旧-新井家住宅 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

コスモス畑の隣に 国指定重要文化財に指定されている旧-新井家住宅が建つ というので行ってみます。

入口は・・・どこだろう?

(↑入れなかった^^;)
↓あ、こっちかな?

↑いやここは「長瀞町郷土資料館」・・・?
↓かと思ったのですが、 旧新井家は 資料館を通って行くようですね。

「こんにちはー」


(↑入館料は JAFカードの提示で割引サービスが受けられました~)

まず展示室を見学。



↓最後に新井家住宅の見えるコーナーへ。

↑ここでビデオを観、見どころなどを事前に学びます。

↓そして裏のドアから 旧新井家住宅の方へ。


素朴なのだけど 凛 とした風格ある建屋。

↑母屋は麦藁葺きと板葺きのハイブリッド。(板葺きの板は栗の木。その下は竹、だそうです。板は飛ばないよう、上に石が載せられています。)
↓右手の小屋のような建屋は「トイレ」。

↓左側には肥たごのような物が置かれていましたが、元々このように倉庫として使われていたのか 以前は小便器が取り付けられていたのか・・・はわかりません。/ 右側は大便用(+女性用)の「個室」でした。

↓戸板が穴の奥にありましたが・・・、これは単に外にあったものが「外れた」からでしょうね?

(時にこのトイレは 明治時代に作られたもの、だそうです。)

では母屋へ。


(↑時にこの壁の真ん中に小さな窓がある場所、何だと思います? / 後で知る事になりますが「お風呂」でした。//でも撮り忘れたのでここでお伝えしておきますー^^;)
↓母屋の軒の下には ちょっと繊細かつリズム感のある格子が取り付けられていましたがー

↑↓事前に見たビデオによるとこれは「関西風」との事で 「へ~」でした。



(↑でも こんな風に軒下のみに格子が取り付けられてるのって 他で見た記憶が無いのですがー)))
(↓尚、妻側には格子はついていませんでした。(当たり前か))


竹やぶの手前に 説明板がありました。


「旧新井家住宅の説明
 新井家は徳川時代に代々当地方の名主をつとめた高い格式を誇る休暇である。この住宅は、長瀞町大字中野上一二一番地に所在し、かつてこの地方にさん散在した板葺農家の典型的なものとして国の重要文化財に指定された。建物の年代については明らかでないが、家蔵の祈祷札のうち一番古いものは延享二年(1745)の年記があり、構造手法からみても時代の特性を示すものであり、このころの建立と思われる。その後明治、大正、昭和を数次にわたり改修と受け二百三十すうねんの星霜をへて今日にいたった。町はこの建物を新井氏より譲り受け当地に移築保存することになり、昭和五十年三月、国・県の補助を受け復元工事を完了した。
 所在 長瀞町大字長瀞 一、一六四番地
 名称 重要文化財 旧新井家住宅
 構造又形式 桁行二〇・九メートル、梁間一〇・五メートル切妻造、一部二階、板葺、東面庇茅葺
 建物は桁行一〇間半、梁間五間の板葺、切妻造で、一部に中二階を設ける養蚕農家である。平面は桁行を三分して、土間、「ざしき」、「でえ」裏に「へや」「おくのでえ」が配されている。構造は上屋・下屋の区別がなく、柱は棟木または母屋まで達するものが多く、小屋東は少い。この建造物の特徴としてあげられるのは、栗材の板葺石置屋根、内部の屋根裏の「モヤ」に取りつけた竹を「あけび」のつるで結んだのが見どころと言える。又、軒下の関西風の格子を取りつけてあるのが美しい。
 昭和五十一年三月十五日
  文化庁
  埼玉県教育委員会
  長瀞町教育委員会」


屋内に入ってみます_。

さて、土間(でえどこ)の床にご注目。

筵の痕が残っているんです。(筵の痕は 屋内だけでなく建屋の周囲にも見られ、筵が大きな面積を覆っていた事がわかります。)

(↑奥の戸の左に水甕と流し。右におくどさん。/「でえどこ」は台所のことですね?)

↓上がり框の高さに囲炉裏。(正確には 囲まれてないけれど)「いろりばた」と呼ばれる場所だそうです。

(「でえどこ」からも火にあたったり 鍋に触れたりできた、んですかね?)


靴を脱ぎ、板張りの広間「ざしき」へ。

神棚の下に長持が二つ_。(時に神棚の札は 新井家では大切に保存されてきており、古い物は延享二年(1745)の物~ って説明板にありましたよね。)

その上にはアイヌのイナウにそっくりの「削り花」が置かれていました。


(あまりに似てるのでググってみたら 削り花とイナウについて「関係があるのでは」という説が結構ヒット。/ へぇ~!)

近くに この大広間全体に桑の葉が広げられている写真が置かれていました。(長持の横のイーゼルに掛けられているもの) 養蚕の作業場、としても使われていたんですね。

↑今は織機が置かれていましたが、多分これは展示品でしょうね?(織機は「はた部屋」という別室に置かれるのが普通ですから)

奥の「でえ(出居)」へ。とその手前に階段が。(いや「きざはし」とか「はしご」に近い?)

見上げるとむき出しの屋根裏との間に「二階」らしいスペースが。

(↑居住空間として使われたのか 収納場所だった のか・・・。)

「でえ」は板の間でしたがー

その北側の「おくのでえ」は畳敷でした。


床の間の藁飾りにご注目。


↑横の説明書きー
「寿 坂上家に伝わる 正月床乃間飾り
一、宝船
一、メオト飾り一対 オタネ様 ウブネ様

一家和楽福徳萬来
一族子孫繁栄祈願

昭和五十二丁巳(ヒノトミ)歳
納主 昭夫作」
へ~~~!

↑プリミティブにして奥深い。

こちらには秩父の「削り花」や「削りかけ」。(んーやっぱりイナウが思い出されます。)


引き返します。


縁側。

沓脱石(クツヌギイシ)が縁の内に置かれています。雪の日対策、かしら?


「でえどこ」に下ります。


↓「でえどこ」の東には 「うまや」が作られています。

(「でえどこ」との間には 昔は柵が作られており、馬は首だけ柵から「でえどこ」側に出してカイバを食べていた~ そうです。↑馬は「でえどこ」を通らず、右奥の戸口から外へ出されたのでしょうね。 戸口の向こうに見えているのは 外のトイレ、です。)

↑首木や蕨形(ワラビガタ)などの馬具。壁に掛かっているのは多分 馬用のわらじ。

「うまや」の戸から外に出ます。

↑「うまや」の北側に「じがらば」という作業場(米や麦を臼でついていた場所、この事)があり、戸口横にからからのカラタチが置かれていました。フェンスとして使われていたんでしょうか?

_しかし そうかー、人が住む空間の上は「板葺屋根」で、「じがらば」と「うまや」の上は「麦藁葺屋根」なんだー。(臭気が逃げるように、かしら?)

色々面白かった!
伺ってみてよかった^^)!


さて、続いては寳登山神社(ホドサンジンジャ)の方へ~。