川崎の稲毛神社(旧-山王社) | おだわらぐらし

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縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

競馬を見た帰り_(競馬は見てません^^;)

稲毛神社へ寄りました。





↑「祝七五三詣」の旗の先にあったのは
↓御神木の大銀杏で、 幹を回りながら 「十二支巡り」をするようになっていました。



↑「御神木大銀杏/十二支めぐり
 この御神木大銀杏は、樹齢約一千年といわれ、当神社の長い歴史と尊い由緒を物語っています。
 江戸時代には東海道を旅する者に「山王さまの大銀杏」としてしられ、安藤広重の「武相名所旅絵日記」などに当時の神々しい姿が描かれています。
 また、別の書物には「この大銀杏の周囲を回りながら願い事をするとことごとく叶う。特に縁結び子授け、子育て、学問・習い事の向上に霊験があり、参拝者が絶えない」と書かれています。
 さらに、色紙(イロガミ)に願い事を書いて枝に結び、葉のある頃には一葉をとってお守りとするとよい、と伝えられています。
 戦前は神奈川県指定の天然記念物となっていましたが、惜しくも昭和二十年戦火を浴びて大きく損傷してしまいました。しかし、年とともによみがえり、その生命力の強さは御神霊のなせるわざと人々はいよいよ篤い信仰を寄せています。と同時に近年、平和のシンボルとしても仰がれるようになりました。
 昭和六十一年、稲毛神社境内整備事業の一環として、この御神木の周囲に十二支のブロンズ像(制作川村易)を置き、十二支めぐりとして整備いたしました。
 また、「十二支講」が結成され毎年例祭を行い、動物愛護・自然保護を主題とした集いが開かれています。
 ご自分の生まれ年の神像を通してご祈願ください。」
だそうです。

そうか こちら、元々は山王(権現)さんだったんですね?

改めて見る大銀杏_。


本当に立派です。

本殿の方へ行きましょう。


(↑七五三のお参りのご家族が通られます。「おめでとうございます」)

先に御由緒を_


↑「史跡東海道川崎宿/稲毛神社
 当社は明治維新まで「山王社」といわれた。鎮座地の「堀の内」は、この付近を開発し「川崎荘」とした在地武士の館跡と推定される地名であり、当社も同荘の鎮守として勧請されたものとみられる。
 中世のおける当社の推移は定かでないが、応永11年(1404)に大般若経書写奉納の動きがあった。近世初頭、伊奈氏による備前検地をうけ、20石の朱印を安堵され、以降川崎宿の惣鎮守として、人々は事あるごとに当社へ詣で地域の精神的紐帯となった。
 8月の例祭は宮座の制を残す古式なものである。」
なるほどー。 しかし元々は山王権現だったとすると_ 明治の「神仏分離令」では御祭神をどうするかで悩まれた事でしょう・・・。

今の御祭神は?(↑上の由緒書には御神名が見えません・・・)
どこかに 御祭神を記したものがあるはず~ と探していたら、電子式の「タッチパネル」がありました!

↑「御由緒」をタッチしたら~ 横スクロールで文字が現れました。(覚えられないので 御神名が現れた時に ぱちり)
「御祭神
 【主祭神】武甕槌神(タケミカツチノカミ)
 【配神】 経津主神(フツヌシノカミ)
      菊理媛神(ククリヒメノカミ)
      伊弉諾神(イザナギノカミ)
      伊弉冉神(イザナミノカミ)」
_だそうです。

しかし 「山王社」がどうして「稲毛神社」になったのか。どうして祭神を武甕槌神としたのか はわからない・・・。

_と思っていたら もういっちょ外に「稲毛神社略記」があり、ここにもう少し詳しく載っていました。

↑(私が知りたく思っていたことがら のところだけを抜き書きします)
「当神社のご創建の年代は詳らかではありません」「第十二代景行天皇が東国御巡遊のおり当神社に賊難を避けられた」(その時すでに神社があった?) 「第二十九代欽明天皇の御世、(中略)新たに経津主神、菊理媛神、伊弉諾神、伊弉冉神を配祀」 「鎌倉時代には将軍家より社領七百石を賜り、佐々木四郎高綱公が 源実朝公の命を受けてご社殿の造営に当たりました」(それまでは社殿はなかった?) 「足利時代には(中略) 河崎山王社 すなわち当社に_」
当神社は初め御祭神の御名をそのままとって「武甕槌宮」と称していましたが、平安時代末期にこの地を領有した河崎冠者基家(秩父平氏)が山王権現を勧請して以降「河崎山王社」「堀之内山王権現」「五社山王」「三社宮」などと呼ばれていました。」 「慶応四年、御征討のため下向された有栖川宮熾仁親王殿下が当神社にご休憩され、その折りの殿下のお言葉「御社名、新政府の神仏分離の砲身に相応(フサワ)しからず」により、鎮座地武蔵国稲毛庄の名をとって「川崎大神稲毛神社」と改称しました。その後、一時「川崎大神宮」と呼ばれた時期もありましたが、明治時代中期には「稲毛神社」が固定しました。
 旧御社殿は江戸時代中期の宝永年間に田中丘隅(休愚)の世話によって造営された荘厳優雅な建物でしたが、昭和二十年の空襲により惜しくも灰塵に帰してしまいました。しかしその後、氏子崇敬者の赤誠によって、昭和三十八年、鉄筋コンクリート神明造り、延べ坪数 百一坪の華麗なる現社殿の新築を見ました。」

なるほど、しかしそもそも なぜこの地に「武甕槌」を祀る「武甕槌宮」が建てられたのか、は 謎のまま・・・です。(公式HPには 「社伝によれば、当神社は東国に争乱の絶えなかった頃、武神・武甕槌神をまつり、天皇軍の戦勝を祈る社として建てられたと伝えられています」という一文がありましたが・・・。 例えば鹿島神宮などとは関係ないのかしら?)


さて 改めて拝殿へ。



(どこか「にゃあ」としていますが 狛犬は元々は「ライオン」がモデルといいますから 猫っぽくても「良い」
^^)

手水舎。


その先を守っているのは「わん」とした狛犬達でした。




↑「天地睨みの狛犬」ですって。(作は籔内佐斗司さんだそう。/そうと聞くとなるほど目のあたり「せんと」くんっぽい?)

拝殿。

神紋は三つ巴。(同じ武甕槌を主祭神とする鹿島神宮と同じ_)



ご挨拶。

改めて境内を見渡します。

境内北に 旧社殿跡。

御神木の南に 第六天神社と堀田稲荷社。


↓説明板。

両社とも江戸時代には堀之内にあり、川崎宿の旅籠屋、上人、芸妓たちや近郷の人々が篤く信仰していました。
 当時、第六天神社には他生自在天(タケジザイテン)がまつられており、人々はそれを多芸自在と読んで技芸上達と安産の神として崇敬していたといいます。
 明治三十九年、川崎競馬場建設の再、馬見場(バケンジョウ)への通路に当たったため当地に遷(ウツ)されました
 あたかも同年は、日露戦争戦勝の年であったため、凱旋平氏を招いて戦勝祝賀会をかねた盛大な遷宮祭が行われました。
 以後、近隣の人々によって「稲荷第六天講」が結成され、現在の毎年例祭が行われています。

第六天神社
 御祭神  於母陀流神(オモダルノカミ) 訶志古泥神(カシコネノカミ)
 御神徳  安産繁栄 技芸上達
 例祭日  四月第一日曜日

堀田稲荷神社
 御祭神  宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ) 豊受比売神(トヨウケヒメノカミ)
 御神徳  食物神 五穀豊穣 商売繁盛
 例祭日  四月第一日曜日」

国道側に並ぶ末社。
こちらはー・・・

左、「子(ネノ)神社」。



↑「子神社
  御祭神 大国主命(大黒さま)
  御神徳 商売繁盛、子孫繁栄
  例祭日 九月十九日
当子神社は、江戸時代には須ヶ原(スガハラ)にまつられていて里人から篤く信仰されていました。明治三年、須ヶ原、久根崎(クネガサキ 今の港町、旭町、本町二丁目)の人々によって建て替えられました。(中略) 明治四十五年合祀令により勧請主のひとり森五郎作家に移し邸内社となっていましたが、昭和三十二年、森家の転宅の際、当所に遷座されました。
なお、明治三年にはまだ川崎宿が存続していましたので、この社殿は、現存する宿場時代の唯一の建物です。」

中、大鷲(オオトリ)神社。




↑「大鷲神社
御祭神  日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
御神徳  五穀豊穣 家内安全 商売繁盛 交通安全
例祭日  十一月酉日(酉の市)

 当大鷲神社がここにまつられた正確な年代は分かりませんが、江戸時代末期から明治初年のことと思われます。
 日本武尊は父景行天皇の命を受けて熊襲(クマソ)・蝦夷(エゾ)などの征討に当たられ、数々の武勲をあげ、偉業を達成された英雄神ですが、死後、その御霊は白い大鳥となって天に昇って行かれたところから 尊をまつる神社は大鳥(大鷲)神社と呼ばれます。
 大鷲神社のお祭りである酉の市には農具の一がたち、鶏などが売られていましたが。江戸時代後期おおとりが「大取り」に通じるところから熊手で集め、枡で計らなければならないほど、作物が取れお金が儲かるという民間信仰が生まれ、恵比寿大国・稲穂、おかめ、千両箱、宝船等々あらゆる縁起のよいものを飾り付けた熊手や枡が売られるようになりました。
 当大鷲神社の酉の市も例年、生業発展、家内安全、心願成就などを祈る善男善女で夜半までにぎわいます。」

右、集合住宅型祠(何って呼ぶんでしょう?)


↑左から「福田稲荷神社、金刀比羅宮、松尾神社、大神宮、八坂神社、御嶽(ミタケ)神社、三峰神社」

南の門を抜けます。(本当はこちらからお参りする、んです、ねー)



石の柱の脇に 句碑。


↑「六郷の橋まで来たり 春の風 子規」(明治27年の句、とか)
おお、もしかしてこの時の六郷橋は「有料」時代?(←六郷橋は明治36年まで通行料をとっていたそうです)


庭(?)を挟んで 神楽殿。

その東に祠。

「和嶋弁財天社」だそう。

説明板。

和嶋弁財天社
御祭神  市杵島姫命
御神徳  国家安泰 航海安全 交通安全 豊漁豊作 音楽の神 技芸上達
 古くから河崎山王社(稲毛神社)の弁天池(放生池)の島「和嶋」にまつられていて、近郷の人々の崇敬篤く、いろいろな信仰的・文化的催しが行われていました。
 特に、神池から流れ出る小川のほとりで行われた「曲水の宴」は優雅なものであったと伝えられています。
 手水鉢は宝暦六年(1756)に奉納されたものです。」

井戸枠。


↑「御神水吹上げ井戸石枠
 この地は水が悪く、住民は長い間大変苦労しましたが、この井戸だけはいつもこんこんと吹き上げんばかりに清水が湧いておりました。住民たちはこの井戸を「御神水吹上げ井戸」と呼び、鎮守のお恵みとして大切にしておりました。
 とくに、流行病のときなど、夜半に水垢離をする人が随分遠くからも来たということです。
 しかし、その清水も工場による地下水のくみ上げのためか、昭和の初期になると枯れてしまいました。
 この石枠は川崎宿の旅籠屋中の寄進によるもので寄進者の名が記されていますが、文化八年(1811)と文政十二年(1829)の二つの年号が刻まれています。勧進に十九年もかかったのでしょうか、それとも文化年間のものが破損したか不都合があって文政十二年に造りかえたのでしょうか。」

弁天さんの祠があった弁天池(放生池)は、国道側にあったようです。



↑「弁天池(河崎冠者基家居館堀跡)
 河崎冠者基家坂東平氏の雄、秩父十郎武綱の子で、平安時代にこの地に移り住み荘園を開いて、その子重家との二代にわたってこの地を領したと言われています。
 その居館の後とも推定されるのがこのあたりです。
 当時の荘園領主は、その居館の周囲に堀をめぐらせました。かつて、ここから第一国道に沿って小堤をともなった小川が流れていましたが、このあたりの地名を「堀之内」と言うことからも、それは堀の遺構ではなかったのかと言われています
 また、平氏はその氏神、山王権現をまつるのが常でした。稲毛神社は古名を武甕槌宮(タケミカツチノミヤ)と言い、景行天皇とのゆかりを伝える川崎市屈指の古社ですが、慶応四年までは「河崎山王社」と呼ばれていました
 かつては、その小川に接して大きな神池(弁天池)があり、その中の島に和嶋弁財天がまつられており、四季折々に参詣来遊するものが多かったと言います。また、江戸時代にはこの池と小川を利用した「曲水の宴」が開かれておりました。その弁財天と曲水宴の歌碑二基は今も稲毛神社の境内にあって、当時の河崎の文化水準の高さを伝えています。
 残念ながら、この池と小川は昭和二十年代の第一国道拡張の際に埋め立てられ、その後は、小川をせきとめて造った小さな弁天池だけが残されていました
 今回、稲毛公園改修にあたり近代的な公園のふさわしい姿に造りかえられましたが、この池は、川崎の発祥とも言うべき河崎氏居館の堀跡と、宿場時代の町民の優雅な暮らしぶりを今に伝えるものです。」
↑へーっ。

弁天池の中の和嶋を模したのかな? な場所には「平和の塔」というオブジェが置かれていました。

後で 歩道側から撮った絵。


(↑鳩が群れ飛ぶ地球、ですね?)
↓その横にあったのは芭蕉の句碑_

↑「秋十とせ却って(カエッテ) 江戸をさす故郷」(故郷を目指して江戸を発ち 川崎に入った芭蕉が 渡ってきた多摩川の方を振り返って 十年暮らした江戸の方を故郷と感じている~。/漢詩「桑乾を渡る」とセットで鑑賞すべき歌、らしいです。 へー・・・)

境内南に建つ丹塗りの鳥居。(+右手に社号標)


やはり 神社は「表」から伺うべきですねー。(そうしてたら 最初から 詳しい由緒書きも読めてましたし^^;)

ともあれ、見所多い神社でした。
ありがとうございました。