
↑宗我神社から 南の参道を城前寺の方へ丘を下りてしまうと、そこから城跡へ行くには又坂を上がらねばならないので・・・ 長一商店さんの前を通って うにうに っと歩く事にします。
↓長一商店さん前。/みかんの集荷でお忙しそうでした。


その近くにあった石塔群。(「萬霊等」や「庚申塔」など)

↓この庚申塔は面白いよ? 大抵三匹並んでいる申(サル)が 一匹ずつ彫られています。



↑こういうタイプのものもあったんですね?
↓すみません、こちらの石碑は読めませんでした・・・。

石塔群の東に 大光院 というお寺がありました。

境内には梅が沢山咲いていました。


↓由緒書。

一部写します_。
「本山修験宗 諸法山 実相寺
大光院
◎由緒沿革
当院は本山修験宗(山伏)の総本山京都の聖護院の末寺なり.
本尊不動明王は曽我兄弟を幼少の時から育てた養父曽我太郎祐信(鎌倉時代当地の城主. 桓武天皇の後胤 平 祐家の子)の守本尊にして、曽我兄弟は特に不動明王を信仰していたので、養父の守本尊であるこの不動明王にも当然本願成就(仇討が出来るよう)の祈願をこめたことであろう.
祐信より十一代目祐高の末子 氏重出家いたし、廃寺状態になっていた当院を再建し、文明十八年(1486)秋 先祖の守本尊不動明王を奉じて中興開山となり、現在に至る。 (当院宝蔵の過去帳より転記) / 後略」
↑なるほどー。 / もし曽我氏が桓武天皇の末であるのなら (事実かどうかはおいておいて) 宗我神社の祭神の中に桓武天皇がいらっしゃる事、納得できますよね? (逆に言うと この文を読むまで「なぜ宗我神社の祭神に桓武天皇が?」と疑問に思っていましたよー。)
尚、曽我 というと 兄十郎と弟五郎兄弟の仇討ちが有名過ぎて「本懐遂げるも 十郎は討ち死に 五郎は刑死」で なんだか曽我一族が終わってしまったような印象をもっていましたが、 兄弟の養父祐信は仇討ちに関して罪に問われる事なく、 事件後も御家人として頼朝に仕えているんですね。
曽我氏の系統は室町以降も続き 近江の国に所領をもらった一派もあるようですが・・・
曽我の里の方は 後北条氏の北条氏康との争いに敗れて滅んだ~ といいます。
少し行くと_

道脇に不思議な祠がありました。

MAPには「北台の道祖神」と表示されるのですが、祠には「八幡社」という札が貼られていました。

しかし祠の下の石には梵字のキリークが記されていて・・・

↑これは 阿弥陀如来を表す種字(千手観音を表す場合も) のようなんですよねー・・・。(はて)
更に行くと_

(↑梅の枝も向こうに チラ と富士山)



梅畑の終わる辺りに 何か 立っていました。

「曽我氏館迹」だ!


↑しかし、、、えー? どうやってあそこまで行ったものか。 畑の中をつっきって???
↓いえ、ちゃんと 畑を踏まずに行ける 「参道」のような小径が作られていました。(よかった_)

改めて「曽我氏館迹」。

その横の説明板。

読んでみます_
「曽我氏館跡伝承地
(曽我祐信(スケノブ)屋敷跡)
『新編相模国風土記稿』に蘇我太郎祐信屋敷跡が「(曽我谷津)村の南方」・「城前寺の後」にあり、四方を道で囲まれているとしている点から、館跡はほぼこの丘一帯を考えられる。その規模は、「方二三町許(←許は数値に幅がある事を示す助詞)」(一辺が約200~300mの四角形)で、外構の土塁の跡や、高さ2.5m前後の土塁で囲まれた内郭跡(一辺が100mほど)が館跡の中央に残っていたことが記されている。
現在、地表面からこれらの遺構を検証することは困難である。 平成元年、小田原市教育委員会によりこの区域の一部が発掘調査されたが、館にかかわる遺構・遺物はまだ確認されていない。
曽我祐信は曽我兄弟の養父にあたる人物としてよく知られているが、曽我氏は平安時代から戦国時代にわたってこの地に拠点を置いたと考えられる。
この丘は周辺で鎌倉街道・大山道・曽我道が交差し、背後に剣沢の水源を控え、さらには眼前に足柄平野・箱根連山を見渡すなど交通・水利・軍事上、館を構える上できわめて良好な条件を備えていたといえる。」
う・うーん、
館があったとしたら ここが最適~ なのに遺構は発見されていない、んですかー。(とことん畑として耕された?)

と、ともあれ 周辺をもう少し歩いてみましょう。
石碑の前から東へのびる(小石でルートが示された)散策路。

導かれるように進むと 祠が建っていました。

説明板を読んでみます。

(↑畑への立ち入りを制する様に設置されたガードフェンスには 蜜柑? がなっていました。)

↑「曽我一族郎党の供養御堂
曽我氏は太郎祐信(スケノブ)(曽我兄弟の義父)以来、連綿として十四代甚五郎信正まで繁栄しましたが、永禄二年(1559)に北条氏に叛いた為、氏康に攻められ、六月十六日、城に火を放ち 城主の信正とともに三百六十余人が自決したと伝えられています。
その後、四百年の月日が経ちましたが、誰一人としてその霊を供養する者もありませんでした。
平成五年六月、曽我兄弟の仇討八百年記念を機に、曽我御堂供養の会有志により観世音菩薩を祀り、曽我氏一族の供養のための御堂を建立することになりました。」
あ、結構最近のものなんですね?
でこれが供養御堂_。


中においでになった観音様。

(合掌)
祠の裏手にも 何か・・・ ありますね?


「物見塚古墳」だそうです。

↑「物見塚古墳
小田原市教育委員会は、平成元年八月、地元自治会をはじめ土地所有者のご協力を得て、この物見塚を発掘調査しました。
調査では、古墳の石室の側壁や天井石は消失していましたが、玄室部分は小さな川原石が敷き詰められ、ここから鉄鏃(テツゾク/鉄のヤジリ)や金環などが出土しました。
この結果、この古墳は、古墳時代後期(七世紀)の墳丘をもつ円墳であったと推定されます。
また、この古墳近くの西側の一画からは、弥生時代から平安時代、室町時代頃を考えられる柱穴が多数確認され、この中には柱穴の底に川原石を礎石としたものもありました。これらのことから、この付近一帯は古くから人々の生活が営まれていたことがわかります。
小田原市教育委員会」
ここが「物見塚」と呼ばれているという事は きっと眺めのよい場所だったのでしょうね?(今は木や建屋で 特に眺望が良い場所 ではありませんけれど・・・)

来た道を引き返します。

続いては 曽我丘陵の西斜面にある「弓張の滝(ユミハリノタキ)」へ行ってみましょう。

畑の中の道を歩いて「剱沢川(ツルギザワガワ)」へ出ます。

この川を遡れば 滝、です。

が。あれ?/ つづく
(お断り/撮影日 2/26)