日光街道(とり茂~智賀都(チカツ)神社) | (又)おだわらぐらし はじめました

(又)おだわらぐらし はじめました

 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

「とり茂」でおなか一杯お昼を食べてゆっくりしてたら「あらら」という時間に_。


「ごちそうさまー」

「ここからはちょっとピッチ上げましょう」とリーダー。
皆-「はーい。」

(この頃から あやしい雲が目立ち始めましたー)


(↑このあたりも大谷石の蔵が多かったですねー)

_ちょっとルートをハズれ ガイドブックに載る「静桜」という桜の木を見に行きます。
↓あ、あれ、かな?

わー 大きな木です。

一説に「静御前が 桜の杖をこの地で塚にさしたら 根つきとなり、一重八重 の花が咲いた」と言います。(一本の木に 一重八重 両方の花が咲くのは「一重八重咲き」あるいは「八重一重咲き分け」と言うそうです。これもそういう品種、なのでしょうか?)

因みに今 宇都宮ではこの「静桜」を城址公園に植樹するなどしているそうです。(「芽継ぎ」という方法が用いられているそうな。)

栃木にはあちこちに「静」を偲ぶ場所がありますが、桜と一緒に そうした場所 今後増えていく、かも?

ちょっとオマケ_。

静桜の下に ハナダイコンが沢山咲いていました。

「濃淡があって このハナダイコン いいねえ」と みんなこっちの写真も撮ってました。 (そういえば 本当に そうですね。園芸種、でしょうか???)

国道に戻って歩道を歩きます。

(田舎道を歩いているような絵ですが 国道沿いの歩道を歩いております。)










ひたすら のどか・・・。


ちょっと水分補給。

おや? あそこは?


うつのみや動物園」ですってー。



引き続き歩いていきます。


↓道の向こうに 見事なしだれ桜が見えました。

(↑今は ただの野原 のような場所ですが・・・ 以前はどなたかのお屋敷でもあったのかな?)

高谷林(コウヤリン)の一里塚(東側)。



(↑日本橋から二十九里である事を知らせています。)
↓西側の塚。


↓東北自動車道の下を潜ってー

(↑高速の桁橋撮り忘れたので ストリートビューからもらいました。)
↓尚進みます。




右手に古い赤レンガの水道施設が現れました。

↓胸壁とペディメントを合体させたようなデザインの縁、王冠の様で御洒落。

因みにこれは、「第六号接合井」。

説明板によると「今市浄水場で上水した水を、距離約26キロメートル、標高差240メートルある戸祭配水場まで送る際、送水管にかかる水圧を弱めるために建設された施設」だそうです。標高が30メートル下がるごとに設けられたという「全部で六箇所」あった接合井のこれは「第六」つまり 最後の接合井 なんですね? 今は使われていないとはいえ 美しく立派な土木遺産。これからもここで 凛 と立っていてほしいものです。


のどかな一区間_。





「富屋小学校前」バス停前 通過。


おやここは?

↓「私塾明王院」ですって。

↑「明王院は江戸時代末期の安政5年(1858)、修験者であった外鯨要人(トクジラカナンド)が、下徳次郎(シモトクジラ)宿に開塾した私塾(寺子屋)である。
 「学問がなければ立派な人間にはなれない」という信念で始めた私塾は、2代塾長外鯨結城(ユウキ)、3代塾長外鯨升(ミノル)と続き、大正10年までの約60年 13歳から18歳頃までの若者たちに対し、読書や習字、日本外史、四書五経などの学問を、自宅2階の大広間で教えた。生徒は徳次郎を始め、近隣の村々から入塾し、当塾で薫陶を受けた者は500余名に及んだ。外鯨家の紋を入ると、3代塾長であった外鯨升の恩に報いるため、門下生が昭和26年に建立した「謝恩之碑」が建っている。
 初代要人は、戊辰戦争の下野国の世情安定を目的に組織された「利鎌隊」に加わり、新政府軍の一員として活躍したことでも知られる。」_そうです。

時にこのあたりの地名は「徳次郎」と書いて「とくじら」、ですが この塾を起こした外鯨さんも「とくじら」。関係があるのでしょうか?

調べてみると~
(苗字も地名も)「とくじら」は
「久次良(クジラ)」という 奈良時代にこのあたりを領していた一族の名に始まる
、とわかりました。
久次良一族が納める土地が久次良で、その 外が「外+久次良(外鯨、徳次郎)」だったんですねー。

更に、久次良という地名(苗字も)は 今も日光市にある とわかりました。⇒ 日光市久次良町 (知りませんでしたー)


その先にー

「徳次郎宿(トクジラシュク)仮本陣・名主跡」と記されたプレートが立てられていました。

その横には「下徳次郎宿跡」について記された説明板。

(徳次郎宿_日光道中21宿の18番目、の仮本陣が ここ下徳次郎にあった、という事みたいですね? でこちらのお宅は 元々は「問屋場 兼 仮本陣」だった_と。)

その先に

「中徳次郎宿 跡」。


↑「抄/ 中徳次郎は(上中下)三(徳次郎)宿の中では中程に位置し、宿の長さは約310m、家数は50件ほど。宿内には 問屋場兼本陣一軒、脇本陣一軒、高札場一カ所が設けられていた。寺社としては智賀都(チカツ)神社及び当社に付随した神宮寺、神明社、修験持宝院、あざ地蔵堂などがあった。(後略)」

続いては 説明板に載る智賀都神社へ寄ってみます。