(つづき)
野木煉瓦窯(レンガヨウ)から 渡良瀬(ワタラセ)遊水池へ向かいます。(古河で借りたレンタサイクルを利用しております)
↓遊水地へ渡れる箇所は限られています。煉瓦窯からだと まず「野渡橋(ノワタバシ)」を目指す必要があります。
野渡橋(ノワタバシ)まで来ました。(渡良瀬遊水池は ラムサール条約にも登録されている鳥獣保護区で 一般車両が入るのには色々規制が設けられているそうです。この橋も通行できる時間が決められていました。)
下を流れるのは渡良瀬川。
↑野渡橋の上から見た渡良瀬川 川上側。
↓下流側。
(足尾銅山からの坑廃水で一時はおびただしい被害を被った~ という川。水質汚染に人々が気づいたのは 明治18年の渡良瀬川 中・下流域での 鮎の大量死 がきっかけだった、といいます。)
土手へ上がります。
↑上がり切ったところ。視界が広い!
↓でも 目当てになる物が何もなく、 自分がどこにいるのか わからない。
↑どうやら 奥に見える水が ハート型の池の端っこ(心臓でいうと 左心室?)、らしい。
池の方へ下っていきます。
↓丈高いヨシに囲まれた道。何も見えません^^;)
↓渡良瀬遊水池の 外周水路 に出ました。
↓北に見えるあの橋(東谷中橋/ヒガシヤナカバシ)を渡ると いよいよ ハート型の池、です。
↓川に向かって釣り糸を垂れる人達。今はもう 水質に問題はないみたいですね?
渡り切った所に ハート型の池のマップがありました。
とりあえず(?)池を渡る道を走ってみましょう!
(↑因みにこれは 外周ルート。)
↓時にあの 水の中の塔のようなものは 水位塔かな? どうやってあそこまで行くのだろう?
↓で、えー これが (一応?)池を渡るルートなんだけどー・・・
↑全然そんな感じしませーん。
↓ところどころ こんな風に「覗く」事ができる場所がある程度・・・。
思ってたのと違うー なんてボヤいてたんですがー
橋(附近)からの眺めは素晴らしかった。
↑南ブロック側。
↓谷中(ヤナカ)ブロック側。
橋を渡るとー
「中の島」に出ました。
分岐点。
直進すれば 「下宮橋」へ、
北へ上がれば ハートの窪み部分、谷中村跡 に出ます。
ここで亭主が 「あー もう時間が無いー(←レンタサイクルを4時までに返さねばならなかったのです)」と言う。谷中村(←遊水地にするため 意図的に廃村とされた村)の痕跡だけでも見よう、と とりあえず北へ。
(↑左(西)、「北ブロック」。
↓道の東、「谷中ブロック」。)
岸が見えてきました。
このあたりが 谷中村に残った人達が最後まで住み続けたエリア・・・。
↑東屋。(ハイカー向けの休憩場所でしょうか)
↓水辺の「子供広場ゾーン」には 監視塔?が立っていました。
↓道脇に「谷中村について」という説明板。
↑「 谷中村は1889年(明治22年)、下宮村、恵下野村、内野村の三村が合併して出来た村で、栃木元の最南部に位置し、渡良瀬川、巴波川(ウズマガワ)、思川(オモイガワ)に囲まれた洪水常襲地帯であった。反面、肥沃な土壌を洪水が運んでくるため農地は全く肥料を必要としない程の沃田とも言われた。
しかし、1877年(明治10年)頃から渡良瀬川上流の芦尾銅山より流出する鉱毒により、農作物や魚に被害が見られるようになり、さらに1887年(明治20年)以降には芦尾銅山の生産が増大するとともに、その被害は渡良瀬川沿川の広範囲に及んだ。谷中村も例外でなく農作物の立ち枯れが魚の弊死等被害は想像を絶するものがあった。
このため、栃木県出身の衆議院議員田中正造は被害状況を帝国議会で訴え、住民も東京へ上京西岸し、1900年(明治33年)の川俣事件、翌1901年(明治34年)の田中正造の天皇への直訴で、鉱毒問題は人々の関心を引くこととなった。被害民の芦尾銅山の操業停止要求に対し、政府は原因は洪水にあると判断し、洪水防止策として渡良瀬川の新川開削(藤岡大地を開削し渡良瀬川を赤麻沼に流下させる。)と遊水地設置の政策を決定した。谷中村はその大半が遊水地となることより、買収は1906年(明治39年)から着手され、それに応じた者は他地へ集団移住を開始し、同じ1906年7月(明治39年)谷中村は藤岡町に合併させられて法律的に村は抹殺され、事実上の廃村となった。」 (補足/ MAP上では遊水池と表記される事が多いのですが、 河川法上の記載は遊水地だそうです。又説明板では遊水地となっていますので 原文の通りここでは地と打っています。)
本当はここで見たいと思っていた物 色々あったのですがー・・・
_時間切れです。
戻ります。 / おしまい。
<蛇足>
そもそも渡良瀬遊水池に来ようと思ったのはー この池がハート型だった、からです。飛行機の窓から見えたハート型の池に私は「観光目的で造ったのかな?」なんて思ったのですが、ググってみると~ 実はこれは 足尾銅山鉱毒事件がきっかけで造られる事になった遊水地で、ハート型の窪み地点は 立ち退きに反対した村人たちが住み続けた「抵抗運動の拠点」だったのでした。 / 思いもかけない 事実 に少なからぬショックを覚えた私ですが もう一方で「いつか その地点に行ってみたいもの」という気持ちも もつようになっていった、んですねー。/ しかし私が「渡良瀬遊水池に行ってみたい」と言ったら妹は 「ああ、森高千里な^▽^!」などと返すのでした。。。