村山浅間神社 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

山宮浅間神社を出た後は
村山浅間神社へ行ってみました。(村山は地名)

(距離にしてほんの3~4キロ)

↑道沿いに広い駐車場がありましたが、広すぎて(?)「神社はどっちだろう」と まずMAPをさがしました^^;)↓


↓あらこれは ただのMAPではなく・・・「村山浅間神社」の説明板ですねー。

↑おお、昔の大宮(←現・富士山本宮浅間大社/又 大宮は現富士宮市中心部をさす地名でもあった との事)から富士山への登山ルートはここ村山を通っていたんですね。 (しかし明治時代に開通した「富士登山新道」はこの場所を通らなかった・・・)))

↓ここには元々 神仏習合の宗教施設があり 信仰のために富士へ登る人達を護り導いていたんですねー。

そして その中核をなしていたのは「冨士山興法寺大日堂」だった とか_。/ しかし明治の神仏分離令で お寺は勢力を失い 浅間神社は守られることに・・・。

しかし現在ここは
「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されています。 しっかり村山の価値は評価されている、という事ですね。

(↑鳥居横にあったものですが、話の流れ的に ここに貼ります。)
「④村山浅間神社
富士山における修験道の中心地として19世紀後半までは興法寺(こうほうじ)と呼ばれていました。富士山本宮浅間大社とともに大宮・村山口登山道の起点となりました。古代から近代(現代)に至る山岳信仰のあり方を考えるうえで重要であることから、八合目以上の山頂部、登山道等とともに史跡にしていされています。」

では 神社の方へ行ってみます。


(↑畑の隅の赤い鳥居の奥には 御幣を立てた 小さいけれどシャンとした丹塗りの祠がありました。)
神社は_ちょっと 駐車場から離れてるんですねー。


(↑カーブミラーの右に「村山浅間神社⇒」というプレートがあります。)
↓やっと(?)鳥居が見えてきた。

↓上で貼った 世界遺産の登録証明碑(←すみません正式名称がわからないのですが)は ここにあったもの、です。

↑左の石柱には「史跡富士山 村山浅間神社」と刻まれています。
↓こっちは戦前の社号標(県社だったんですね)と 「定」の記された板。

(↑ちょっと高札場の雰囲気)
↓鳥居と現在の社号標。

↑今は「富士根本宮 村山浅間神社」が正式名称なのかしら?
↓鳥居に掛かる扁額にも「冨(←ワ冠)士根本宮」と記されていました。


階段を上がった先は 意外にも(?) からり とした場所でした。

左手に手水舎。

水は中央から 噴水式に湧いており、水盤の上に渡された長角材には柄杓が伏せられていました。水盤の横に彫られた文字は 「■嗽水」。(右の漢字何でしょう?洸に見えるけど意味的に・・・よくわからないなあ)

もう一段石段を上ると・・・

神社の屋根が見えてきました。


これが「村山浅間神社」ですね?

屋根には丸に棕櫚の葉~ の浅間の紋。

虹梁の上には龍。


↓扉の上の扁額の文字は「冨士根本宮」のようですね?


社殿を横から拝見。

拝殿の奥に神殿部。


さて神社の右手に 丹塗りの鳥居があり・・・



↓鳥居横に(この先には)「氏神社」がある という案内板が立っていました。


見上げると 石壇はまだまだ続いているっぽく・・・


ま いっか と 途中で引き返してしまいました・・・。

が、後で調べると_
氏神社に祀られていた平安末期の「末代(マツダイ)」というお上人様は 神仏習合の宗教施設群として栄えた村山にあってとても大きな存在だったそうで・・・
「ちゃんとお参りすればよかったー」でした。。。

境内の東側には_

大きな建屋がありました。

雪囲いが残っている状態、なんでしょうか?軒から下が全て板で覆われています。

軒とー

賽銭箱に注連縄が張られています。神社の施設かな?

と、 戸の上の扁額(?)の文字を見て驚きました。

↑「冨士山 興法寺」と記されています。
かつてこの村山の中心に立ちいくつもの坊を従えていた興法寺の跡がここ_。/ でもグーグルMAPには「護摩壇」と表示されるので興法寺の一部、という事かな? もしかして からり と何もなくなっていた一段下の広場に 興法寺が建っていた???

そう思ってから周囲(旧境内)を見ると_

森のふちに 宝篋印塔やお地蔵さんなど 仏教系のあれこれが・・・。


同時に大きな杉にも気づきました。


「御神木指定証」も持つ木、のよう。

更に県の天然記念物にもなってて 樹齢 推定1000年 ですって。


どうぞこれからもお達者で^^)/ さようなら。



<+>
駐車場に戻る途中こんな富士山を見ました。


富士の裾野に植えられているのは何だろう?白い花をつける朝顔かなー? サヤエンドウ? メロンだったらすごい! (妄想が止まらない^^;)))

<++>
駐車場にあった胸像_。

イギリスの初代駐日公使ラザフォード・オールコックさんです。

(あ熱海の「大湯」の・・・)

↑へーオールコックさんは 「初めて富士登山として外国人」でしたかー。(しかもここ「村山口」から)
↓その時の様子は彼が著した本『大君の都 THE CAPITAL OF THE TYCOON 』の中で このように記されているそうです。

「われわれは、三島から沼津(十二次の宿駅)と原(十三次の宿駅)の二つの町を通過した。これらの町は互いに約1リーグずつ離れていて、いずれも箱根の山の上からはっきりみえる。そこから吉原(十四次の宿駅/現 富士市)までは、ずっと平地で、約3リーグ離れており、吉原で東海道に別れを告げることになった。
 富士山へのルートは、ここからわきへそれて、十字路によって(←ここの訳ちょっと気になるー) 大宮(←現在浅間大社のあるところ)と森山(←どこ?)という二つの小村につうじている。この二つの小村は山のふもとに位置していて、いくつかの重要な寺や僧院がある。」 (←んー この訳文では「村山口」が出てきませんね・・・読む側としては 村山口から富士へ上がった、という確証が欲しいのですが。/ オールコックの書いてる日本の地名は不正確ですよね。 もし「OMIO and MOORIYAMA」 が「大宮(現・富士宮市中心部)と村山」~とかだったら納得できるんだけどなー。)
_ともあれこの碑は、「オールコック著 『大君の都』上梓150周年記念碑」だそうです。


↑あ、ここにちゃんと書かれてる!OMIO=大宮、MOORIYAMA=村山、ですね。 合点^^) / おしまい。