(つづき)
入生田(イリュウダ)から一夜城のある石垣山(笠懸山)へ上がろうとしている~ 亭主、でございます。
(↑ピンクの花を付けた立ち木は枝ぶりから花桃と思われます。)
(↓法面下には花大根と菜の花・・・)
(↓水仙も咲いていたもようー)
少し行くとー
桜が見えてきた。
(↑オカメ位の色味のものも咲いてますね?)
と この桜の向かいにー
石材が ころり と転がっていたそうです。
↑「運び出そうとした石垣用石材
ここに設置されている石垣用石材は、早川石丁場群関白沢支群の北西側を流れる関白沢の改修工事の際に発見されたものです。きれいな直方体に形が整えられていることから、17世紀前半の江戸時代初期に早川石丁場群関白沢支群から江戸城へと運び出そうとした石垣用石材であったと考えられます。
早川石丁場群関白沢支群の石垣用石材は、平成17~18年(2005~06)の発掘調査で発見された「石曳道(イシビキミチ)」から早川へ至り、早川の河口から江戸城へ「石船」と呼ばれる船によって海上ルートで運び出せたと推定されます。ここに保存されている2石の石垣用石材は、江戸城へ運び出す際に何らかの原因で関白沢に落としてしまい、そのまま放置されたものと推定されます。
小田原市教育委員会」
(「やっちまったなー・・・」みたいな話なんでしょうか^^;)))
えー ここから 暫くは山の北斜面の 暗い道や そこに点在する「石」の絵が続きますー。
(花の絵をご覧になりたい方は 飛ばして 下の方へどうぞ^^;)
ハイカー用の遊歩道が現れたようですね。
味わい深い小径。(でも一人では歩きたくないかもー)
車道の・・・つづらおりの角部分に出たのかな?
カーブミラーもある道ですが 林道 で一般車は入って来ないようになっているようだった~そうです。
↓近くにあった説明板。
↑「発見された 石曳道(イシビキミチ)
平成17~18年(2005~06)に実施された早川石丁場群関白沢支群の発掘調査では、石を割って石垣用石材に加工する作業場の跡のほか、石丁場から石垣用石材を運び出すための「石曳道」が発見されました。
目の前に延びる溝状に窪んだ部分が石曳道で、長さ175mに渡って残されていました。
(中略)
路面は、傾斜角11.8~15.3°、平均13.7°であり、石材の運搬を考慮したほぼ一定の傾斜角となっています。また、路面には、2条の溝が0.67~0.89mの間隔で並行して延びていましたが、写真4のように「地車(ジグルマ)」と呼ばれる石材を運ぶ荷車
の轍(ワダチ)と推定されています。この轍の中には小礫などを混入して地車の車輪がはまらないような工夫もされていました。
このように、早川石丁場群関白沢支群の石垣用石材は、石曳道を利用して江戸城へと運び出されたことが発掘調査によって明らかになりました。」 _だそうです。(へえー こんな所からねえー)
(白状すると 自分で歩いていないので どこが石曳道かよくわからないまま、なのですがー)
道なりに進みます。
道脇に 供養塔?
少し行くと_
矢穴のついた石があったそうな。
「刻印・銘文のある石垣用石材
ここに設置されている石垣用石材は、平成17~18年(2005~706)に実施された早川石丁場文関白沢支群の発掘調査で発見された刻印・銘文が刻まれた21区6号石材で、上麺左端に「+(←正しくは〇の中に十)」の刻印、前面左側に「此左□」の銘文が刻まれてきます。
「+」の刻印は、石を切り出した石工の集団が何らかの目的で刻んだマークであると考えられます。また、「此左□」の銘文は、国指定史跡石垣山(石垣山一夜城)の石垣から発見された「此石可き左右加藤肥後守石場」と刻まれた標識石に類似していることから、同じようにこの周辺の早川石丁場群関白沢支群をどの大名が所有していたのかを示そうとした標識石と推定されますが、残念ながら具体的なことは不明です。
この刻印・銘文のある石垣用石材は、広域農道小田原湯河原千(市道2390)の事業者である神奈川県及びこの場所の土地所有者のご理解とご協力によって移設されたものです。
小田原市教育委員会」
あ、元からここに転がってた石ではなく、教育目的で「設置」されていたものなんですねー^^;)/ えーしかし亭主は 石の表面にマークを発見できないまま その場を後にした・・・模様。
さてその先のー
下の広域農道から上がってくる道が合流するポイントにー
説明板がありました。
↑「早川石丁場群関白沢支群
早川石丁場群関白沢支群は、広域農道小田原湯河原線(市道2390)建設に伴って平成17~18年(2005~06)に発掘調査が実施され、17世紀前半の江戸時代初期に江戸城の石垣用石材を切り出した作業場が27箇所発見されました。また、石垣用石材を運び出すための「石曳道」も発見されています。
石垣用石材は、箱根外輪山の安山岩質溶岩の転石が使われており、石を割るための矢(クサビ)を入れる穴である「矢穴」が一列に彫られています。残された石垣用石材の状態から、矢穴を掘って石材を割る直前の場所から、成形された石垣用石材が運び出されている石の破片だけが残された場所など、様々な作業場が発見されています。
また、石垣用石材には、石工の集団が何らかの目的で刻んだ「八」・「±」・「+(←正確には〇に十)」・「〇に寸」・「□の右 内側に短い横棒」の刻印が残されているものが数多く確認されました。
されに、発掘調査の21区6号石材には「此左□」の銘文が刻まれており、この周辺の早川石丁場群関白沢支群をどの大名が所有していたのかを示そうとした標識石と推定されます。現在は、ここより西側へ行ったところに移設されており、見学することができます。
このような矢穴や刻印が認められる石垣用石材が、北東の史跡石垣山(石垣山一夜城)西側斜面から南西の小田原湯本カントリークラブゴルフ場までの面積約20ha、標高90~280mの広い範囲に分布しています。
なお、ここから降りたところにある箕ヶ窪橋(ミノガクボハシ)の下には、発掘調査の10区である石垣用石材を切り出した作業場が現地保存されており、見学することができます。」
ほー ここを下りていくと その「現地保存」されているという作業場跡が見られるんですな?
_という訳で 広域農道の下を潜る道を 降りる事にした 亭主。
う・わー めっちゃ地味
だけど 見応えありますねー!
(↓広域農道の桁橋の 「下」です。)
説明板。
↑「保存された石丁場
発掘調査の10区にあたるこの場所は、広域農道小田原湯河原線(市道2390)建設に伴う発掘調査によって最も規模が大きく保存状態も良好な石丁場であることが明らかになりました。このため、事業者である神奈川県が橋を架ける設計に変更し、現地に保存されることになったものです。
ここでは、安山岩の転石を割るための「矢穴」が一列に彫られて割る直前の状態の石材(①)、目的とする大きさに割る作業途中の石材(②)、形を整える加工が行われている石材(③)、石垣用石材として整形済んだ石材(④)が場所ごとに別れて確認されており、この10区で石丁場の一連の作業を観察することができます。
石垣用石材は、縦1mx横1mx長さ2~3mの大きさに整形しようとしているようです。また、石を切り出した石工の集団が何らかの目的で刻んだマークであると考えられる刻印は、「八」・「〇に十」・「〇に寸」が確認されています。
このように、つい昨日まで作業を行っていたような生々しい状況が目の前に展開しており、切り出し作業の行程がとてもよい状態で残されていることから、石丁場を理解する上で極めて重要な場所です。」
↑む~ん、石の加工 について知っている人が見ればそうなの・・・でしょうね^^;)))
と_ それはともかく、こんな場所が 歩けた という事に驚かされます。/自分で歩くのは大変ですが こうして「なんちゃって」 なバーチャル高低差体験 は 楽しいなー。(歩いてくれた亭主に感謝^^)
引き返しております。
(↑桁の裏も よく見ると面白いですね。)
↑広域農道への出入口。
↓振り返って見たところ_。
(↑改めて、橋の名は「みのがくぼはし」です。覚えましょう^^)
戻って参りましたー。
引き続き、一夜城目指して歩いていきます。
遊歩道は広域農道脇の歩道に合流ー。
ん?
↑あ、すぐ横をターンパイクが走ってるんですね。
↓広域農道が ターンパイクの上 をまたぎ越すポイント。
↑箱根方向。
↓小田原方向。
因みにここは「姫ノ水橋」、ですって。(名前の由来は何でしょうね?)
一夜城まであと200m。
↓左手に ふしぎに うねくねした大木が。
「スダジイの古木」です。
↑シイの実は 昔は「食料」だったんですねー。
こういう事は覚え、伝えていきたいものですね。
さて その先の三叉路はー
直進です。
(右の道はまだ造成中の個所があって 通行止めですしー。)
道なりにいくと 緩やかな下り坂になります。
桜 椿の木が現れます。
石垣山 一夜城に到着、です。 / 一旦ここまで。
(撮影日3/22-水)