
道脇の説明板。

「鴫立庵
1664年(寛文4年)小田原の崇雪(ソウセツ←アド街では「外郎家八代目の弟」と紹介されていたそうなー)がこの地に五智如来像を運び、西行寺を作る目的で草庵を結んだのが始まりで、1695年(元禄8年)俳人の大淀三千風(オオヨドミチカゼ)が入庵し鴫立庵と名付け、第一世庵主となった。現在では、京都の落柿舎・滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つといわれている。崇雪が草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建てたが、その標石(の裏面に)「著盡湘南清絶地(アア、ショウナン セイゼツチ)」と刻まれていることから、湘南発祥の地として注目を浴びている。
(補足/ 湘南は中国の風光明媚の地「瀟湘」と「(洞庭湖)湖南」から一時ずつをもらった~とされているそうな)
心なき 身にもあはれは 知られけり
鴫立つ沢の 秋の夕暮れ(西行法師)」
_白状すると よくわからないまま、なんですが 西行の有名な歌「鴫立つ沢~」のそばに西行を偲ぶ寺を建てようとなさった 小田原の崇雪という方がここで「ああ湘南は(人里を離れ 清々とした)素晴らしい所だ」みたいな感嘆の言葉を石に記されたので ここが湘南のそもそもの地、という事、_らしいです。
(+/ 湘南 については他にも色んな説がー)
さて、では 西行の歌にもある「鴫立沢(シギタツサワ)」に架かる橋を渡りましょう。

↓「石橋」という札が立ってますけど 普通名詞なのか 固有名詞なのか・・・?

橋から見た鴫立沢 上流側。


下流側。


(沢の流れが自然石を穿った美しい形状を造っている箇所は この少し下流。/ 後で撮りに行きます_)
門を潜ったら右手の受付で入場料を納めます。



(↑受付前の土間の天井。/ 屋根は最近葺き替えられたのかな? まだ新しそうですね?)
敷地内の散策へー。



(↑鴫立庵は建屋自体も素敵。/できたら室内も拝見したかったけど 冬だからでしょう、障子は閉まっていました。 夏来た時は障子開いてましたからー↓
https://blog.goo.ne.jp/numabe3/e/4fea69d34176d0d98d4d29e8d0fdeef6)
沢側にー

説明板。


「大磯町指定有形文化財
鴫立庵
大磯町指定史跡名勝天然記念物
鴫立沢
昭和58年7月1日指定
現在、鴫立庵内には 鴫立庵室、俳諧道場、円位堂、法虎堂、観音堂があります。庵室については大淀三千風(オオヨドミチカゼ)(1700~1750)が建てたもの、俳諧道場については三世庵主鳥酔(チョウスイ)が明和二年(1765)に増築したものと伝えられていましたが、調査の結果鴫立庵の基礎部分は江戸時代のもので、他の建物は江戸時代以降に建てられたものと考えられます。
鴫立沢には西行法師が鴫立沢を詠んだ地という言い伝えが室町時代よりありました。寛文四年(1664)崇雪がこの地に草庵を結んだ時に鴫立沢の標石を建て、その標石に《著盡湘南清絶地》と刻んだことから、《湘南》の名称発祥の地として注目されています。
平成22年3月
大磯町教育委員会」
南の 一段高まったエリアへ。

左に法虎堂。

手前に碑文。

「東鑑曰(アヅマカガミニイワク)
建久四年(1193)6月18日
故曽我十郎、妾大磯虎(オオイソノトラ)雖不除髪著黒衣袈裟 迎亡夫三七日(ミナヌカ)忌辰(キシン)於箱根山行實坊~・・・」(詳しくは吾妻鏡6/18の段をー)
法虎堂内には 吾妻鏡にある通り 有髪(ウハツ)なれども黒ずくめ の19歳の虎の座像が。

↓説明板。

↑「法虎堂
初代庵主である大淀三千風が在庵の頃、江戸新吉原からの寄進により建てられたと伝えられるお堂です。
お堂には、仇討ち物語として有名な「曽我物語」の主人公である曽我十郎の恋人、虎女の十九歳の姿を写した木造を安置しています。
大磯の遊女として有名であった虎女は、十七歳で十郎と出会い、恋に落ちましたが、十郎は父の仇討を遂げた後、命を落としました。悲しんだ虎女は箱根山で出家し、生涯にわたり各地に寺社を巡礼し曽我兄弟を弔ったといわれています。」
鴫立庵の南の縁つきの座敷。

HPの建屋見取り図によるとここが「俳諧道場」なのだそう。

部屋の南に「湍琴律呂」と書かれた額。


沢の水音がまるで琴の調べのよう~ (かな?)

(↑上の額の文字は「俳諧道場」)

(この一室だけでも 障子を開け放ちにして下さってて よかったー。)
道場の南に「円位堂」。

↓軒下の額、うっすらですが「圓位堂」と読めます。

中には西行(1118-1190)の座像が納められていました。


(↑晩年の西行、かなあ?)
↓説明板。

「円位堂
円位堂は、初代庵主の大淀三千風が元禄時代に建てたままのもので、平安・鎌倉時代の代表的な家人である西行法師の等身大坐像を安置しています。
西行の俗名は佐藤義清。22歳の時に出家し、円位と名乗りましたが、後に西行と改めました。このことに因み、円位堂とされています。諸国をめぐる旅の中で大磯を訪れたとされ、『新古今和歌集』において「三夕の歌」と呼ばれるうちの一首を詠みました。
心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ (ものの情緒を感じる心を絶った出家の身にも、しみじみとした情緒はおのずから知られることだ。鴫の飛び立つ秋の夕暮れよ)」
その先には 敷地の縁を回る小径に沿って 歴代庵主の句碑が並んでいました。




↑左の建屋は「茶屋」との事。(茶室じゃなくて?)
↓茶屋の裏手に「観音堂」。

道なりに行くと_


「五智如来」が並んでいました。

釈迦・阿弥陀・大日・阿閦(アシュク)・宝勝の五如来の座像。/ 創立者-崇雪の元々の構想は この「五智如来」を本尊として祀る「西行寺」を建立する事だった と言います_。

(そうと聞くと露座でいらっしゃる事がなんだか申し訳ないような・・・)
あ、これが「鴫立沢標石」(の複製/オリジナルは「郷土資料館」に。)です。

↓脇の説明板。

(先に打った文とWりますが 写します。
「湘南発祥の地 大磯の由来
崇雪と言う人が寛文四年(1664)頃 西行法師の詠んだ名歌
「こころなき身にもあはれは知られけり 鴫立澤の秋の夕暮れ」と慕って草庵をここに結び標石をたて 東海道を往還する旅人に鴫立澤を示し 「著盡湘南清絶地(アア ショウナン セイゼツチ)」と景勝を讃えて刻んだのがはじめです
中国湖南省にある洞庭湖のほとり湘江の南側を湘南といい大磯がこの地に似ているところから 湘南と呼ばれるようになりました」
石段を下ります_。

鴫立庵の裏手(西側)が見えます。



角を回ると_


「一本足の蛙」が見えてきました。



鬼太郎に出てくるキャラクターか何かのようですが・・・







これは「蛙鳴蝉噪(アメイセンソウ)の蛙」というオブジェなんですー。
↓説明板。

「蛙鳴蝉噪の蛙 オブジェ
鴫立庵の歴代庵主の中で、大磯出身である第15世の原昔人(大正15年入庵、在庵4年)という人物は、俳人であると同時に鋳金家でもありました。
「蛙鳴蝉噪の蛙」オブジェは、その原昔人が、自ら鋳造して、当時親交の深かった俳人正岡子規に贈った高さ7センチの蛙の置物を、高さ1メートルに拡大復元したものです。
正岡子規は、原昔人から贈られた蛙の置物に対して歌を詠んでいます。
「蛙鳴蝉噪 彼モ一時ト 蚯蚓(ミミズ)鳴ク」(蚯蚓鳴く は秋の季語で秋の夜聞こえる土中の螻蛄(ケラ)の声。)/ やかましい夏の蛙鳴蝉噪も一時の事・・・。
晩年、病床にいることの多かった正岡子規は、この蛙の置物を見て、元気で覇気に満ちていた自分の姿を思い浮かべ、実際に蛙や蝉が勢い良く鳴いている声まで聞こえてくるような感覚にとらわれました。しかし、はっと現実にかえれば今は秋で、耳をすばせば土の中から「ジー」と切れ目なく鳴く蚯蚓の声が聞こえてきます。蛙や蝉がやかましいほどに鳴くのは命の営みであり、その時期が過ぎれば「死」が待っていて、その「死」に対するわびしさを子規は「蚯蚓鳴く」に託しました。
蚯蚓は実際には鳴かず、この声の主は螻蛄(オケラ)でありますが、「死」に裏打ちされた「生」のありようを「蚯蚓鳴く」という空想の季語によって滑稽味のある句として詠んでいます。」
なんじゃこりゃ と思ったヘンテコな蛙も 子規の歌まで知ると 可笑しみだけでなく 哲学的な姿 と見えてきますね・・・。

「ありがとうございました」
庵の敷地を出て、改めて沢を見に行きます。

沢の道の手前に石碑。

↑「湘南発祥之地 大磯」
↓その隣の説明板は・・・ 平成八年に立てられた物というのに字が読めなくなっておりました・・・ が、敷地内で見てきた説明板と同じく崇雪の「著盡湘南清絶地」という句が紹介されている・・・ようでした。

一号線から南へ分かれる道に架かる橋_。



ここから沢を見るとー・・・


↑柱状節理? のような岩を 水の流れが不思議な形に削っています。
本当はこの流れを海まで追えばよかったのでしょうがー・・・
「コインパーキングがー」と亭主が言うので 走って駐車場へ戻ったのでしたー。。。/ おしまい。
<おまけ>
この辺りで見たマンホールの蓋類。


