流れ切ると、施設の渡廊下の下を潜って 西の(門付近から流れてきた)あの潺(セセラギ)と合わさります。

見学者は東の散策路を通って、一段下の庭に向かいます。

(↑まず「順路2」の方へ)



(↑木に頭をぶつけないでねー^^;)
途中で見た「浸み滝」なるポイント。

↓上の庭で東から西に向かっていた川は この下の庭では 西から東に向かって(写真では奥から手前に)流れています。

川を渡ります。



↑このポイントには 切り石の橋が架かっていました。
(↓斜面から見た切り石橋。)


さて、その先_。
↓川の北斜面に 一見すると「何でもない」ような石が はまって いました。


私達も 講師の先生がレーザーポインターで指示して下さらなければ見つけられなかったような 目立たなさ。

↑しかしこの石は人為的にここに「置かれて」いるのです。なぜなら矢跡を持つ_ 石切り場で割られようとしてー でも割られず放置された いわゆる「残念石」だからです。/ 山縣さんは石切り場かどこかにあったこの石を わざわざ自分の庭に運ばせ、知る者しか気づけないような場所に置いた_。なぜか。
講師の先生は「これ一点だけでは何とも言えないのですが、実は無鄰菴にも複数「残念石」が置かれているんです。 山縣さんは 低い身分からなりあがった秀吉と やはり下級武士出身の自分とを比べて考えていたところがありますから多分 残念石に
「秀吉」のイメージを重ねていたんじゃないでしょうか。」 / なるほどー。
さてこの石の左手(西)には 一体のお地蔵さんが立っていました。

↑お地蔵さんの前には(飛び石ではなく)「橋」が渡されています。 このお地蔵さんだけ のための橋、と思うと ちょっと 特別 な感じがしますね?
(しかしこの地蔵さんが 元々どこにおいでになったのか、どういう経緯でここへいらっしゃる事になったのか、ググっても出てきませんねえー・・・)

↑川は屋根付き廊下の下から流れてきています。廊下の向こう側、を見に行ってみましょう。

(↑飛び石を渡ります。)

(↑さっき見上げたお地蔵さんを 見下ろしています。崖と呼んでよい程の高低差。)
時に_この屋根付きの廊下は 庭の上、と下、の研修施設建屋を結ぶために作られた後付けのものですが 趣を欠く様でもありながら これによって急な斜面地を安全に歩ける、とも言えます。/ これも「用と景」ですね?

↓廊下が川を跨いでいる部分から 東のお地蔵さんを見たところ_。

↓そこから西を向くと
「聴潭泉(チョウタンセン)」という名の小滝を見る事ができました。

↑因みに この小滝の西奥あたりに (現在建屋は箱根湯本の蕎麦屋になっているところの)「暁亭」が建っていたそうです。
もしかして_
川は暁亭の前を流れてこの聴潭泉から水を落としていたのかしら・・・?
廊下を上がってもう一度「始まりの庭」に戻ります。

(↑川の中に飛び石が見えるでしょうか?)
↓分岐点を今度は「順路3」の方へ向かいます。

かつて母屋が建っていた場所の南に「兜石」と呼ばれる石が置かれていました。

まるで「元々ここにあった」ような 庭石感の無い石ですがー 実は「村人が牛24頭で曳いてここに運んだ」という石なのだそう。
↓近くにあった文字を刻んだ石。

しかし 字がかすれて読みづらくなっており、新しく別のプレートが脇に置かれていました。

↑「兜石
『板橋村の人々兜石てふ(=という)大石を前庭に引きいれければ、
”村人の 力らをこめて我庵の
には(=庭)にすゑけり この兜石 有朋”』
兜石は「儼然(ゲンゼン)一庭の鎮護」として庭園の要め石となっている。この大石は、板橋村の村人たちが引いてきて据えたものである。」
石の置かれた場所は 庭の中でも高い位置にあり、前庭を一望できる~ だけでなく その先に(今は木が育って隠していますが 築庭当時は)秀吉が築いた一夜城のあった石垣山や 相模湾も「借景」として眺められる「視点場」であったと思われます。(+ 秀吉と自分を比べていた~ という山縣さんは、自宅から見える石垣山に 特別な想いをもったいた~ そうです。)

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なかなか上手くまとめられませんが_
こんなのが「無料-解説つき 庭園見学会」の 古希庵の部、だったのでございました。/ おそまつさまでした。+おしまい。
<参考までに_>
↓2020.11.15の見学会の折の写真。