佐原散策-5 小野川沿い(忠敬橋~樋橋) | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

では↓忠敬橋(チュウケイバシ)を南へ渡りー、

小野川に沿って歩いてみます。


角に建つこのお店は「中村屋商店」さん。

↓三階建ての土蔵は雑貨屋さん。


↓見せて頂きましょう。

↓母屋(店舗)側から入ります。

↓説明板。

↓ここからが 土蔵 ですね?

写真も撮らせて頂けました。


目移りしちゃうー。
↓この干支の柄の手ぬぐいを頂きましょうかね。


女将さんに「是非上の階も見て下さい」と言われ 上がらせて頂きます。

↑階段。↓二階部分。

↓三階部分。


おー これはー、、、



うーん、一枚の和紙から織り出した連鶴なのに ぼけぼけでぶれぶれです_ 折角の力作を拝見しながら 女将さん、ごめんなさい。(えーと女将さんのお父様の作品、になるんですかね?)

(+/↑右の「ANTIQUE ANTIQUE」は 女将さんの息子-並木一茂さん(←中村屋商店6代目)がシェフとして腕を振るうイタリアンのお店。因みに並木一茂さんは「カーザ・アルベラータ」というお店も経営なさってます。人気店で「予約とれなかったんですよ」と女将さんに申し上げたら「あら残念。本当に美味しいので、是非又の機会に」と言われましたー。「はい^^」)

あー 深い世界でしたー。



蔵の並ぶ川沿いの道を南へ。(これ以降には 午前中に撮った絵が混ざっています。陽が 右岸に当たっていたり 左岸に当たっていたりしますが 御容赦を。)



↓舟めぐりの舟。後で乗ってみましょう。




木の橋。


樋橋(トヨハシ)、だそうです。(このエリアでは樋(トイ)を 「とよ」 と呼ぶようですね?)

別名「じゃあじゃあ橋」

元は「江戸時代の前期につくられた佐原村用水を、小野川の東岸から対岸の水田に送るための大樋(オオトヨ)」だったそうです。もっとも、今の橋は観光用に作られたもので「30分に一度落水させている」のですって。


この橋の東側に佐原の偉人-伊能忠敬(イノウタダタカ)の「旧宅」があります。
見学しましょう。

↓見取り図。

(↑帳場にあった図なので 現在地は「帳場」になっています。)
↓川に面してある 門。




↑門から敷地内に入って 中庭から改めて家の中に入る~ という造り。
↓ここは炊事場。(忠敬さんがここを象限儀(ショウゲンギ)置き場にしていた訳ではなさそう^^;)

↓帳場。

座敷側。



前庭から建屋を見てみます。






忠敬さんは佐原の大ダナの当主、とはいえ 養子に入られた身。しかも 妻は四歳年上で 先夫との間のには男の子が一人いたとそうな。 好きな事ができる「隠居」になるまでには 沢山の苦労があったと聞きますー、 ここでどんな暮らしをなさっていたのでしょうね?

おいとましようとしてー

敷地の北にあったパネルに気づいた。

↑へえええー「国宝 伊能忠敬関係資料 2345点」!!!
「伊能忠敬(1745~1818)は上総国山辺郡小関村(現、九十九里町)に生まれ、17歳で佐原村(現、香取市)の伊能家に婿入りし隠居後、寛政12年(1800)から文化13年(1816)にかけ10次にわたって測量隊を統率して日本全国を測量し、国土の形状とその地球上の一を最初に図示しました。本資料群は地図・絵図類、書状類、典籍類、器具類からない、忠敬の学問、地図制作の具体的方法のみならず、生涯の事績を多面的に伝えるものです。その一部は、伊能忠敬記念館で公開しています。」
「史跡 伊能忠敬旧宅
旧宅は、伊能忠敬が17歳で伊能家に婿入りしてから隠居して江戸に出る50歳まですごしていたところです。店舗、母屋(炊事場、書院)、土蔵から構成され、店舗、土蔵については忠敬が伊能家に婿入りする前から存在していた建物と思われます。」

では 川向うに建つ「伊能忠敬記念館」へ行ってみましょう。

(↑旧宅土間から 記念館方向を見たところ_)

(↓旧宅前が舟着き場)

樋橋(じゃあじゃあ橋)を渡った先がー



↑記念館でした。

入館します。

山車会館との共通券を購入。

中は~ すごい すごい すごい でした。

(絵的には地味なのだけど とにかく内容が濃く、当時の測量技術の高さ 伊能さん個人の資質能力の高さに 驚き 感動しました。)
お時間ある方は どうぞ公式HPの動画をご覧ください。
https://www.city.katori.lg.jp/sightseeing/museum/contents.html

館内の「撮影可能エリア」の写真を貼ります。


↑伊能図は一日にしてならず。
↓17歳で婿養子となり 好きな学問を諦めざるを得なくなった辛さが綴られている手紙・・・


↑しかし そう言いながら 隠居する前から沢山の漢学の本を買っているー^^;)

伊能さんは早く好きな学問をしたくて 40代から地頭所に「隠居願い」を出すも なかなか許可してもらえなかったそうです。(これには忠敬が有能であったから という説も。)

やっと念願叶って自由に学べるようになると 江戸の深川へ隠居場を作り 浅草にあった幕府の天文方暦局を訪ね 十九歳も年下の高橋至時(ヨシトキ)の門下生となって 測量と天文観測を学び、隠居場に天文台を作って~!!! そして 更に そこからあの「測量人生」を始められたんですねー。/ ふー。

そうそう、これは ハズせない資料。「間宮倫宗(マミヤ トモムネ)に贈る序」。

(↑忠敬が間宮倫宗(=林蔵)に贈った言葉。)

(↑現代語の要約文。)
1800年、55歳の伊能忠敬は測量のため訪れた蝦夷で 村上島之丞の従者で まだ20歳だった間宮林蔵と会っているのですが 二人の間には非常に強い親しみと尊敬の気持ちが湧いたようですね。 別れに際し「一言頂きたい」と言う間宮林蔵に 忠敬が贈った激励の漢文がこれ、 だそうです。

伊能忠敬は 自分の測量をのみ信じる ちょっと頑ななところがある人だったといいますが、そんな彼も (自分が指導した)間宮林蔵の測量データは信用し、北海道の地図を作る際 使った、といいます。
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG1803L_Y4A810C1CR8000/
(↑最近では 北海道全域の測量データは間宮のものを使った可能性も、といわれているようです。)
へー。/(間宮林蔵という人もググってみると面白い人。帰農した元武士の家(←先祖は後北条方)に生まれた農民で 幕府の「御庭番」になってるんですねー)))


この後は もう少し このエリア(小野川 樋橋以南)を歩き、 舟に乗っております。/ つづく