四谷総鎮守・須賀神社(アニメ映画で有名になった階段そば) | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

新宿から地下鉄に乗って 四谷へ~。
そこから私達はまず 四谷総鎮守という須賀神社へ行ってみました。(赤坂離宮(現・迎賓館)へ行くにはまだ 時間 がありましたので_)

(↑四谷見附交差点から見た赤坂離宮。)
↓新宿通りを新宿の方へ てくてく・・・。

四谷二丁目の信号の所から南へ曲がると 須賀神社はすぐそこ~ だと思ったのですが、

えー?

この急な坂を 下ってー あの石段を 上がるー ?

(どうすればこんな地形ができるんですかね? ここは壕跡じゃ ありませんよね? 
 地形図を見るとー・・・

↑細い谷ですね。大昔には元赤坂に向かう流れもあった かもしれない?)

↓説明板(柱)がありました。「東福院(トウフクイン)坂」っていう坂かー。

↑「坂の途中にある東福院にちなんでこう呼ばれた。別名は天王坂(テンノウザカ)。江戸時代に須賀神社が牛頭天王社と称していたため、このあたりが天王横町と呼ばれていたことによる。」_ ですって。
↓柱の反対側に 坂の名の由来になった東福院(新義真言宗)。


も少し下るとー

「谷」の底。

少し進むと 須賀神社の「男坂」が始まります。(30m程右に「女坂」もありました。帰りはそちらを通りましょう。)

近づいてみると それほどきつい坂ではありませんでした。

↑で ここ アニメ映画『君の名は。』のラストで主人公二人が再開した坂 なんですって?(アニメと違ってそんなに展望よくなかったんですけどー^^;)

神社の方へ。



↑丹塗りの鳥居と社号標。
↓手前の女坂途中に 由緒書。


↑「御祭神
主祭神 建速須佐之男命・宇迦能御魂大神
 相殿 櫛稲田姫命
  右(御子)五男神 天忍穂耳命・天穂日命・天津彦根命・熊野樟日命・活津彦根命
  左(御子)三女神 多紀理姫命・市杵島姫命・多岐都姫命
 相殿 大鳥神社
  御祭神 日本武命・天日鷲大神・大鳥連祖大神
 相殿 大国主命
 摂社 天白稲荷神社
  主祭神 倉稲魂大神
 相殿 天照大御神・應神天王・神功皇后・大山祇神・別雷神・天之水分神・国之水分神・高龗神・火之迦具土神・大宮賣神・大年神・御年神・菅原道真公・疱獠(瘡?療?)神・天之児屋根命・猿田彦神・大物主神

 由緒
須賀神社はもと稲荷神社であった、稲荷社は往古より今の赤坂一ツ木村の鎮守で清水谷にあったのを、後、寛永十一年(1634)に江戸城外堀普請のため当地に移されたものである。
須佐之男命の鎮座の儀は、寛永十四年島原の乱に日本橋、大伝馬町の大名主 馬込勘由なる者 幕府の命により兵站伝馬の用を勤め、その功績により、現在の四谷中心部商地一円の支配権を拝領した機に、寛永二十年、神田明神社内に祀ってあった日本橋大伝馬町の守護神(←大伝馬町の産土神_牛頭天王(≒須佐之男命))を地元民の総発意により、四谷の氏神様として勧請し、翌寛永二十一年(1644)六月十八日に稲荷神社に合祀し、以後御両社として祀るようになった、通称四谷の天王様として明治維新まで親しまれて来た、
明治元年に須賀神社と改称され、(明治時代 須佐之男命を祀る神社の多くが「須賀神社」と改称しています。スガは須佐之男命がおっしゃったという「吾此地に来て、我が御心すがすがし」という言葉に由来する ようです。⇒ 明治五年に郷社に昇格、 戦後は制度改正により旧社格は撤廃された。
戦災前の御社殿は文化十一年八月に起工し、十五年の歳月をかけ、文政十一年十二月に竣工、社殿は権現造りの比類なき立派な建物であったが昭和二十年五月二十四日の東京大空襲の折、御本殿並びに御内陣と摂社天白稲荷社を残し、外一切の建物が焼失した、然し戦後氏子崇敬者の赤誠により今日の復興を見るに至った。

 宝物
戦前は多くの社宝があったが戦災により殆んどが焼失した、 その中で幸いにも御内陣の金庫に納められていた三十六歌仙のみがかろうじて焼失を免れ、今日新宿区の指定有形文化財絵画に指定されている
 画は四谷南蘋(ナンビン)と称された高芙蓉の高弟大岡雲峰(当時七十三歳、天保七年の作) 書は千々逎舎と号し、正三位(ショウサンミ)中納言で 公家の千種有功(チクサアリコト)卿の書である
 (後略)」
・・・ あれ?「かっぱ」に関する記述が見えませんね? ここのお祭りは 「かっぱ祭」と呼ばれたそうですのに はて?
神社公式HP アバウトの頁 ↓
https://sugajinjya.or.jp/about/
↑この 名の由来を知りたいのですが・・・。(アバウトの頁の須佐之男命の項に 「水をつかさどる農耕の神様」とあります。「かっぱ~」は雨乞いの祭りだったのかしら?
それとも
品川の荏原神社のかっぱ祭(=南の天王祭)のように 神輿が水に入るお祭りだった?)

改めて神社へ。


鳥居脇の狛犬達。


台の紋が二種類。

↑京都の八坂(←牛頭天王を祀る)と同じ三つ巴。
↓こちらは稲荷紋。

↓右手の神輿庫には この二つを合わせた紋。



(↑おもしろい意匠^^)

手を洗いましょう。

(↑あ、いや 洗うのは心 か)


手水舎の先に 溶岩(?)の上に建てられた半鐘付きの梯子がありました。

↑「く組」と書かれてますから 街火消しからの奉納品のようですね? (消防庁のHPに いろは組の一覧がありました ⇒ 

拝殿。


↑提灯の紋は「合体紋」ですが
↓屋根や建屋の紋は三つ巴ですねー。



↑額には 二柱の神様の神号が記されています。
↓扉には 合体紋。

↑中に階段を持つ御神座。(扉が二つついており それぞれの前に紙垂が立てられていました。)その両脇を一対の随神さんが守っていました。そしてー その内陣手前の小壁には、 社宝-三十六歌仙の一部、と思われる 読み手と歌の書かれた額入りの絵が八枚程掲げられていました。(レプリカでしょうかね?)

拝殿のすぐ左横に「大国主命」が祀られていました。


(扉には「袋紋」)


その近くには絵馬掛けがありました。

びっくり!ほとんど「外国語」です。(アニメの影響でしょうね... 絵馬の方も 社殿等じゃなく 神社手前の「男坂」が描かれてる...)

社宝、三十六歌仙の紹介と説明板。




↑あら 三十六歌仙についての説明板かと思ったら 創建に関わる話も載ってます。ちょっと面白いので写します_。

四谷の総鎮守 「須賀神社」と三十六歌仙絵
〔須賀神社について〕
 四谷の産土神で、祭神は建速須佐能男命と宇迦能御魂命の二柱です。
 かつては、牛頭天王社と稲荷社の二つの神社であったもので、江戸時代は稲荷天王合社と呼ばれ、明治にはいり須賀神社と改められました。
 稲荷天王合社のうち稲荷社の由来については、次の二節が伝えられています。
・ 一つは、かつて麹町十一丁目清水谷にあり、一ツ木村の鎮守であったものが、同村にあった別当宝蔵院(神仏習合の時代、神社には別当寺があり、そこの僧侶が社僧として神社の儀式に携わりました)が、寛永11年(1634)に現在の須賀神社の場所に移ったのを機に、稲荷も移転してきたというものです。(←女坂の説明板にあった「江戸城外堀の普請~」が消えていますが、清水谷は江戸城の堀からは離れているので こちらの説の方が すー と理解できますね)
・ もう一つは、稲荷社は、現在の勝興寺(須賀街八番地)境内にあった椎の大木の根元に祀られており、宝蔵院が清水谷にある頃から稲荷社まで注連縄飾りの奉仕に来ていたため、寛永11年(1634)に勝興寺が移転してきた時、相談のうえ宝蔵院(現在の須賀神社)に遷座したという説です。
 牛頭天王社の方は、寛永18年(1641)に、神田明神境内の牛頭天王社を四谷のお借屋横丁付近に小祠を建て祀ったものだそうです。
 ところがこの牛頭天王社に参詣人が多かったため、寛永21年(1644)寺社奉行に願い出て、同年6月18日に宝蔵院境内の稲荷社と合祀し、現在の稲荷天王合社となったものです。
 依頼、稲荷は鮫河橋・権田原の、天王は四谷の鎮守として崇敬され、現在は四谷地区十八町会が氏子町となっています。
(↑色んな説を載せてくれる方が有難いですよね。他の話の背景として いきる事もありますし。)

〔三十六歌仙絵・・・新宿区指定有形文化財 絵画〕(昇段拝観は許可制です。)
 三十六歌仙絵は、平安時代中期の公卿藤原公任(フジワラノキントウ)(966~1041)が、過去および同時代の優れた歌人三十六名を選定したもので、万葉歌人から柿本人麿・山部赤人・大伴家持の三名、平安時代前期の『古今集』『後撰(ゴセン)集』頃の可人から紀貫之・在原業平・小野小町ら三十三名が選ばれています。
 三十六歌仙絵は、それぞれの歌人の肖像画に代表作一首を書きそえたもので、平安時代後期に出現した似絵(ニセエ)という肖像画の影響をうけ、鎌倉時代初頭に成立し、江戸時代まで盛んに描かれました。
 須賀神社の三十六歌仙絵は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたものです。縦55cm・横37cmの絹地に彩色したもので、現在は額装され社殿内に掲げられています
 当時、画家として公明だった四谷大番町(大京町)に住む旗本大岡雲峰(1764~1848)の絵と、和歌や書画で人気を博した公卿千種有功(1797~1854)の書により、天保7年(1836)に、完成・奉納されたもので、四谷の総鎮守として信仰をあつめた須賀神社の隆盛を物語る文化財の一つです。」
_なるほどー。


大国主を祀る祠の先に 摂社「天白(テンパク)稲荷神社」がありました。(拝殿南側)




拝殿の北側へ行ってみます_。


「祖霊社」だそう。 その先は「社務所」との事で 進むのはここまでに。
↓社務所前に狛犬達_。


_ありがとうございました。


女坂を下りながら気づきましたがー


↑由緒書きの下の「四谷 鮫河橋(サメガハシ) 惣氏子中」と彫られたブロックの一部が 坂道のコンクリートに埋もれています。/ 昔はもっと手前から坂道がついていたか 階段だったか~でしょうね?

ちょっと鉤になった道を下りると_

須賀神社の北の 谷の奥づまりに お寺がありました。


↑大抵「懸魚」がつく場所の妻飾りが雲です。/上はなんだか打ち出の小槌のように見えますね?下は山に日輪?初めてみる意匠です。
↓「妙行寺」という日蓮宗のお寺でした。


(↑へぇ こちらには草分稲荷さんが・・・。)


さて そろそろ赤坂離宮の方へ向かいましょうかね。


「鉄砲坂」を上がると 赤坂離宮は もう すぐ目の前でした。


(↑離宮の正面門のフェンスの横に出ました。)
が、 その入口は遠かったー・・・。

_つづく