では国道一号線南側の「旧吉田茂邸地区」へ。
案内図。(右が北)
趣ある門の周辺には 梅が沢山植えられていました。
(この平成21年(2009)の火災での焼失を免れた兜門は サンフランシスコ講和条約締結を記念して昭和29年(1954)に建てられたもので、「講和条約門」とも呼ばれているそうな。)
(↓門から覗いた内の庭)
(↑内側から見た門。)
(門の中にも梅がー)
↓奥に見えているのは「サンルーム」
↑これも平成21年(2009)の火災を免れた建屋ですが 残念ながら「耐震上の問題から人が入ることはできず(中略)外観保存」されているそうです。。。
そうなんです、覚えておいでの方も多いと思いますが 吉田茂邸は「原因不明の出火により焼失」したんですよねー。すぐに再建を望む声が沸き起こって ほぼ復元 され、平成29年(2017)からは「郷土資料館 別館」として公開されています。
ではお宅を拝見しましょう。
(↑サンルームの右の大きな窓のある所は、後で知る事になりますが 食堂「ローズルーム」です。)
(↓階段の上が 玄関。)
では 館内へ。
(復元とはいっても 当然現在の耐震基準を満たす設計施工で バリアフリー化もされています。又 あえて「復元されなかった」エリアもあります。 )
玄関。
↓説明板。
↓中庭。
(↑説明板によるとこの「光庭」には 擬宝珠の他「イタリア大使から寄贈されたオオシャコ貝」が飾られていたそうです。)
↓館内案内図。
↓玄関南の 楓の間 (応接室)
庭。
階段で二階へ。
二階は和風で プライベートな空間 のようでした。
↓「書斎」の説明板。
↑「吉田茂の私室です。この2階部分は、限られた身内以外は許可なく入れない吉田の私的な部屋でした。
堀り炬燵がある四畳半の空間は、吉田の書斎として使われていました。堀り炬燵の向かいにあるガラスの棚下の地袋には、吉田邸から首相官邸を直接繋ぐダイヤルのない黒電話が置かれていました。また、北側には舟形の風呂があります。この風呂の作成には、大磯の船大工が関わったといわれています。」
(↑この堀り炬燵の部屋に ここと「首相官邸」を直接繋ぐ黒電話がー・・・。/へー。)
↑床の掛け軸には 素淮(ソワイ←吉田茂の号。イニシャル「SY」のもじり、とか)書 とあります。吉田茂の肉筆のようですね。
↓南の角の縁。
↑日当たり、眺め、よさそうー。
↓北のお風呂。(舟形の湯舟^^)
一階廊下の角に 不思議なオブジェが二つ。
↓キューブになった「バカヤロー解散」の「バカヤロー」~。
↓吉田さんのあだ名「白足袋」・・・。
一階南の「礎石広場」
ここは 大正~昭和20年代まで母屋として使用されていた 旧館棟 と呼ばれた建物があった場所、 との事。
展示室を抜けてー
↓一階北の「ローズルーム」と呼ばれる食堂へ。
↓説明板。
「食堂として使用されていた部屋で別名ローズルームともいいます。アール・デコ調の室内が特徴です。
吉田茂は毎年外務省に新しく赴任した外交官補たちを大磯の家に招待していました。写真では、この食堂で吉田が外交官たちをもてなしていた様子がうかがえます。」
ローズルームの西の窓からは 隣に建つ「サンルーム」の様子も少し見えました。
かつては渡廊下で結ばれていたというサンルームですが、 上で打ちました通り 今サンルームは安全上の理由で立ち入れないのでー
かつてブーゲンビリアなどが育てられていた様子などは 想像するしかー・・・。
ローズルームの上には 居間である「金の間」とー
(↑西正面に 大磯プリンス。説明板によると右には富士山も見えるそうな。)
(↓南には相模湾。)
その北の寝室_「銀の間」がありました。
(亡くなったのも銀の間だった、との事_)
(↑銀の間 隣の浴室。)
館の外も歩いてみましょう。
建屋の南を通って東側へ。
(↑二階の張り出しは 書斎の南東の縁側、かな?)
(↑建屋の南には 石垣が築かれていました。)
建屋の東はー・・・
不思議なテイストの斜面地でした。
↓山肌に「横穴」が見えます。
昔の墓でしょうか?
これより先には立ち入れませんでしたし 説明板もなかったので わかりませんでしたが・・・ 一号線を挟んで北にある「三井別邸地区」に横穴墓がいくつもありましたから、南のここにも似た物があってもおかしくはありませんよね?
さっき建屋内から見た「礎石広場」を 東側から眺めています。
(↑かつての母屋跡、との事でしたね?)
さて 戻りましょう。
ありがとうございました。
さて、敷地を出る間際に知ったのですがー、
この敷地内に「国登録有形文化財」として登録されている建屋には、 「兜門」と「サンルーム」の他「七賢堂」というものがあったのでした。元は伊東博文邸-滄浪閣にあった小さなお堂、との事ですが・・・
見損ねました。残念。(また いつか)