男鹿(オガ)真山(シンザン)神社  | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

「なまはげ館」に続いては_(そのほんの150m程先の~)
男鹿真山神社も訪ねております。

なまはげは そも この神社の神様の使い、なのだそうです。

<補足>
現在なまはげには 真山の真山神社のお使い(真山系)と 本山の赤神神社のお使い(赤神系)があり それぞれ独特のカラーをもっていますが、二つの神社は 元は同じ「赤神権現」を祀る神社。なまはげもルーツ的には「同じ」なのですって。
(↓男鹿三山_毛無山673m・本山716m・真山571m_を真山神社側から見たMAP)

ここ真山の真山神社は 明治までは「赤神神社」といい 別当寺院として「赤神山光飯寺」という真言宗のお寺もあったそうです。 お寺の方は明治の神仏分離令で「廃寺」になったといいますが MAPには今も「仁王門」「薬師堂」「弘法大師堂」「歓喜天殿」「不動の滝」などが載っています。「堂跡」、という事なのかな?

では お参りいたしましょう。

(↑左下に写るのが 上に貼ったMAPです。)

(↑「真山登山道入口」の案内。/ 後で知りましたが 、この神社は麓に拝殿 そして真山山頂に本殿がある、のですね?)
手水舎と仁王門。


↓手水舎横の由緒書。

↑「男鹿真山神社縁起
御祭神
 主祭神- 天津彦火瓊瓊杵命 武甕槌命
 合殿神- 天照大御神 豊受大神 豊玉毘女神 少彦名神 大山咋神 大名持神 塞神三柱神  (土着の神、赤神の名はありませんね・・・)
■由緒沿革
 社伝によれば景行天皇の御代、武内宿禰が北陸地方諸国視察のため男鹿半島へ下向の折、湧出山(わきいでやま、現在の真山・本山)に登り使命達成と国土安泰。武運長久を祈願して 瓊瓊杵命 武甕槌命を祀ったのが始源とされる。
 平安時代以降仏教の伝播が男鹿へもいたり、貞観年中には慈覚大師によって湧出山を二分し、北を真山、南は本山としたと伝えられる。 以来修験の信仰が昴り、天台僧徒によって比叡山延暦寺守護神の赤山明神と習合された。
 南北朝時代には真山別当光飯寺は真言宗に転じ、支配も東北豪族の安倍氏・清原氏・藤原氏と移りながらも、その庇護のもとに修験霊場として一山繁栄を誇った。
 江戸時代には国内十二社(←?)に指定され、佐竹侯の祈願所として数々の寄進崇敬とともに、幾多の堂塔伽藍が営まれてきた。
 明治維新後は神仏分離令によって元の神域に復し、名も赤神神社から真山神社と改められた。(←そういえば 赤神神社ができたのはいつでしょう?) 明治十四年には県社に列格され、ますます深厳な境内を維持してきた。
 平成三年九月、台風による烈風で多くの老杉が倒れて甚大な被害を受けるも、七年間の復興事業で境内整備が完了した。
 ご本殿は今なお真山山頂に鎮座し、国家安泰・五穀豊穣 海上安全 勝運の守護神として崇敬されている。
柴灯祭(せどまつり)
 本社の特異神事であるこの祭りは、正月三日夕刻境内に柴灯を焚き この火によってあぶられた大餅を、お山に鎮座する神に献じその年の村内安全・五穀豊穣・大漁満足・悪疫除去を祈る祭儀である。
なまはげはこの神の使者「神鬼」の化身といわれ、長治年中より行われてきた。
 また毎年二月の第二金・土・日には「なまはげ柴灯祭り」として当神社を海上に開催される。この時神鬼に献じられる餅は護摩餅(ゴマノモチ)と称され、災難除去の御護符として氏子参詣者に頒賜される。厳寒の宵に斉行される神秘的な神事で、冬の東北五大雪祭りの一つとして広く知られている。」 へ~。

仁王門を潜りましょう。




(↑寺院時代から立つ仁王さん達ですね?)
門の向こうに狛犬達。



(↑こちらはまだ新しそうですね?)

↓丸木舟が一艘_。山の上なのに? と思いましたが これは 神木で作った奉納品だそうです。


↓あら、櫂かと思ったら艪だ。(二挺艪???)

(↑尚、丸木舟は原始的と見えて大変丈夫で、 岩場の多い男鹿あたりでは ごく近年まで「現役だった」そうです。)

↓そばには型にくり抜かれた手水鉢。
ん~ これは一体? (神事で使う物でしょうか?)

石段を上がります。

拝殿が見えてきた。

鳥衾の下に日の丸入りの扇! 神紋でしょうか?(そういえばさっき階段下で見た手水鉢にも扇の意匠が使われていましたね? ちゃんと撮れてないので貼りませんが お賽銭箱の紋も「日の丸扇」。/ 調べたら神社の庇護者佐竹氏の紋でした。/ なるほどー)

↓鈴の向こうに「真山神社」と記された扁額。


 ご挨拶。

↓拝殿内。


(↑中央奥は遠慮して~)
紋には佐竹氏の「日の丸扇」の他 菊の御紋の中に日の丸扇をあしらったものも。(ご祭神に天皇家の祖神がいらっしゃるので 菊が用いられた、のかしら?)

拝殿両脇に絵馬掛け。

絵馬には(もちろん)なまはげが描かれていました。

(さっき 真山地区のなまはげには角が無い って教わったような・・・ するとこれは本山のなまはげたち?)

もう一段上へ上がりましょう。

石段脇の狛犬達の素朴な表情、味わい深い。


石段上の建屋は「薬師堂」でした。


金色の肌を持つ ちょっとエキゾチックな薬師如来三尊がおいででした。(中央がお薬師さんだから 左右の脇侍は日光と月光でしょうね?) 又、その周辺は天部の武将たちがしっかりと守っていましたよ。 (お寺が廃寺になった後も 仏像が散りぢりにならずちゃんと堂内に守られている事、 よかったー。)

さて石段はまだまだ続いていましたが・・・

私達はここで引き返しました。

広場(柴灯場)の奥に神楽殿に似た建屋(正面から立ち入れない系、というか 見せる系、というか)があります。

行ってみると~

神輿蔵でした。



↑右、正徳4年(1714)に藩主佐竹義格(ヨシタダ)が寄進したと伝わるお神輿。/ 左は「佐竹公より寄贈(←ちょっと読みにくいので不確か)神輿保存の為 平成七年三月作成のみこし」ですって。

では戻りましょう。

(↑神社拝殿を横から見ています。)
(↓下に見えるのは仁王門。)


ありがとうございました。


この翌日は本山の方の「赤神神社 五社堂」を訪ねました。/ つづく