明治記念大磯邸園 工事中・・・ | おだわらぐらし

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縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

では「明治記念大磯邸園」へ_。

ここは 明治時代に 西園寺公望 伊藤博文 大隈重信 陸奥宗光など 「錚々たる顔ぶれ」 のみなさんの別邸が立ち並んでいた 海を望む別荘地跡。今は東半分の 大隈邸跡 陸奥邸跡 周辺のエリアしか公開されていないのですがー 行ってみましょう。

↓因みにこれは 「蒼浪閣前」交差点南の 西園寺公大磯別邸。

↓その東に旧・蒼浪閣。(伊藤公の別邸、李王家の別邸、となり 近年は「大磯プリンスホテル別館滄浪閣」となっていました。)



(↑この建屋には中華レストランが入ってましたよね? 行ったことはないのですがー)

マンションの敷地(←佐賀藩主鍋島家の別邸跡)を挟んでー

その先が 公開エリア、です。

ところが、

ここまで来てわかったのですがー


公開エリアの建物は現在「修復中」で 囲いの中 だったのです! 館内の見学はできなくても 庭からは邸宅が眺められる と思って来たのに・・・。

が、入口の案内人さんが
「もうし訳ありません」と言いながら近寄ってきて
「建屋は修復中なのですが ”ジャッキアップ”中の様子をご覧いただけるのは 今だけ です。よろしければどうぞー」と_ 見学をすすめるので・・・、 それじゃあ と敷地内に入りました。

(↑なんと 修復作業は「公開イベント」だったのです。)


(せめて、と? ゲイト前の梅を撮る)

↓旧・大隈重信別邸の西脇を通ります。



おー なるほど、「持ち上がって」ますー。





(↑建屋西の大隈邸玄関部分。館が西向きに建てられていた理由は 西側にある現在マンションになっている箇所が 大隈家が仕えてきた「佐賀藩主鍋島家」の別邸だから だそう。)
↓説明板。

(明治30年に大隈家の別荘として建てられていますが 明治34年には古河家(古河財閥)の手に渡っています。という訳で「旧古河別邸」でもある、んですね。)


_修復なったら 改めて来てみねば。

建屋南の庭へ出ます。


尚この松林は 元々はなく、邸宅ができてから砂防林として植えられた~のだそうです。という訳で 木が小さかった頃は 砂を抑えつつ 海の眺めも確保、できていたようですが このように松が育つと「海が見えない」状態に。(元の眺望を取り戻すために 松を切るか、 でもそうすると 建屋が砂まみれに・・・。んー むつかしいー)

庭に ぽつ と置かれていた五右衛門風呂。


↑説明板によると_
これは大隈邸の南20mあたりにあった四畳半位の「浴室と離れ」跡地付近から掘り出されたものだそう。(明治22年の襲撃事件で右足を失い義足で暮らしていた大隈さんは ここ大磯で「海水を温めた風呂」に入って療養をしていたといい、 この五右衛門風呂はそのために使われたものである可能性もあるといいます。)

大隈家別邸 東側。




東へ向かうとー

大隈家の東隣 陸奥家の果樹園。





↑「旧陸奥別邸庭園・旧古河別邸庭園」と書かれた看板。(←大隈家別邸と同じく、ここも古河家の物になっているのです。/ 余談ながら東京北区の陸奥家別邸も後年古河さんの物になってますよね。古河家、どんだけー)
↓庭の向こうに建屋。


ここもジャッキアップしての修復の様子が見学できるようになっていました。



説明板。


↑なんと!明治29年に「陸奥宗光別邸として建築」されていますが、翌「明治30年に古河家が陸奥の死に伴い取得。/大正12年、関東大震災で大破。以前の建物は足尾銅山(←古河家の持ち物)の柏木平へ移設。/昭和5年古河虎之助が別邸として再建。平成30年まで古河電工の迎賓館として使用~・・・」ですって! (余談ながら、陸奥さんは結核を患っておいでで 「晩年は大磯の別邸で過ごすことが多かった」_、そう。)

庭を海の方へ歩いてみます。


_途中 こんな場所が。

「相撲土俵跡」ですって。

(↑右から9人目という古河家三代目当主虎之助さん。上背もあり イイカラダしてますねー。)

↑このすぐ先にー
↓隈研吾デザインという東屋がありました。


(↑不思議なバランスの悪さ?が面白い。)

東屋の南は 西湘バイパスが走っており その向こうに青く光る相模湾が見えました。

当然昔は このまま たらたらと浜へ下りられたんでしょうね? (修復工事のついでに もうイッチョ ここから浜への降り口も作ってもらえないでしょうかー・・・)))

時に この邸宅群の南「古河緑地」は 令和元年に「明治150年」を記念して 古河電工から大磯町に寄付されたのですって。

古河さん ありがとうございます。(バラバラの切り売りにならなくて よかったー)

戻りましょう。


大隈邸と陸奥邸の間に・・・

バラ園がありました。

バラといえば北区の古河邸(ジョサイア・コンドル設計)が思い出されますがー

ここのバラ園も 北区の本邸(文中に「(豊島区)駒込」とありますが、住所は北区西ヶ原)ができた大正6年から8年頃に造られた~ そうです。 へー。

ありがとうございました。


(↑西隣のマンションの敷地との境は こんな感じー)

↓一号線側に出たところ_。

↑黒い柵の向こうは 東海道の松並木の保存区です↓。

↓更にその向こうは 国道一号線の下り車線。


東へ向かうと 大磯中学裏に出ます。(そうそう、大磯中学のある場所には 元々は山形有朋邸が建っていたそうですー。)

↑斜面地にはOISOの文字を模った植え込み。

更に行くと_

上方見附跡。


道の縁に石垣の跡のようなものが見られます。
この並びにも 元々はお屋敷が建っていたのかしら・・・。


アートギャラリーの前ではー

大根が売られていた_。


ここはあの「翠溪荘」の門_


(一般人は立ち入れませんー)))

さてその先~・・・

フェンスに不思議なレリーフがついています、よ。

↓天を仰ぐ一本足の蛙!


では このレリーフの元のオブジェを見に行ってみましょうー


鴫立沢のそばに建つ 鴫立庵(シギタツアン ←江戸時代の俳諧道場)へ。

_つづく。