さて 静かな裏道となった旧道を行くとー

「高低差好きにはたまらない?」線路の下を潜る 階段、が出現。

横は、山からの水を落とす水路の「開渠(カイキョ)」部分!


通る前から わくわくしますね?


↑しかも この先に「牛頭天王神社」があるんですってよー。
「牛頭天王神社(ごずてんのうじんじゃ)
古来部落の境には天王神社が祀られる事が多い。祭神は牛頭天王(スサノオ)を祭神とする祇園信仰の神社であり、京都八坂神社の祭礼が全国に広まった・・・である。牛頭天王はインドでは武塔(ムトウ)太子と呼ばれ、祇園精舎の守護神とされている。名前の由来は所説あり古くはヘブライ語の「ゴゼー」がなまって「牛頭」になったという説もあるようだ。典型的な神仏合祀の一例である。
スサノオノミコトは大変、力の強い暴れん坊の神様だったので霊力が強く、これを祀れば疫病神を除いてくれる、という信仰から多くの村境に祀られたと思われる。山崎も入生田(小田原市)と、湯本町(箱根町)との村境にあり、湯本村の人達が村に疫病が入ってこないようにと祀ったものである。
旧湯本村の氏神だった頃、明治二十六年に神社の石段を作った時の記録によると 世話人は湯本の湯場・神明町十・仲宿・三枚橋・山崎の代表が名を連ね、全村七十五人が工事費を寄付している。石段の数は百十八段あり、神社境内にある碑には世話人、発起人の名前が刻まれている。
天王社の紋章は五ッ木瓜(イツツモッコウ)で、キュウリを輪切りにすると同じような紋様になる為か、祭礼には必ずキュウリを上げる。
山崎では、昔は初物のキュウリを天王さんに上げてからでなければ食べなかった。また、キュウリを切る時は輪切りにしないで、必ず斜めに切る、という風習があったようだ。
参考書籍(古老が語る 箱根山崎の歴史(山崎の神社と信仰))より」
へーーーっ。
さて、では上がっていきますよ?


あー 電車、通らんかなー。(そしたら 通ったんですよ これが、 とそれは 後の話_)
線路の下を潜ると、

目の前には 石を敷き詰めた斜面が作られていましたがー

これは 山からの水を下の用水路に落とす開渠の一部 なのでした。


開渠と 複雑に折れ曲がる参道と 登山鉄道の線路の 三重奏の様な立体空間、 面白い!

あ 電車だ。


(でも どうせなら 下から見上げたかった~ と思ったら、実は帰りに又 チャンスがー。)
↓高低差の確認(?)



改めて参道を進みます。








段数は数えてませんが 下の説明板によると 作った当所(明治26年)は「118段」だった そうですから 今もそんなには変わらないのではありますまいか。
上がった先_

右手に祭神の名を刻んだ石。

そして正面に 生木に渡された注連縄 そして石の祠。


祠の後ろには 露出した岩。


もしかして古くから守られてきた磐座では?
わからぬまま、ですが 素朴なお参り処で 心が洗われましたー。
ありがとうございました。




で このあと 前田の吊り橋を見に行こうとしてたらー・・・

湯本行の電車が通過しました。


(↑という訳で これは「後尾」^^;)
でもまあ、なんとか ここが現役の線路だという事がわかる絵が撮れ 亭主は満足そうでした。
さて ここ山崎は あまり他地の人には知られていませんが 戊辰戦争の流れの 一部 の 「戊辰箱根戦争」のイクサ場になっています。

旧道が現-一号線と合流するあたりに それを記す碑が置かれています。


↑「山崎ノ古戦場
明治維新ノ際 官軍(←明治新政府方) ・・・
■(於?)テ 伊庭八郎 ・・・
激戦ノ後是(ヲ)撃破セリ
箱根振興會」
(↑ほとんど読めませんが、 文中の伊庭八郎は官軍から見ると敵の 遊撃隊(←幕府軍)側の剣士。山崎の戦いで彼は左手を失っていますが、生き延び その後北海道の五稜郭で自決したといいます。)
↓(5年前の)タウンニュースにこんな記事が_。
https://www.townnews.co.jp/0609/2018/11/16/458052.html
遊撃隊もどんどん分裂していますが 小田原藩も 官軍についたり 幕府軍についたり 又撤回したり と「大混乱」に陥っているのですねー。/ 明治の混沌とした「夜明け前」_ 改めて知って参りましょう。
この後は少し引き返しー

国道の下を潜って 早川の方へー。



つづく (予告/この後は吊り橋を渡ります。)