網一色(アミイッシキ)八幡神社 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

「味噌の樽匠」で味噌ラーメンを食べた後は_

その少し南に建つ 網一色八幡神社へ行ってみました。

↑県道720号線を(樽匠側から) 南へ歩いています。用水路の左の木立の中に目指す社はある、、、はず。用水路の左岸を進みます。
↓おっと 左岸の道は 神社境内にはつながっていませんでしたー。

右岸側に渡って 表の参道から境内に向かいましょう。

↑用水路の向こうに社殿。
↓用水路は境内を囲むように きゅう と流れを変えます。



↑用水路の上に神社境内へつながる石の橋が架かっています。用水路は神社の 穢れ祓いの川 の役をになっているんですねー。

玉垣に沿って進むと_

鳥居前に出ました。

右手に社号標。


「八幡神社」と刻まれています。

鳥居を潜ります。

参道両側には銀杏。

禊川に相当する用水路を渡った先にはー


松の大木が幾本も。

松の枝の上には サギの巣が見えました。


境内を含め このあたりの木々は 市の「保存樹林」に指定されている、との事ですー。


手水舎がありました。

水盤の上に渡された竹は青いので ごく最近置かれた物かな? と思うのですが 柄杓は置かれていません・・・。

玉垣の内へ。


話の都合上~
社殿左手から見ていきます。

↑大正四年の(大正天皇)「御即位紀念」(に桜の木や苗が奉納された事をしるす碑)、大黒・恵比寿 二神の像を納めた小社、「出征軍人凱旋紀念之碑」。

↓右を見ると、奥には神庫、 手前に庚申塔など そして_

「新田神社」

↑屋根には「丸に一」。新田の家紋「一つ引」でしょうか?

新田義貞が祀られているそうです。(後で知る事になるのですが_)



改めて_
 こちらが八幡様。


屋根の紋は蜂巣(蓮)でしょうか?

(お寺の軒丸瓦によく見られる意匠)

鈴を鳴らして ご挨拶 いたしましょう。


拝殿前で上を見ると_
鈴の向こうに扁額。


『奉献/ 御霊八幡宮 / 長谷観世音菩薩 高野山弘法大師 拝禮 // (右)山州石清水八幡宮参詣 伊勢■大神宮大々講(太太講?)参宮 奈良春日大明神参詣  (左)讃州象頭山金毘羅大権現神拝  天保十一庚子■ 三日吉祥日 /// 剱持・・・門 ・・・』
_一部読めませんでしたが いろんな神社仏閣へお参りして来られた方が奉納された扁額、のようですね?
又、この扁額により 江戸時代には社号が「御霊八幡宮」だった、というのもわかります。

Local-Wiki 八幡神社 (東町) にも_
「『風土記稿』のとき、網一色村(東町)の鎮守は、呑海寺が別当寺の御霊八幡宮だった。鎌倉権五郎景政の霊が祀られており、神体は始め甲冑で、弓矢を取った銅像を安置していたが、『風土記稿』に近い頃に失われ、『風土記稿』のときには幣束が置かれ、本地仏・地蔵菩薩が安置されていた。」_ とあります。)

↑さて 昔は 「鎌倉権五郎景政 を祀る 御霊八幡宮」だった~ との事ですが、
現在の社号は村の名「網一色(現-東町)」を冠した「網一色八幡神社」_ のはず。

・・・なんですが 神社境内では「網一色八幡神社」の文字を見つけられませんでした。

ネットで「県 神社庁」の頁を見ましたがー・・・↓

↑「網一色」抜きの 「八幡神社」になってますね。又 御祭神が 鎌倉権五郎景政ではなく 「応神天皇」だ。。。
(_明治政府としては 社号に八幡~を使うなら祭神は八幡神(=応神天皇/誉田別命)でなければならない~ とかだった? でも 上に何も無しで いきなり 八幡神社 って・・・ ちょっと落ち着きませんよねー)
    
・・・網一色、は どこにー?



結局「網一色八幡」という社号は 境内では見つけられませんでしたがー
「網一色」の地名の由来の記された石は玉垣の外、にありました。

(↑実は この石碑については事前に piyotorinさんのブログ「おだにゃら記」のアーティクル「網一色八幡神社 地名の由来」で読んでおりましたのです。)
↓「御大典記念」

題字 海軍少将従四位勲三等功四級關重忠書

此ノ地ハ往昔足柄郷ニ属シ早川荘ノ一部宮城村と稱ヘシカ後足利家ノ臣一色某冤罪ニヨリテ本村に来リ荒地を開キテ一色村ト改メタリト云フ  小田原盛衰記ニ北條氏康西國ヨリ漁師ヲ招キテ千度小路ニ住マハセ地獄網ト云ヘルヲ用ヒ海底ノ魚貝ヲ捕ラセ大イニ民利ヲ■(創?)リ網ヲ一色ノ海岸マテ干サシメタルヲ以テ網一色ノ稱起ルニ至レリト
<↑地名の由来>

尚當社八幡神社ハ後三年ノ役ノ剛者鎌倉權五郎景政ノ靈ヲ祀ル  副社新田神社ハ元西上百六十八番地ニアリ 社傳ニ新田義貞ノ臣船田入道某義貞ノ御首ヲ持チ來リテ埋メケリト 又三河國碧海郡(ヘキカイグン)上和田村法華宗本壽山妙園寺ノ元禄八年ノ記ニ 𣳾藤御首ヲ持チテ濃州ニ下リ夫(ソレ)ヨリ本領三州和田ニ(エ?)妻子ニ暇ヲ告ケ上州新田公ノ本國ヘト志ス途次相州小田原驛ニテ異例常ナラス其御首ヲ甕ニ納メ酒匂川ノ邊ニ埋メケル 即チ新田大明神ト崇メケル云々ト 然レトモ明治維新ノ際證據(=証拠)不明ノ為メ廃社トナリシハ誠ニ遺憾ナリ
<↑神社の祭神の話。 と 証拠不十分 とて廃社になった「新田神社」を惜しむ話。/しかし、、、すると 今ここに建つ新田神社は 有志により「副社」として残す事にされた社、という事でしょうか???>

近クハ六十餘年前 明治大帝京都ヨリ東幸ノ砌リ川越ヲ為(?)シ給ヘル由緒アル地ナリ
聖上陛下天津日嗣ヲフマセ給フ鉅典ヲ擧ケサセラルルニ際シ我等ハ本村ノ沿革ヲ顧ミコゝニ記念碑ヲ建設スル所以ノモノハ温故知新以テ叡㫖ニ副ヒ奉ル忠良ナル青年タルコトヲ期セントスルニ外ナラス
<↑歴史を忘れないためにこの記念碑をたてた~ という話>

       従六位森丑太郎敬書



この地に新田義貞の首が埋められ 新田大明神 として崇められた~ という話は 地元では有名らしいのですが、外から来た者には「どんなお話でしょう?」で_
ググっていたら・・・

小田原市立・白鴎(ハクオウ)中学校のHP
学区の歴史 / 新田義貞首塚の項に~↓
https://www.ed.city.odawara.kanagawa.jp/swas/index.php?id=hakuo_c&frame=frm51d1197c74efa
詳しい話が載っていました。/  上で写し打ちした「御大典記念」に載る話についても 分かりやすく書かれており、ありがたく思いながら 読ませて頂きましたよ。(上の碑文に載る「𣳾藤」(=宇都宮泰藤)という人は 「小田原城主、大久保氏の先祖」だったんですね! へーっ)



話があちこちしましたが_
社殿を改めて拝見。


↑屋根の上や下に波や雲水。
↓よくわかりませんが 拝殿の北に神殿部が設けられているようです。


社殿手前 東側に「水神」と刻まれた石。

その隣にも・・・。

その後ろには灯籠だか 供養塔だかの 名残。


庚申塔も見てみましょう。


(↑右の文字列 「■■延宝二年甲寅年(1674)」と読めるようなー)
↓その右の石も 元は字が刻まれていたようです・・・。

↓「天社神 / 文化四丁卯年(1807)...」と刻まれた石。

天社神とは どんな神様でしょう? ネットによると「秦野あたりに多い」そうですがー。(その他 福岡にもあるらしい)


まとまらないまま ながら、
こんなのが この日私の見た 東町の「八幡神社」 (通称 網一色(アミイッシキ)八幡神社)なのでした。 / おしまい。
 

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<よだん?>
地名など 上に冠する文字無しの社名~
調べたら他にもありました。
新宿の「花園神社」です。
江戸時代には「花園社」と呼ばれていた神社ですが、明治の初めに「稲荷神社」と届け出をしたら「村社 稲荷神社」が正式名称になってしまった~ のだとか。後に社号改名願を提出し 大正時代に「花園稲荷神社」となったそうですよ?
もしかして小田原東町の「八幡神社」も 単に届け出時の書き洩らし、 あるいは 上に地名がつくのは当然と思っていた、などの手違いで~ とか?