須山(スヤマ)浅間神社 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

続いて訪ねたのは 裾野市は須山の 須山浅間神社

(駐車場から社殿の方へ向かっております)

(↑結構な勾配を 落ちる ように流れる用沢川を 橋から見下ろしてます。)

一つ下流の橋を渡ったところが 神社_。




丹塗りの橋を渡ります。(その名も「浅間橋」)


橋を渡ったところに 室町時代の僧 道興准后(ドウコウ ジュゴウ)という人の歌碑。




すはま口というより ふじのふもとにいたりて 雪をかきわけて_
「よそにみし ふしのしら雪 けふ分ぬ 心のみちを神にまかせて」
_遠くから見ていた富士の白雪に 今日は実際に足を踏み入れている~ のかな?(なんとなく共感を覚えますね)

それはともかくここの「すはま口」というのは 「須山口(珠山口)」の事で かつては富士登山の起点の一つだった、のだそうです。/ が、宝永四年(1707)には 「須山口五合目」が噴火し 一時は登山道が消滅。 江戸の末近くになって ルートを大きく変えて復活~ するも 明治時代に新たに東海道本線が通った御殿に「御殿場口」が作られると 交通の便の良いそちらが栄え~ 一方こちら須山口の方は麓が軍の演習場になったりして~・・・ (中略) しかし平成に入って「須山口復興」の気運が高まり 平成9年に「登山道」平成11年には「下山道」が完成し 見事須山口は 復活したのでしたとさ。めでたしめでたし。↓情報を頂いたサイト
裾野観光協会/富士登山と須山登山口

まえふり 長くなりましたが_

気を引き締めて 浅間神社を訪ねます。


↑鳥居 旧社号標「郷社 浅間神社」 現在の社号標「史跡富士山 須山浅間神社」。

↓鳥居の先、川の際に 世界遺産の登録標。

(↑上半分はここまで撮ってきたものと同じなので 下半分だけー)
「⑤須山浅間神社
須山口登山道の起点となる神社で、富士山の東南麓において、登拝に重要な位置を占めていたことが知られています。古代から近代(現代)に至る山岳信仰のあり方を考える上で重要であることから、八合目以上の山頂部、登山道等とともに史跡に指定されています。」


鳥居を潜って参道を北へ。

右手に手水舎。


甕を抱く龍の口から水が~。


(↑歯並びが良いせいか ちょっと人に見えてしまいますね^^;)

石段を上ると 社殿前に出ました。

まだ新しいお社のよう。(Wikiによると平成25年(2013)に改修されたもの、との事)

屋根には主祭神-木花咲耶姫命のシンボル「桜」。
虹梁の上には二匹の龍。

鈴の奥の扁額の文字は_

「淺間神社」。

(↑おや 左に従三位出雲国造尊福書とあります。 揮毫者は千家尊福(センケタカトミ)さん?)

お賽銭箱の上の木材は何だろう? 

↑皮を剥いだ物を組んで置いてるんだから 意味がある、んですよねえ?(格子が持ち上がらないように抑えている、に一票^^;)
↓その横には おもちゃの魚釣り。(竿の先のマグネットの餌で木製のお魚が釣れま~す)

↑んー 今月の参拝記念品、かな? / 謎が増えていきます_。

拝殿の奥に神殿部が見えます。



社殿左手に立てられていた富士登山のルート図。


更にその左に 由緒書き。

「須山浅間神社の由緒
 当社は往古富士山東口の社であったが、後に登山道の増設に伴い南口登山道の富士浅間(←大社奥宮の事でしょうか?)の下宮として祀られた。社殿によると日本武尊が蝦夷討伐の際、創祀されたとある。その後、蘇我稲目が再興し、平兼盛が修理奉納している。
 いずれにしても古くから山岳信仰として「富士山」を御神体ちすて仰ぎ奉っており、度重なる噴火とも関連し、山麓に浅間大神を祭り祭神の霊を慰め奉ったのが始めと思われる。 武門の崇敬も篤く源頼朝を始め、武田信虎・勝頼、今川家代々の戦勝祈願から、徳川時代になると小田原城主より毎年奉幣があった
 神社は、舊(旧)除地(≒年貢を免除されていた土地)三反十三歩(=913坪≒3018.18㎡)を有し、明治八年(1875)郷社に列し、同四十年には神饌幣帛料供進社に指定された。
 境内には樹齢五百年有余年の杉の大木が二十本以上、鬱蒼として幽𨗉を極め、神社庁の御神木に指定され、裾野市の文化財にもなっている。また平成二十三年(2011)二月には国の史跡に指定された。
    渡邊徳逸 撰文」


社殿の右に ちょっと変わった建屋がありました。


扉が格子で中を見られるようになってます。

「古宮」という説明書きが貼られてました。

↑「このお社は慶長十六年(1911)に建立され 現在の本殿(社殿奥、朱塗りのお社)が建立された文政六年(1823)まで現本殿位置に鎮座されておりました
 御祭神(現在)
  八坂大神 八幡大神 愛鷹(アシタカ)大神 子安大神 疱瘡(ホウソウ)守護神」_ですって。 (今の本殿は朱塗りなんですね? 拝殿奥にそのような建屋は見えませんから きっと本殿の外側に覆い屋がついている、という事なのでしょうー)

「古宮」の横の壁に 御祭神の御名が記されていました。


「南口下宮 須山浅間神社
祭神 木花開耶姫命
相殿 天津彦火瓊々杵命 大山祇命 天津彦火々出見命 天熊大人命(アマクマウシノミコト)

-続く由緒書は 先に見た 渡邊徳逸さんの書かれた文と大きく変わらないので割愛します- 」

その横に 御神木だった木の年輪が飾られていました。


↑あ、この年輪の「見せ方」面白い。/「年表」になっている、んですが 中心が「1600年頃 関ケ原の戦い」です。(線の下が 日本の歴史、上が須山の歴史、になっています。)

ありがとうございました。

と階段を下りようとして 


由緒書に気づく_。

(最初に読まなきゃ^^;)))

(内容はここまでみてきた由緒書の要約版だったので「写し」は省略いたします。)

で この「横の石灯籠」は この頃 火袋の火口が「ハート!」(正確には逆猪の目?)という事で 映える系 の絵を撮る方に人気、だったんですよー。

あっち側、からハートを覗いて社殿を写した写真、後日ネットで見て 「なるほどー」でした。(年寄りには思いつけない^^;)))

おいとまいたします。


この後は須走の方へ~。/ つづく