

「歴史伝承館」という名称には ちょっと似合わない(?失礼?) モダンでシャープな建屋です。
↓

(↑一面ガラス張りの窓の向こうには 大きな曳山(ヤマ)。)
入館します。(無料)

(↑土崎の曳山(ヒキヤマ)行事が行われるのは 7月の「土崎神明社」の例祭、なんですね?)
さて、土崎のお祭りを理解するためには まず「殿様 佐竹氏」と「北前船(西廻り航路)」について知る必要がある~ らしい。
佐竹氏は 元々(平安末より)常陸国を治めていました。が 関ケ原で西軍についたため秋田へ移らされる事に。(1602年) その際 「湊城」(←今土崎神明社が建つあたり)、だったそうです。 が二年後(1604)、殿様は 6キロ程南東に久保田城(←現・千秋公園)を建て 湊城は「破却」されます。人も、又 寺や神社も 多くが久保田城の方へ移っていきました・・・。(これは やむを得ない事なのです。湊城を建てた秋田氏は5万石の大名でしたが 入れ替わりで秋田に入った佐竹氏は 常陸にあっては54万石の大名だったんです。移動時点では秋田の石高も不明だったといい かなり人員は整理したようですが それでも多くの家臣を連れて秋田へ移ったのでしょう 湊城は「とても狭かった」のです_。/尚数十年後の資料では 秋田-20万石 と載るそうです。)
ともかくそんな訳で_
お殿様とその家臣たち そして有力な商人たちまでもがいなくなり 土崎は寂しくなったそうです。
が残った町民達は 逆に 気持ちを高めよう、と 湊城の跡に新たに神社を建て(1620年)お祀りをする事に。これに尽力したのは 佐竹氏と共に常陸から移ってきていた商人-川口惣治郎という人だ と言います。城跡に建てられた神明社も 川口氏の氏神様、だとか。1625年には神輿渡御も始まったといいます。
と ここで1672年に航路が開設された「北前船(西廻り)」です。



1704年、北前船の船乗達によって神明社に神輿が奉納されます。
でこの翌年 1705年が 今につづく「曳山まつり」の始まり という事になっています。 (それ以前も神明社の神輿渡御はあったはずですがー 曳山(山車)は使われていなかった、のでしょうかね?)
土崎は北前船で潤いました。(主な交易品は 米と 秋田杉) 1788年に古川古松軒が記した『東遊雑記』には「(お城のある)久保田の本町よりも 湊町(土崎)の方 すぐれたり」と載るといいます。
祭も華やかになっていったようで、1789年には 久保田藩の江戸藩邸の御用商人が 「40もの山車が曳かれている」と書いているそうな。(土崎の人はどんなにか誇らしかったでしょうね?)
気づけば文字ばかりになってしまいましたがー ↓ご覧あれっ これが土崎の曳山(ヤマ)です!


↑スゴイ迫力...
↓こちらは通りからも見えていた曳山、 の反対側。(こちらが表。)


↑とんでもない大きさ!
↓裏も面白いんです。

↑囃子方の乗る席の上に「曳山と平和繋げる伝承館」という七五調の札が掲げられていますが これが「見返し」。(時事的な内容が選ばれるらしい)

↓札の隣に 背広姿の御仁。

↑はっきり言って「どなた?」なんですが、
↓これは「見返しの人形」と呼ばれるもので「札」にマッチした物が作られるそうな。

(_という事は この背広の人形は 伝承館の職員さんのどなたかに似せて作られてる~ とかでしょうか?)

という訳で あれこれ 色々 なかなか~ で 楽しく勉強になる施設だったのでございました。
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<おまけ>
~とこんなお祭りのある土崎。マンホールの蓋もやっぱり曳山。


↑「道の駅あきた港」では このデザインのマンホールの蓋の「マンホールカード」が配布されている、そうです。
おしまい。