智賀都(チカツ)神社と石那田(イシナタ)一里塚跡 | (又)おだわらぐらし はじめました

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「新しい日常」を綴って参ります

では中徳次郎(ナカトクジラ)の智賀都(チカツ)神社、お参りしましょう。


(↑社号標の上の文字が削られています・・・ 何って記されていたのかな?)

鳥居の先に二本の欅。栃木県指定天然記念物、だそうです。(推定樹齢700年!)

左の木の下に由緒書。


↑「智賀都神社の沿革
 当社は日光二荒山(フタラサン)神社より宝亀九年(778)旧六月二十日 外鯨邑(トクジラムラ) 千勝(チカツ)の森に勧請鎮座せしものにして 
大正五年に特定郷社に列しられしもの
昭和二十二年占領軍の指令により社格廃止なり現在に至る。(社号標の上の削られた文字は「郷社」?)

御祭神- 大己貴命(オオナムチノミコト≒大国主) 田心姫命(タゴリヒメノミコト) 味耜高彦根命(アジスキタカヒコネノミコト) 」(←!!!びっくり 御祭神三柱、揃って出雲に関わりある神様達...。しかも「勧請」したなら二荒山の御祭神も 同じ三柱という事ですよね? ソーダッタンダー)

社号の由来は_
栃木神社庁の智賀都神社頁によると、「勧請鎮座した森(千勝森/チカツノモリ)の名」から~いいます。(遠つ 近つ  のチカツ~ なんて事はないかしら? 日光山が遠いお祀り処で こちらは近くの...)

その隣に 六台の屋台の写真。

↑三年に一度開催される「附祭(ツケマツリ)」で曳かれる「徳次郎(トクジラ)六か郷」の屋台 ですって。
 
境内の奥に社殿が見えます。行ってみましょう。

皆でお参り。

鈴の向こうの扁額に社号。

(↑お賽銭箱の紋は三つ巴)


拝殿横に 説明板が立っていました。


智賀都神社 本殿 /附(ツケタリ)宮殿(クウデン)木札
 智賀都神社本殿は、宮殿の下部収納に保管されていた2つの木札、ky風殿の扉金具および鏡の縁の刻印から 延享元年(1744年)に造営され、翌年に薄りの塗布と金物の細工が施されたと推定することができる。
 この建造物は、屋根の葺き替えなど、一部修繕が行われているが、創建当時の形をよく残しており、17世紀後半~18世紀前半の県内地域の神社本殿建築の典型的な特徴を現在に伝える貴重な建造物である。」 

↑本殿・宮殿~については 『広報とみや102号』に写真つきで詳しく載るので 関心がある方は是非ご覧下さい⇒
 
↓拝殿の後ろの 神様がいらっしゃる場所「本殿」。(神殿と呼ぶ場合も)




いやー 清々しく 素晴らしいお参り処でした。


(境内を一回りしたら 気持ちがさわやかになりましたよー。)

<おまけ>
拝殿横にあった「御神燈」。

↑不思議な形です。何をデザインしたものかしら?


先へ進みます。

「六本杉」というバス停がありました。

リーダーが 「あっ いけない、六本杉 見るの忘れたよー」と言う。
そして 来し方を振り返り 「あの辺だね~」。。。

(↑あのへん・・・)_ 六本杉はすでに失われているのですが、かつて六本杉があった場所 は国道もそこを避け 緑地帯 として残している、んですね。

↓その先_

道標がありました。

↑「宇都宮市大網町入口」。

実はここからほんの数十メートル先に「二宮親水公園」があり 二宮金次郎が関わったという「二宮堰」が見られた~ のですが それは帰って地図を見てから知った事_...。

更に行くと「上徳次郎(カミトクジラ)」のバス停がありました。

↓これはこの地区(上徳次郎)の祭り屋台の蔵。

(さっき智賀都境内のパネルで見た「三年に一度」のお祭りで曳かれる屋台、ですね?)

↓上徳次郎宿跡 の説明板。

↑「抄/ 上中下 三つある徳次郎宿の中で最も日光寄りで 早くから開けた宿。家数は30軒程と 中徳次郎より規模は小さいものの 旅籠数は最も多く、又 本陣一軒 脇本陣二軒(兼問屋場)、更に 将軍日光社参拝の折の「小休所」として 宿の西側奥に「安養院」があった と言いますから、各は三宿の中で最も高かったようです。」

又行きます_。

「船生(フニュウ)街道入口」まで来ました。

(↑バス停名 「一里塚」)
今回は ここまで。/ ここは 「日光街道」「船生街道」二線のバスが来るので 先へ進むより「バスに乗れ易い」という_リーダーの読み、に従って。

因みにここが「一里塚」というバス停名なのは~

三叉路の角に「石那田(イシナタ)一里塚跡」がある、から。


(↑江戸から30番目の一里塚。現在残っているのは東側の塚のみ。)


リーダー「じゃ 明日は宇都宮から『一里塚』バス停まで乗って、そこから続きを歩きましょう。」
皆「はーい。」