金次郎生家の南に建つ 尊徳記念館に入ってみましょう。(小田原に戻ってから訪ねるのは 初めて、です。)


初代の建屋が建てられたのは昭和30年(1955)_。/ 生家が現在地に復元さるのが昭和35年(1960)ですから・・・ それより5年早くできている、んですね? (当時は現在の博物館的性格より 教育施設的性格の方が 強かったらしいー)
尚、今ある二代目の建屋は昭和63年(1988)「二宮尊徳生誕200年祭」の一環~ として建てられています。

入館すると まずロビーがあります。

正面のモザイク画_。

↑絵の右下に「坂口堤の松」とあります。(酒匂川の右岸_栢山の坂口堤には 金次郎が土手の決壊を防ぐため植樹した松が残っています。/ つまりこの絵は 酒匂川の土手の内側に立って 西の堤の松並木を見ている、んだと思います。)

↑絵の前には 背板に柴薪(というより そだ?)をくくりつけた背負子(ショイコ)が立てかけてありました。
展示室の前に金次郎像_。

↑「一円融合」「至誠勤労」「分度推譲」などは 金次郎が諭しの中でよく用いた文言、のよう。(参照⇒報徳思想)
↓この先が展示室。(有料エリア/ですが 「福寿カード」を持つ60歳以上の小田原市民は無料~^^)

(- ガラスケース内の貴重な資料以外は撮影OK -)
まず現れるのは 小田原エリアのマップ。(後でわかりますが 富士山までが入っているところが ポイントです。)

えー? 金次郎を知るには まず地理から、という事?

ナニナニ_ 栢山のある足柄平野 酒匂川右岸は、 酒匂川に加え箱根の外輪山から染み出て湧く水で 元々とても潤ったエリア~ だったのですが、

金次郎が生まれた時代には 宝永四年(1707)に起きた富士の噴火の影響で 酒匂川が氾濫しやしくなっていた~ のですって。

~ そこまでを抑えて、次へー。
ここからは 私達の良く知る「♪手本は二宮金次郎~」の世界。

親を亡くして伯父に引き取られてからも 好きな勉強を続ける金次郎。/ 伯父に行灯に使う油がもったいない と言われると 自分で菜種を撒いて~ とかとかなどなど。

そして成人してからもたゆまず努力し 父の代に手放した農地を少しずつ買い戻していき 23の時には全ての農地を買い戻した~ そうです。/ この実績を買われて 小田原藩の武士 服部家の借金返済の計画を立案するなどしー・・・
↓文政元年(1818)暮、31歳の時に2019年の映画の冒頭でも描かれた「藩主からの表彰」を受けます。


(↑現在「表彰の地」として石碑が立つのは旧東海道が酒匂川右岸に出たポイントで ぎりぎり富士山が見えない位置 ですがー 江戸時代の絵には富士山が描かれていますねー。/現在の石碑の位置が違うのか 絵の方が 盛ってるのか。 絵は河原というより 河の中州のように見えます。ああ、中州からなら この絵の様に 会見場の両側を川が流れていますし 富士山も見えそう。 時期は暮というから 酒匂川には橋が架けられていたはず。(酒匂川の橋は、夏は流されるのでとりはずされていた といいます。) なるほど、「会見場は中州だった」、かもー。
農村の立て直し の実績を買われた金次郎は 武士 の身分を与えられ、 栃木県の桜町領(←小田原藩主 大久保家の分家にあたる 宇津家(ウツケ)の領地)の復興を命じられ 小田原の財産を処分し、妻と子供を連れて桜町領へ旅立って行きましたー。(小田原駅東口のミナカ3Fの金次郎夫妻の像は このシーンを表現しています。)

(↑桜町での仕法は なかなか思うように進まなかったようで 一時「挫折を味わった金次郎は途中で桜町を出 成田山のお堂に籠ったり~」なんて事もー。/ これは食を絶ってお不動さんに祈る金次郎~ という場面なのですが このブースに近づくとセンサーが働き 大音量で読経が流れるので 注意、 です^^;)
桜町領での復興がすすむと 金次郎は小田原に呼び戻されます。そして彼のやり方「報徳仕法」が 小田原藩でも取り組まれるようになった~ そうです。(天保7年/1836の事。 因みに天保4年からの四年間が「天保の大飢饉」と呼ばれる大困窮期。藩が金次郎を呼び戻したのは災害からの復興に金次郎の力を借りようと思っての事だったようです。)

(↑赤いところが小田原藩領。宝永4年に噴火したポイント(宝永山)も 当時は小田原藩領 だったんですねー。)
↓光っているところが 報徳仕法 の行われた場所。


(↑正直「報徳-仕法」という用語では内容がよくわかりませんね。 かえって英語訳「Hotoku- fiscal reconstruction」 中国語訳「報徳-復興法」の方が わかりやすいかもー^^;)
そして天保13年(1842)_
55歳になっていた金次郎は 水野忠邦に呼ばれ「御普請役格(ゴフシンヤク カク/幕府の直臣/今風にいうと国家公務員)」にとりたてられます。又この時 尊徳(タカノリ) という名を与えられた といいます。

(↑右が 尊徳を名乗った頃の肖像画。)
最初に与えられた仕事は利根川分水路の調査ー。(が その調査結果と 「まずは14万両かけて貧窮する農民を救済した後に~」 という農村復興案を記した報告書は タタミオキ に_)
弘化元年(1844)には 日光神領の復興を命じられます。これが金次郎_改め尊徳の 最後の仕事となります。年齢に加え病気もあり 「日光仕法」は息子や門人に引き継がれー 尊徳自身は安政3年(1856)日光の今市で亡くなったのでした。
↓金次郎の「仕法」を用いて復興が図られた場所。


こんなにも広いエリアの復興に 金次郎自身や彼の後継者 信奉者が関わっていたんですねー。(何だか 私まで誇らしい気持ちに^^)
_金次郎は本当に素晴らしい人で
くるっと展示室を回った位では まとめ るなんて不可能なのですが、とりあえず「今の私では ここまで」 です。
さて、小田原は金次郎の出身地としてそれなりに特別な場所ではありますが、

(↑生家周辺にある 金次郎の足跡をたどれる場所~ のMAP)
報徳運動の拠点 というと明治36年(1903)に静岡県掛川市に建てられた「大日本報徳社大講堂」 なのだそうです。機関としてもですが 建屋も立派で 平成21年(2009)には国の重文に指定されたといいます。(私達2010年に掛川城に行っておりますのに 何という事でしょう、見学しておりません。残念!)
_いつか 訪ねてみたいと思います。 / おしまい。