息栖(イキス)神社-本殿 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

東国三社巡り、
香取神宮に続いては息栖神社を訪ねました。

(↑二の鳥居)
↓鳥居横の由緒書。

「息栖神社
 息栖神社は、古くは日川(ここより少し川下)に鎮座していた祠を大同二年(807)、右大臣藤原内麿の命に依り現在地の息栖に遷座したと伝承されている。
 史書「三代実録」にある「仁和元年三月十日乙丑條、授常陸国 正六位上 於岐都説(オキツセ 沖つ瀬?)神とは息栖神社の事とされている。
 古来より鹿島・香取との関係は深く、鎌倉時代の鹿島神宮の社僧の記した「鹿島宮社例伝記」、室町時代の「鹿島宮年中行事」には祭例等で鹿島神宮と密接な関係にあった事が記されている。
 祭神は、現在 岐神(クナドノカミ)・天鳥船神(アメノトリフネノカミ)・住吉三神(上筒男神・中筒男神・底筒男神)とされ、海上守護・交通守護の守り神と奉られている。
 江戸時代には主神を気吹戸主神(イブキドヌシノカミ)と記しているものもあり(木曽名所図絵、新編常陸国誌)、さらには現在境内にある芭蕉の句碑「此里は気吹戸主の風寒し」は、その関連を物語っていると思われる。
 社殿は享保八年に建替えられたが、それが昭和三十五年十月焼失し、昭和三十八ねん五月に新たに完成した。末社、高房神社・伊邪那岐神社・鹿島神社・香取神社・奥宮・江神社・手子后神社・八龍神社・稲荷神社・若宮。(後略)」
↓そばに 「御遷座当時地形」という昔の地形図がありました。

↑全然上手く撮れてませんが、日川 も 息栖 も「香取の海」に浮かぶ「島」にあります。/息栖(イキス)が於岐都説(オキツセ)と呼ばれていた頃 ここは「沖洲(オキス)」のような所だったのかもー?

<!>
これは 本殿近くで見た説明板ですが、息栖は かつては「おきすの社」と呼ばれていたのですって! (という訳で 話の流れ的に ここに貼ります。)

「おきすの津(港)と碇

・大船の香取の海に碇おろし いかなる人か物思わざらむ(柿本人麿)
・今よりは ぬさ とりまつる船人の 香取の沖に風向うなり(藤原家隆)

 広大な内海であったために、香取の海といわれた古代の水郷の中で、おきすの社と呼ばれた水の神、息栖神社の所在する息栖の地は、おきすの津(港)とよばれて、周辺の陸地との交通上の船着場として、大きな港としての役割を果たしていた。
 徳川時代になると、幕府の拠点江戸と東北との交流が盛んになり、その水上輸送路は、江戸川・利根川・水郷違い・銚子川口から鹿島灘といった航路が選ばれていた。これらの長距離輸送には、当時大型船舶が用いられ、その往復途上、息栖の津に立ち寄っては、息栖の神々に航路の安全と、家族の安泰とを祈願した。この碇はそうした祈りをこめて、息栖の神に権能された物であろうが、それが何船によってのことかさだかではない。けれども潮に晒され、鉄片のはがれ落ちた碇の姿から、道の奥(東北)と坂東(関東)との間にたって、物資輸送に励まれた船人の、遠い昔を偲ぶ手掛かりとなっている。

・帆柱ぞ みをつくし なる大船の かとりの浦の見るめからねど(利根川図誌より)」
(昔の日本では「い」と「お」の音って近かったんでしょうかね? 意賀美と書いて「オカミ」、意宇と書いて「オウ」と読むとか、これまでも時々「へー」と思って参りました。)

↓尚、この説明板の横には この 碇(イカリ) が。

(↑説明板を読まなければ この鉄の棒を 碇 とは気づけなかったなー)


鳥居の先に、

境内図。


参道左手に稲荷社。

あら あら



まあ まあ



かわいらしいお社です^^)



↓ん? これは?

大国様とお猿の親子。大国様は俵の上に座り、子ザルは鶴亀の描かれた袋の上、親猿はその袋を大事そうに・・・。/ んー わからん^^;)))

参道を進みます。


↓左手に手水舎がありました。





参道右手に「由緒書」。

先に見たものと 少しニュアンスの違う部分もあるので少し写します。
「息栖神社の由緒について
息栖神社は岐神(くなどのかみ)を主神とし天鳥船・住吉三神を相殿の神として祀られており 古くから国史にも見え(三代実録に書かれてある於岐都説神社)が今の息栖神社です。鹿島・香取・両神社と共に東国三社の一社として上下の信仰の篤い神社です。
岐神(くなどの神)は厄除招福・交通守護の御霊格の高い神で、鹿島・香取の大神とともにその先頭に立たれ国土の経営にあたられた。
天鳥船神(あめのとりふねの神)は航海・航空の守護の御霊格が高く、古事記に(天鳥船を建御雷神に副えて遣わす云々)とあり、鹿島の大神の御先導を務められた神であります。
(住吉三神)は海上守護・漁業関係の御霊格が高い三柱の神様である。
このように五柱の神々を祀られているので古くは息栖五所明神とも称された。(後略)」

(補足/ 出雲の国譲りの段、高天原から遣わされた神々は 日本書紀では「主-(香取の)経津主 副-(鹿島の)武甕槌(タケミカヅチ)」ですが 古事記では「主-(鹿島の)建御雷(タケミカヅチ) 副-(息栖の)天鳥船」となっています。)

丹塗りの塀の向こうへ。



左手の垣内にはー



↑引退したらしい狛犬達_
↓若者らの力比べに使われた「力石」、

↓芭蕉の句碑がありました。

↑「この里は 気吹戸主(オブキドヌシ)の 風寒し」(補足/ 江戸時代には 気吹戸主が主祭神として祀られていたようだ、との事)

その向かいには・・・

↓絵馬掛け、御籤結び。


↓境内社。

(↑一つの祠に五社ずつ 合祀されていました)

拝殿まできました。(社殿は西向き。)

(↑神紋は三つ巴のよう。)


ご挨拶。

で 神殿を回って戻ろうとしてー




上の方に貼った「おきす津の碇(イカリ)」を見た、のでございましたー。

さてこの後は 川辺の「一の鳥居」とその先にあるもの~ を見に行きました。


つづく