鹿島(カシマ)神宮-本殿 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

東国三社巡り、最後は常陸国(ヒタチノクニ)の一宮 鹿島神宮へ。

西の大鳥居から伺います。

↑尚、これは 一の鳥居ではありません。一の鳥居はずっと西の水辺にあるのです。(←西の一の鳥居) 鹿島は外海と内海にはさまれた洲のような場所に建つので 陸路からはお参りがしにくかったんですね。/ さらにずーっと北、鹿島大野駅近くに「北の一の鳥居」があります。陸路からの参拝者は そちらからお参りしたのでしょう。/ そして さらにずーーっと南の、息栖神社一の鳥居が 鹿島神宮の「南の一の鳥居」。 (+ 昔は外海側に「東の一の鳥居」もあったといいます。が 今もその跡に 小さな鳥居(明石浜鳥居)が立つそうです。)

由緒書。

「鹿島神宮御由緒
御祭神 武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)
社格  勅祭社・別表神社・常陸国一之宮(ヒタチノクニノイチノミヤ)・旧官幣大社
創建  皇紀元年(紀元前660年)
例祭日 九月一日
境内地 二十一万坪

 御由緒
 神代の昔、天照大御神の命を受けた武甕槌大神は香取の経津主大神(フツヌシノオオカミ)と共に出雲へ向かわれ、国譲りを成就し皇孫の国たるべき日本の建国に挺身された。
とりわけ東国における神功は大きく、関東開拓の礎は遠く大神にさかのぼる。
 初代・神武天皇はその御東征なかばにおいて思わぬ窮地に陥られたが、大神の韴霊剣フツノミタマノツルギ)の神威により救われた。
皇紀元年、紀元前六六〇年の頃と言われる。
 以来、皇室を始め藤原氏等の崇敬も篤く、中世・近世には源頼朝、徳川将軍家等の祈願や寄進が寄せられた。
 そして江戸時代に利根川から江戸を結ぶ水運が開かれると東国三社参り(鹿島・香取・息栖)が流行、庶民にも鹿島信仰は広まり、現在に至るまで東国最大最古の神社として朝野の崇敬を集めている。」
(オサライ的に/ 香取のフツヌシと鹿島(古くは島)のタケミカヅチはしばしば 一対 を通り越して 一体 に扱われます。古事記にはフツヌシはタケミカヅチの「別名」と書かれています。)

では鳥居を潜って境内へ。



境内図。

参道を歩くというより 森の中を抜けていくー 感じ。




楼門。その手前に手水舎。


コロナ対策~ な感じの滴る式。


そばに末社の並ぶ一角。




(↑みなさん 静かにお鎮まりでした。)

楼門を潜ります。


随神さん達。


山鳥の彫刻の下に 菊の紋の門幕。


門の先 右手にー

 ありゃりゃりゃ

なんと社殿は修復中~ でした。
↓あ、神殿部は覆いに覆われてない。

いや これから修復に入るところ、?

でも ともかく 香取神宮に近いテイストの黒塗り社殿だというのは わかりました。

(もしかして 両方の神宮で 相談して 色を決めてる、のかな?)

ともあれ ここが 拝殿前。(北向きに建つ社。一説に 蝦夷への備え とも。)

↑五三の桐 三つ巴 二つの紋が見えますが、鹿島の神紋は「三つ巴」だそうです。(『常陸国風土記』にこちらは「天の大神の社、坂戸(サカト)の社、沼尾(ヌマオ)の社、三処を合わせて、総べて香島(カシマ)の天の大神という」と載るそうです。そこから~の三つ巴紋でしょうか?)

↑祓え串が置いてありました。自分でお祓いする、のかな?(たまにそういう神社ありますよねー)
↓蟇股に鹿。(鹿は鹿島の神のお使い)

ご挨拶。

近くにあった 境内案内。


・・・
あれ(?) 
多分鹿島に来たら「うちこそ出雲平定の~ 藤原氏の~ 奈良の春日大社のそもそもの~ 白い鹿に乗って鹿島の神が~」なんて話が てんこもりで語られるんじゃないかな 思っておりましたのですが・・・
本家本元の鹿島の神様は ちっともエラぶったところなく 鎮まっておいででした_。
(公式HPにも 藤原氏 春日神社との関係等は載っていません。)


境内を散策します。

(↑本殿近くにあったMAP)

本殿のハス向かいに 小振りながら立派な社がありました。


↓元和四年(1618)徳川秀忠が奉納したという「仮殿」。

(新しい社殿を造営する際に 神様に一時的にお移り頂くための社、だそう。)



仮殿の前に 高房社(タカフサシャ)。

祭神は建葉槌命(タケハヅチノミコト)。/ なんと鹿島神宮では「本殿参拝前に この社へ参拝する 習わし」があるそうなー。(理由は?)

(↑作法をご存じと見える皆様。)


では「奥宮」「要石」の方へ行ってみましょう。



(↑この先、「奥参道」。)
つづく