今市の報徳二宮神社(金次郎が眠る社) | (又)おだわらぐらし はじめました

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「新しい日常」を綴って参ります

さて 小田原にも金次郎を祀る「報徳二宮神社」がありますがー
なんと ここ今市にも同じ社号の神社が建っているんですねー?

今市 報徳二宮神社
こちらは 主祭神として尊徳さん(1787-1856)を、配神として 尊徳さんの息子-尊行(ソンコウ 1821-1871)と 尊徳の弟子であり娘婿でもあった冨田高慶(1814-1890)を祀る神社だそう。/ 創建は 明治31年(1898年 参考までに 小田原の報徳二宮神社は1894年に建てられています)で、 境内には尊徳さんの墓所もあります。



ん?参道を挟むように置かれた大きなお像_。これは一体?(いや二体ですけど)

↑左が成田山で金次郎さんがお不動様に祈った場面を思わせる火炎をしょった坐像。右は目の無い大きな傀儡に抱かれた立像。(どこか昔の「親孝行でござい」を思い出させますが・・・「尊徳さん あなたの心にいきている この立派な教えを毎日の生活に活かしましょう」という文が添えられていましたから 目の無い大きな傀儡は 我々 だった模様~。)))
_なんと二体合わせて「尊徳来福像」というもので 更にお賽銭受け でした。。。

(↑お参りの仕方。右下に尊徳さんの墓所の写真。 中程に尊徳さんの教えの中でも特に有名な「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」が書かれていました。)

後ろから_

(↑翌朝撮った絵なので空の色が違っておりますが ご容赦を)

注連縄の張られた鳥居の向こうに社殿。

左手に手水舎。

花の飾られた水盤。


水は出ていましたが いわゆる「滴る式」にはなっておらずちょっと面喰いました。

↑多分一時はちゃんと水が順々に下へ下りる仕掛けが作動したいたのだろうなあー・・・。
↓でも溢れた水は 龍側の側面を濡らしており、そこが猫の水飲み場になっておりました。


そうそう、境内には猫が多かった。


(↑彼女もここへ水を飲みに来たようでした)
(↓あれ? 上の猫 この左の猫のモデル?)


狛犬達。




その先に金次郎君。柴を背負い本を読みながら歩いていました。(御馴染みのポーズで。)


その横に立てられていた駒札。

↑「二宮尊徳翁遺訓
人生れて学ばざれば生れざると同じ
学んで道を知らざれば学ばざると同じ
知って行うこと能はざれば学ばざると同じ
故に人たるもの必ず学ばざるべからず
学をなすもの必ず道を知らざるべからず
道を知る者必ず行はざるべからず」

拝殿へ。



(↑扉の前に 可愛い金次郎君^^)
↓社号の書かれた板。

左には「大日本農會頭大勲位能久書」と見えます。揮毫者は農会の初代会頭 北白川宮能久親王(←宮家の方ですが 戊辰戦争では反新政府側においででした) のようですね?
↓お賽銭箱には花菱?四方木瓜(シホウモッコウ)に花角?///ググりました_「横木瓜(ヨコモッコウ)」って言うらしい。(因みに小田原の二宮神社の紋は「丸に木瓜」)


ご挨拶。


境内を歩かせてもらいましょう。

↓拝殿右手に 事務所と繋がる渡廊下。

その下に 現役を下りた っぽい扁額がありました。(どこに掲げられていたんでしょうね?)

(↑揮毫者はどなたかなと思ったのですが 残念読めません / 額部分は「中澤源七」さん?)))

渡廊下を潜った先には_


↓二宮尊徳さんのお像。


↓その奥に「報徳文庫」という建屋がありました。


↑入口。(尊徳さんに関する書籍類が収められているそうです。)

お像の左手には_

「丕哉尊徳先生」と彫られた石、

↓更にその左に「栃木県指定/ 史跡二宮尊徳の墓」と記された石柱が立っていました。

↓説明板。

↑「二宮金次郎(尊徳)1787~1856)は江戸時代末期の農政家、思想家であり相模国足柄上郡栢山(カヤマ)村(現神奈川県小田原市)の農家に生まれ、通称を金次郎、諱(イミナ)を尊徳と称した。
金次郎は「分度」「推譲」などの考え方により、小田原藩家老の服部家を再興した手腕を買われ、藩主大久保忠真(タダザネ)の命を受けて文政5年(1822)から下野国桜町領(現栃木県真岡(モオカ)市)の荒村復興を実施することになり、その後半生を下野国で過ごした。
報徳仕法」と呼ばれる手法を用いて桜町領を復興されたことにより、各地から教えを請われて指導し、著しい効果(を)あげた。現在でも「二宮堀」と呼ばれる水路などが各地に残っている。
 これらの実績により、幕府に日光神領89カ村の復興を命じられて日光仕法雛型を作成し、嘉永6年(1853)に病身をおして廻村するなど、日光神領復興に全精力を注いだ。
 安政2年(1855)には、日光市今市の報徳役所に一家で移転したが、翌安政3年に報徳役所において70才で死去した。今市の如来寺で葬儀が行われ、現在の二宮神社境内地に埋葬された。」

墓所は 神社本殿の後ろにあたる部分にありました。(撮影は遠慮_。)
石には戒名「誠明院功譽報徳中正居士」が刻まれていました。 / 合掌。

因みに尊徳さん自身は墓碑はいらない、と遺言されていた との事ですがー↓

↑「二宮尊徳翁の遺言と墓碑の建立
「我が死応に(マサニ)近きあらん 我を葬るに分を超ゆること勿れ 墓を建つること勿れ 碑を建つること勿れ 只土を盛り上げその傍らに松か杉を一本植え置けばそれにて可なり 必ず我が言に違ふ勿れ」と遺言されたが、忌開けの安政四年に門人間に墓碑建立の議が起り、是非の意見が区々として容易に決定せず、遂に未亡人の意志を伺って建立し、今日に至っている。」~ だそうです。

↑上の説明板の前には 尊徳さんの歌碑がありました。

↑「ちちははも その父母(チチハハ)も
  わが身なり
  我を愛せよ われを敬せよ」

墓所脇から 神社神殿部を見たところ_。


ここへ来て、金次郎さんが 小田原だけでなく 今市でも慕われ 尊敬されている事がわかり、誇らしく 又 有難く感じました。

お参りさせて頂いて良かった。


退出しましょう。



おしまい。 (↑余談ながら、神社の正面に観覧車_ ちょっと不思議な眺めでした。)