宗我(ソガ)神社 | おだわらぐらし

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縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

すっかり間が開いてしまいましたが_
2/26にUPした曽我の梅まつり(のサービス延長期間)で梅を見た後~ の話を打ちます_。



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曽我(ソガ)の梅畑の中を歩いた後は、
丘の上に建つ 「宗我(ソガ)神社」へ行ってみました。(住所は 曽我谷津(ソガヤツ))

まず 玉垣越しに説明板を読む。

↓由緒書。

「祭神 宗我都比古命(そがつひこのみこと)
    宗我都比女命(そがつひめのみこと)
 宗我神社は明治28年の神社上書に依れば、「長元々年(1028)に奈良県橿原市曽我町の式内大社 宗我都比古神社(←宗我坐宗我都比古神社の事でしょうか?)の神主だった宗我保慶が祖先の宗我都比古命の墓を訪い、同時に武内宿弥(←応神天皇(≒八幡神)に仕えた臣下。八幡神社に祭神の一柱として祀られている事が多い人物)及び宗我都比女命を鎮祭して・・・」が当社の創建と決めています。
 足柄上郡旧曽我村及び曽我大沢と、下郡の下曽我に属する旧四ムラを合わせて、古くは曽我郷六ヶムラと呼ばれました。その総鎮守が、宗我神社でした。小田原北条氏の時代から小田原城鬼門擁護の神社とされていました。江戸時代には小沢明神の名で総崇(尊崇かな?)され、明治に入って六ヶ村それぞれの鎮守をこの社に会示(合祀?)し、新たに宗我神社となりました。現在の社殿は大正12年(1923)関東大震災後に復興したものです。」

↓神奈川県神社庁の「宗我神社」の頁、
https://www.kanagawa-jinja.or.jp/shrine/1210157-000/
↑ここに載っている話を 打ち足します。
・まず この地には地元民が祀っていた「小澤大明神」があった。
・平安後期に宗我播磨守保慶(←表の説明板では「神主だった」という保慶さんここでは武人風の名で登場。)が「当所に下り」、
宗我都比古神社に 併せて武内宿祢命 をも祀って 社を創建。
曽我祐信(スケノブ)(←曽我兄弟の養父でここ曽我荘(ソガノショウ)を治めていた平安末期の御家人)が 「今の祭神 小澤大明神宗我都比古宗我都比女 を再興」。
・明治初年の神仏分離令に依って 宗我都比古宗我都比女を主祭神にして、曽我郷の総鎮守産土神として祭祀。

祭神が宗我都比古命宗我都比女命ということなら 奈良の宗我坐宗我都比古神社と同じで かつて権勢を誇った蘇我氏に関係深い~ という事になりましょうか。 (この地に入植したソガ氏が かの蘇我氏に繋がる~ のか 泊付けにしようとした~ のか...)/ ところが LocalWikiによると 不都合な事実的に 宗我・蘇我 といった名は『風土記稿』には見えないそうです。(『風土記稿』には 小沢明神の祭神は 「中央に小沢明神(←主祭神扱い?)、左に応神天皇、右に桓武天皇」とのみ載るそう_)

余談ながら Wikiの「蘇我氏」によると、
当の蘇我氏は 平安時代になると 先祖の名を名乗るのを避け 宗岳(ソガ)と改名。更に後にこれを訓読みし宗岡(ムネオカ)と名乗るようになったそうなー。


↓由緒書の右には「縄文時代の土器づくりのムラ」というタイトルのボード。

(↑マップを見るに_「★現在地」は 「曽我岸 本岸遺跡第I地点」 に含まれているようなのに・・・ 説明文は「曽我谷津 岩本遺跡第II地点」からの出土品とそこからの考察~です。なんでだろー。が、ともかく_)
出土した土器を見ると 縄文時代のこのエリアには 山梨や静岡から文化が伝播していた事がわかる~ のだそうです。興味深い事ですね?

境内 右手に手水舎。

手を浄めます。



社殿に向かいましょう。



唐破風の上に「三つ巴」の神紋。/三つ巴は八幡様の神紋。「小沢神社」の祭神に応神天皇(≒八幡神)がいらっしゃった事を思うと すんなり納得できますね。


↑唐破風の下には翼を持つ龍。その下に目出度い鶴と亀。更にその下に(というか虹梁の上に)又々龍。

ご挨拶。


↑正面に鏡。扁額に社号。
↓右手の駒札に 由緒書。

↑「郷社 宗我神社
 小田原市曽我谷津鎮座
一、祭神 宗我都比古命 宗我都比女命
  配祀 応神天皇 桓武天皇 小澤大明神(←江戸時代の文献と異なり 小澤大明神より 天皇家の先祖が上位に記されていますね?)
一、例祭日 六月二十九日
一、由緒 宗我都比古命ハ 武内宿禰ノ子孫 人皇後一條天皇 長元元年十一月 宗我播磨守保慶ソノ先 社ヲ祀ラムトシ勧請當地ノ鎮守トシテ北條氏稲葉氏大久保氏 相次■尊崇ス」
(↑表の由緒書には 主祭神二柱の神名しか書かれていませんでしたが、ここには配祀神三柱の神名もあります。/ 祀神三柱は『風土記稿』に載る「小澤明神」の祭神の名と一致していますね? 

因みに神社庁の頁では 現在のここ宗我神社の祭神を 宗我都比古之命 宗我都比女之命 応神天皇(≒八幡神) 桓武天皇 小沢大明神、の五柱 としています。

尚、祭神名に「桓武天皇」が見える事には この地に来た曽我氏に「桓武天皇の後胤説」があるから、かも? ← 後で読んだ大光院前の説明板に「曽我祐信は桓武天皇の後胤 平祐家の子」とありましたし。


社の周りを回っていましょう。

拝殿の後ろに神殿部があります。この形は「覆い屋」かな?(中に祠があるのかもしれませんね?)


神殿裏手に 摂社末社に相当するらしい祠や石柱がありました。



↑神名が刻まれた六角柱の社日塔。(山陰ではよく見たスタイルですが、私個人にとっては 小田原では 上曽我の瑞雲寺近くで見た物に続いて二例目、です。)
↓砂地に直にすえられた二つの小祠。(山陰の物差し的には荒神さんに相当しそうですが・・・ 相模の国では何の神様でしょう?)


社殿東にはお稲荷さんがありました。




境内には他に、
神楽殿風の建屋がありました。

_と こんなのが 宗我神社でした。


<+>
南の鳥居近くに、注連縄をつけ_いくつもの宿り木をつけた欅(ケヤキ)の大木がありました。



↑ユニークな姿なので遠くからでも はっきりソレとわかり、良いランドマークになっていました。


続いては曽我の城跡に行っております。

(お断り/撮影日 2/26)