白糸川橋梁と釈迦堂 | (又)おだわらぐらし はじめました

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「新しい日常」を綴って参ります

根府川(ネブカワ)の釈迦堂へ行ってみました。

(車は国道135号線の 公衆トイレ前駐車スペースへー)

↓白糸川に架かる白糸歩道橋(←国道が渡る「新白糸川橋」の隣の赤い歩行者用の橋)から見た 白糸川と白糸川橋梁

(↑丁度 東海道線の電車が渡っているところでした。)


↑釈迦堂は 鉄橋の下の あの赤い橋を渡った先。

干物の山安さん前を抜けて 川の左岸の坂を上がります。



↑釈迦堂入口、と記された石。
↓そこから川側へ下りる坂道が始まっていました。




赤い橋があった。



(↑橋の名前 わからず...。)

橋から海側を見たところ_。


(↑さっきは あっちの赤い橋から こっちを撮った、んですねー。)

↓川上側。

橋を渡り終えたところ_。

(↑振り返って見てます。)
↓目指していた釈迦堂。

近寄っていくとわかりますが・・・

このお堂は「覆い屋」です。

お釈迦様は ほぼ一階分 低い位置にいらっしゃるのです。


屋根に載る額 「釈迦堂」。


階段を下りていきます。



↑お像はコンクリートのアーチの奥。/右にライトがあります。 どうやったらつくのかな と近寄ったら パ っと点灯しました。(どこかにセンサーがあったもよう)

お釈迦様は岩盤に直接刻まれています。

横の壁に掲示されていた「白糸川の釈迦如来」という文。↓

根府川の旧家広井家の古文書によると広井家二十二世広井長十郎重友の代に頻発地震多く、特に寛永九年(1632)一月二十一日と正保四年(1647)九月十四日と慶安元年四月二十二日の地震は、死者、民家の倒壊多く津波も来襲する等で世相は不安にみちて居り、長十郎重友は村内世相の安泰のため岩泉寺境内の岩盤に釈迦尊像を像立して世相の安泰を祈ったとあります。お姿の右側に『寛文九(1669)丙申(ヒノエサル←干支と年号が合いません、丙申は像立の年である明暦二-1656年の干支なので どこかで写し間違えが起こったのでしょう) 歳七月十二日、元喜道祐庵主』と刻まれて居ります。これは像立した長十郎重友の命日と戒名ですから、後日刻んで像立者の冥福を祈願したものと思われます。その左に『普明歴(暦)ニ配歳仲秋月』とその左に『広井宗左衛門敬』と刻まれて居ります。宗左衛門は長十郎重友後改め宗左衛門と広井家の系図にありますので、二十二世広井長十郎重友改め宗左衛門が、台座に刻まれて居る『大工権助策』『石匠寅佐代』によって明歴(暦)二年(1656)に像立したものと思われます。
後に万治二年(1659)の大洪水で岩泉寺は現在の高台に引移ったが、お釈迦さまは岩盤に刻まれて居りますので引移す事が出来ないので現在の所に残りました
大正十二年九月一日(1923)関東大地震が起りまして関東一円は有史以来の大惨事となりました。お釈迦さまは上の鉄橋が落ち其の上に山津波の土砂で埋没してしまいました。お釈迦さまは目の高さより上に拝むように刻まれて居ったのですが、土砂に埋まったので現在の洞の中のお釈迦さまとなったのです。お釈迦さまは長い歴史の移り変わりの中で言い伝えによれば、弘法大師の作とも言われ此の地方の信仰のより所としてまいりました。特に、お釈迦さまを掘った人々が、落ちた鉄橋と土砂の中から指一本損じないお姿を見て、如来の、あらたかさを驚嘆した、とのことで、如来信者も多く、村内始め県西地方の人々の信仰厚く四月八日のお釈迦さまの誕生日には善男善女の参詣者多くにぎあいます。
 (内田一正記)」

本当に_かつて仰ぎ見ていたお釈迦様が こんな土中の洞の中のお釈迦様になったとは・・・ 自然災害の恐ろしさを思ったり そんな大きな被害に遭いながらもご無事だったお釈迦様に霊験のあらたかさを思ったり、ですねー。

ありがとうございました。

おしまい。


<・・・>

話は少しそれますが、戦前から根府川駅はほぼ今の場所にありますので 今と変わらない高さに「旧 白糸川橋梁」も架かっていたハズです。/ それがあの関東大震災の日、釈迦堂の上に落ちたのです・・・。/ 改めて「恐ろしい事」と感じました_。 

<補足>
白糸川橋梁は令和元年(2019)に旧熱海線鉄道施設群の一つとして 土木遺産 に登録されています。/大正11年(1922)に完成した「1代目」が震災で失われた後架け替えられた今ある「2代目」も大正14年(1925)竣工の 実は年代物、なんですねー。/へー。/しかし 「土木遺産認定」のブロンズのプレート お堂近くではみつけられませんでした・・・。どこにあったのだろう?