江川邸(韮山(ニラヤマ)役所跡) | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

花粉症がひどく家から出られないので・・・
撮り溜めシリーズ(?)_ 勢いで(?)去年の話です。(花の絵を貼るのを優先していて 花以外 をUPし損ねておりました)

函南(カンナミ)で桜を見た後ー


江川邸(韮山役所跡)へ行ったのです。

(↑運悪く 屋根の葺き替え工事中だったんですけどねー・・・)

へー 韮山代官江川氏の居宅が『西郷(セゴ)どん』で「島津家屋敷」にねえー。


↑こんな感じだった模様。(『篤姫』の生家もここだったのねえー)

受付で_

韮山反射炉との共通券を求めます。


受付向かいに「枡形(マスガタ)」と記された板と説明板。


枡形
 枡形と呼ばれるこの広場は、江戸時代に代官が外出する際、人数を揃えるのに使われていました。幕末には、農兵の訓練場としても利用されたと伝えられています。

 農兵の訓練には、「右向け、右」「気をつけ、前へならえ」などの『鋭音号令(エイオンゴウレイ)』が用いられました。現在でも使われているこれらの号令は、西洋式の軍事訓練におけるオランダ語の号令を江川英龍が翻訳し、日本人にわかりやすいように工夫した物です。

 (へー)

_時に「枡形」というからには 元々はお城の虎口式の枡形構造になっていたのかしら?(それとも 今ある通りのフラットな造りだけど、名前だけはお城風に枡形として、たのかなー?)

そばの説明板。

重要文化財江川家住宅
 江川氏の遠祖宇野氏は大和の国に住む源氏の武士であったが、保元の乱(1156)に参戦して破れ、従者十三人と共にこの地に逃れて居を定めたと伝えられる。現存の家屋の主屋は室町時代(1336-1573)頃に建てられた部分と、江戸時代の初期頃(1600年前後)に修築された部分とが含まれている。この主屋は昭和33年(1958)に国の重要文化財の指定を受けた。同35年より文化庁、静岡県及び韮山町の協力を得て解体修理が行われ、文化十四年(1817)に行われた大修理以前の古い形に復元された。 又その際に茅葺だった主屋の屋根は現状の銅板葺きとなった。
 江川氏は徳川時代初期より幕末に到るまで代々徳川幕府の世襲代官を勤めた。その中で幕末の江川英龍は体制側にありながら革新思想を持ち、農兵の組織、大砲の築造、品川台場築造の計画等をすすめたことで知られている。昭和四十に念に財団法人江川文庫が説陸され、重要文化財および代官所記録の維持管理にあたっている。
 (後略)

門の先へ_。


んー 外観 よくわからないー。


玄関から上がります。

ここに住まい 江戸の最初から終わりまで伊豆の代官職を務めていた江戸川家は_ 実は元々小田原の北条家に使えていた家だといいます。(→詳しくはこちらを)/ 困難な時代を乗り越え 江戸時代は質素倹約に励んで平和な時代を過ごし_ そして幕末には 日本に来た米国人と会見し、その後は大砲製造のため韮山反射炉を完成させた~ んですね。//反射炉を作った時代の当主-江川英龍の話は、戦前は教科書に載っていたそうで 誰もが知っていたそうですが、私達は ガイドさんから そうと聞かされても「へー」と間の抜けた声しか出せず、大変恥ずかしゅうございました。


(↑左は韮山竹の花入れ。/小田原攻めのおり秀吉に随行した千利休が 韮山竹で作った花入れ「よなが」が有名になり、韮山竹は茶人好みの竹 として今も評価が高いそうなー。// 右は江川家の紋のついた瓦。敷地内にある井戸、が紋の意匠の由来とのこと。)

江川英龍の業績_。



↑「世直(し)江川大明神」 とまで言われちゃってますー。
_と こんなお代官様の趣味は~
↓絵を描く事、だったそうな。



(↑ほぼ「百科事典の絵」レベル。)
↓こちらは 下田に来たアメリカ人との謁見のため新調したという袴。(いやー歌舞伎役者だってこんなキラキラしい袴ははきませんヨネ)上には・・・陣羽織を羽織られたんでしょうか。 キメルべき時にはキメル方だったようです。

↑因みに、左下の写真にあるのが英龍様がいつもお召しになっていたつぎはぎだらけの袴。(袴と脚絆が一体化した「たっつけ」ですね? / ま、これで謁見は・・・ナイでしょうねー。)

台所も見せて頂きましょう。

長い炉。

(↑必要に応じて五徳を並べられそうですね? 脂や汁が垂れてもOKだし 意外に使い勝手良かったのかもー。)
↓土間の上は高い天井。


一度出て 裏手へ回ります。



垣の向こうは梅畑。

でこれが・・・ なんと!「役所跡」なのでしたー。。。(なんとなく ソロバンの達者なお役人が 質素な着物でパチパチしてたんじゃないかなー と想像ー)

役所跡
 韮山代官所の役人が執務した建物のあった場所。江川邸の周辺には、他にも役人たちの住む長屋や番人小屋、厩、牢屋など様々な建物があり、代官役所として一体的に機能していました。維新後も、明治時代の中頃まで、韮山県庁(なんと 小田原も韮山県、でしたー!)→足柄県韮山支所→静岡県韮山出張所として地方行政を担っていました

↓これは・・・?

井戸です。(大きい!)


江川家の井戸
 江戸時代以前に彫られ、名水が出、生活用水とともに、醸造にも使用されたと言われる井戸です。
 舌の写真は、明治時代の状況がよく残されており、はね釣瓶(竹の弾力を利用したもの)に時代の特徴が見られます。
 なお、江戸時代の唐家の家紋(井桁に菊/パっと見橘に似てますが「菊」だそう。)からも この井戸の価値の高さが推測されます。 なるほどー。

(↑江川家の家紋。/ もっともこれはこの後行った菩提寺で撮ってものなのですけどー)

その奥_
山側に蔵。

↓右が「北米蔵」だそう。


中には武器が展示されていました。


↑上に貼られているのは砲身の設計図かしら?
↓右は反射炉の・・・ 右は耐火煉瓦のようですが 左の 箱の鉱物は何だろう?(実は元画像が無くて 拡大して確認できないんですよー・・・)

↓南米蔵。


↓その先に「西蔵」(肥料蔵)。



西蔵
 幕末頃の建築で、正面から見ると将棋の駒のような形をしていることから「駒蔵」とも呼ばれています。 また、四方の壁が内側に向かってわずかに傾いた「四方ころび」といわれる技法で建てられています。軒の屋根が瓦ではなく伊豆石が葺かれているのが特徴です。
↓そしてこちらは 武器庫。

「おや 見かけない顔だね」とでも言ってるみたいな 上から目線の猫・・・。

(↑西蔵前、かな?)

・・・ おぢゃましました。。。
北の「裏門」から出ます。

そうそう、江川英龍さんの業績で これも忘れちゃならない_。「パン祖」。

↑「パン祖 江川担庵(タンアン←英龍の号)先生邸」/ この碑は幕末に軽くて日持ちのする兵糧として西洋の「パン」に目をつけ 手代を長崎に送ってパン作りを学ばせた江川英龍さんを顕彰するもの、なんですねー。

館内で ガイドさんからも話は聞いたのだけど 白状すると今ひとつピンと来ていません・・・。/ この後行った韮山反射炉の売店で売られていたので 買いましたよー。

↓こんな物、でした。

パンというよりは分厚く硬ーいビスケットって感じ、かな?正直美味しくはないのだけど 常温で長く保存できしかも軽く・・・ あの当時の兵糧としてはかなり賢い物だったはずです。

↑「パン祖のパン
 江戸時代日本で初めて焼かれたパンはこれ!!
当時は湯茶等に浸して食したそうです。」ですって。

(航海用のパンのように、二度焼きして水分を飛ばしたのもの、かなー?/ 普通のパン も焼いて食べたのかしらー?)

_この後は 江川家の菩提寺の方へ 行ってみております。/ つづく