山宮(ヤマミヤ)浅間神社 | (又)おだわらぐらし はじめました

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「新しい日常」を綴って参ります

では 富士山本宮浅間大社が元々祀られていた場所 とされる「山宮浅間神社」へ行ってみましょう。(お浅間さんの ここから現在の富士宮市宮町への遷座は大同元年(806)といいます。)

明治のはじめまでは 4月と11月に 昔の遷座をなぞる「御神幸道」というお祭りがあり、御神霊を移した鉾 を大社からここまで運んだそうです。

(↓浅間大社の湧玉池の畔の「御神幸道の起点の碑」、とその説明板)



↓富士スカイライン脇の駐車場から 少し下ったところに 鳥居がありました。




↑扁額の文字 「富士山元宮/山宮浅間神社」。

灯籠の並ぶ参道を進むと_


割り拝殿がありました。




拝殿手前 左側に手水舎。




その横に 社号標と世界遺産の登録認定プレート。


ここ山宮浅間神社も 「世界文化遺産-富士山-信仰の対象と芸術の源泉」を構成する大切なワンピースなんですね。

↑「③山宮浅間神社
富士山本宮浅間大社の前身であるとされている神社です。本殿に相当する社殿がなく、富士山を直接拝礼するための遥拝所は、古代からの富士山祭祀の形をとどめていると考えられます。古代から近代(現代)に至る山岳信仰のあり方を考える上で重要であることから、八合目以上の山頂部、登山道等とともに史跡に指定されています。」_だそうです。

割り拝殿を進みます。


↑鈴の上に「丸に棕櫚の葉」_浅間の紋。


拝殿を抜けた所に ころり とした石。これも(浅間大社 楼門前でも見ましたところの)「鉾立石」(←大社の4月と11月のお祭-「山宮御神幸」の時 神様の霊を移した鉾を乗せる石 一種の御旅所)。


石段手前に もう一つ_。


石段を上がります。


正面に門。この先は聖地、という事なのでしょう。

玉垣の向こうにー

富士山が見えた!!!
ここは 御神体の無い 富士山そのものを拝む 遥拝所_なんですね。
(しかし ここにこの遥拝所が置かれた時 富士山は「活火山」だったのだ・・・ 昔の人はどんな景色を見たのかなあー。)

垣の内を見せて頂きます。


(↑門には浅間の紋)
↓建屋は無く 石 が並んでいるだけです。

↓奥に祭壇と思しきものが築かれています。

↓説明板。

「山宮浅間神社
 山宮浅間神社は、富士山そのものを祭神として祀られた場所と言われています。境内には社殿がなく、富士山を直接仰ぎ見る遥拝所があります。拝殿や本殿が存在しないのは、富士山体を遥拝する場所として、その祭祀の形を留めているものと推定されています。遥拝所には、南北15.2m、東西8.4mにわたり 30~40cm程度の溶岩で築かれた祭場となる石列があります。この石列は玉垣で囲まれ、さらにその周囲には約45m四方を区画する溶岩を積み上げた石塁が見られます。
 神社の創建年代は不詳ですが、富士山本宮浅間大社社伝によれば、山宮に遷(ウツ)される前、山足の地に祀り、その後、山宮の地に祀ったと伝えています。
 かつては、浅間大社の春秋の大祭前日に、浅間大社の祭神が山宮を訪れる「山宮御神幸」が行われていました。この行事に使用された行路を「御神幸道(ゴシンコウドウ)」と呼び、道筋の50丁(1丁=約109メートル)の間には、一丁目毎に目安の石碑が建てられていました。(現在は4基だけが残されています。)
 また、「山宮御神幸」の祭神は、鉾に宿り山宮へ向かったことから、御神幸の途中休憩する際に鉾を置く「鉾立石」が設けられました。鉾立石は道筋に幾つかあったといわれますが、現在は浅間大社楼門前と山宮浅間神社の参道に残っています。
 拝殿や本殿が存在しない山宮浅間神社ですが、境内には籠屋(コモリヤ)と呼ばれる建物があります。かつて神事の際に浅間大社の神官らが参籠したとされるもので、現在の籠屋は、昭和8年に建築されたものです。」


「遥拝所石列
 遥拝所の石列については、江戸時代に描かれた『駿河記』や『駿河志料』に、「(山宮浅間神社は)今は荒れ果て、社殿はないが、石壇や鳥居などがある。神の鎮座する所の中心には、榊(サカキ)を植えてご神体の石を安置している。」とあります。 『浅間神社の歴史』によると 「この石礎は、今も現存する並石(石列)をいう。」とあり、江戸時代より遥拝所には石列があったと考えられます。 また、ここには山宮御神幸などの祭事に参列する本宮(富士山本宮浅間大社)の大宮司以下の社人(シャニン)(神官)や供僧(グソウ)(社寺の僧侶)などが着座し並ぶ配置を区画したものだとも記されています。 この石列を囲む玉垣は、昭和5年(1930)に建設されたものですが、平成25年度(2013)に実施された発掘調査では、玉垣の西南(正面)側下部において、石列が2か所(石列1・石列2)で確認されています。この2か所の石列は玉垣内の石列と同質の溶岩を使用しており、ほぼ同時期に配置されたものと考えられます。」 (?すると 本来の祭祀場は 今玉垣が囲んでいる範囲 以上 だったかも?)

わからないままの事もありますが
古い古い信仰の形、色々興味深いです。
(大社だけでなく 冨知神社 そしてここ~ と回ってきて よかったなー。)

ありがとうございました。

戻りましょう。




この後は この他の浅間神社を数か所回りながら 帰りました。/ 次は「村山浅間神社」、を訪ねます。