二宮尊徳生家 囲炉裏 燻蒸の日 | (又)おだわらぐらし はじめました

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栢山(カヤマ)にある二宮尊徳(金次郎/1787-1856)の生家の 「囲炉裏の燻蒸(クンジョウ)」を見に行ってみました。

↑金次郎の生家は昭和38年に「神奈川県の重文」の文化財指定を受けているんですねー。
↓間取り付き 説明板。

↑この家がいつ建てられたかは不明だそうですが、「金次郎の祖父 銀右衛門 が兄の万兵衛から分家した寛保2年(1742)の頃と推定される~」そうです。(話はそれますが 金次郎さんのお父さんは利右衛門、だそうです。金・銀・万・利~二宮家の皆さんが揃って経済に聡そうなお名前ってところ ナニゲに興味深い。)
(話は更にそれますが、金次郎さんは 元々は「金治郎」だったそうですが 後に本人が(謙虚さから???)「金次郎」と書くようになっています。今日広く知られているのも「金次郎」の方なので この項では「金次郎」、で参ります_)



↓木々に囲まれて建つ生家。素朴ながら凛とした佇まい_。280年も昔の建屋とはとても思えませんが 実はそれもそのはず、で ここに復元されたのは昭和35年(1960)の事。 この生家は金次郎の両親が亡くなり 長男の金次郎が父方の伯父・万兵衛に、弟達が母の実家に引き取られた時点でバラして売却され この場所は長く 本家の「桑畑」だったそうです。 が、_
売却された家(建材)は西栢山に~ 更にその後 柳新田に移築されるも、元々の主だった木材は そっくり保存されていたそうでー
昭和35年の復元の際は ほぼ「建築当初の姿」に戻す事ができたのですって。(この家が「(地元の偉人)金次郎の生家」と知られており 時々の持ち主から大切にされてきたのも大きい、と聞きます。)
(詳しい話はこちら ⇒ で。)

(+/↑「金次郎の生家 という歴史的意義ばかりでなく、県内における江戸時代中期の中流農家の典型的な住宅である」_事も県の重文に指定された際の評価ポイントだった、んですねー。)

「いろり燻蒸 実演中」の立て看板。(まだ燻蒸は始まっていませんでしたがー)


(↑屋根には消火用の設備と思われる 数本のパイプが立っていました。)

(↑南西から見た建屋。)

↓東南の軒の脇。入口をはいると土間、です。

↓南から囲炉裏のある ざしき を覗いています。

↓張り出し縁から 中を覗いたところ_。

↑ここは「でい(出居)」と呼ばれる八畳間。北側には造り付けの仏壇、 西側には床の間があります。 左手の板戸の奥(北側)は納戸。
↓土間に入ってから 板張りの「ざしき(座敷)」越しに見た「でい」。(正面左が床の間)

見上げると太い梁。



(↑これは 土間の上 部分)

囲炉裏部分。
(火を入れる準備が進んでいます。)

(火が入りましたー。)

(ボランティアグループの皆さん 暑い中 お疲れ様です。)

燻蒸は ボランティアグループにより 月二回 行われているそうです。せいぜい年に数度かと思ってましたが・・・建屋の維持管理には結構な 頻度が「必要」なんですね? (燻蒸の目的は家 特に屋根の防虫+防カビ+殺菌+コーティング~ だそうです。)

↓土間の北にはー

木製の「流し」。使用済みの水は隅の穴から外の甕に落ちる仕組みです。(流しの右手の甕には 水を汲んでおいたもの と思われます。)


土間の東の壁には 江戸時代の農具が(参考資料として)展示されていました。

(↑建屋の東側にも 窓はありませんー)

建屋を一回りしましょう。

↓土間から北へ抜けたところ_北側には窓がありません。(江戸時代は、納戸には 窓を付けなかったそうです。/の代わり 土間部分は 戸口の他 流しの上に窓があり 南北に風が抜ける造り_)



(↑西にも窓がありません。/ 西日を入れないためでしょうかね_)

建屋北に防水槽のような物がありました。

(いやこれは 江戸時代には無かった、でしょうがー)

↑ホテイアオイが涼やかに咲いていました。

建屋 西側に顕彰碑_。

右は貧富訓碑_「貧・富」についての金次郎の思想が刻まれています。


(嘉永(五年1852)壬子(ミズノエネ)仲春(旧暦二月)/ 七十互翁((尊徳翁)七十五歳))

左は 報徳思想を信奉していた三重の真珠王-御木本(ミキモト)氏が中心となって建てた尊徳先生誕生遺蹟之碑だそう。



敷地を出ます。


東の 川に通じる道の脇に 金次郎(尊徳さんと言うべきでしょうか)の立像。

↑横には「回村の像」と刻まれた石が置かれています。

↑ほぼ等身大、の尊徳さん。(因みに彼は 身長185センチ、体重95キロという 当時としてはかなり立派な体格の持ち主だったといいます。)


川の方へ向かいます。

↑右手は 尊徳記念館。つまりここは 記念館の北の裏の通路、です。
↓右側に・・・石碑?


こっちが正面。(川側から見ています。/左が尊徳記念館。右奥が金次郎の生家、です。)

刻まれている文字は「二宮先生誕生地」。

(↑ぐるりをフェンスで囲まれた 昭和7年頃の写真が残っています。がフェンスは戦時中の金属回収でとられたらしく 今残るのは石の囲いと台のみ。)

川を東へ渡って 振り返ったところ_。

↑思いのほかに立派な石橋が架かっていました。/ 護岸の整備もしっかりしていますよねー。
↓実は 元々はこちら側 が 生誕地を訪ねる際の「正面口」だったのだそうです。

まだ 生誕の家も復元されておらず 記念館も建てられていない昔から、(ただの 桑畑だった_) ここは信奉者にとって一種の「聖地」だったんですねー。


↓石橋から川上を見たところ_。

↓川下。


↓グーグルマップ

↑右の紅い矢印があるところが用水に架かる石橋のある場所、です。/赤い矢印の右(東)の道路が (西に県道720号線ができる以前_)昔はメイン道路だったそう。
(なるほどー そういう事かー)


続いては_
生家の南に建つ記念館を見学します。