三淵邸(ミブチテイ)・甘柑荘(カンカンソウ)での呈茶席 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

秩父旅行の思い出を綴っている途中ですが、
”さしこみ”的に_。


昨日 10月30日(日)は、
板橋の「三淵邸・甘柑荘」という所で開かれた無持菴さん主催の呈茶席にお邪魔して参りました。 感動と記憶の薄れませんうちに感想を打たせて頂きます。

まずは甘柑荘が隣接して建つ、 板橋の萬年山 霊寿院(曹洞宗)を目指しました。

↑小田原用水を北へ渡りー
↓保険会社の研修所建屋(←旧・古稀庵の敷地)手前を高台側へ上がっていきます。

↓正面に見えるのが霊寿院、のようですね?

(この道は 歩いた事がありません。角を曲がったとたん「私のまだ知らない小田原がここにある」 って気持ちになりましたよ。)
↓右手に木の門扉が現われました。

ここが甘柑荘入口、ですね?

↓左の門柱に「三淵邸 甘柑荘」ってプレートが掛かってますから 間違いありません^^)

緩い上り坂になったアプローチ。

ここは「初代最高裁判所長官・三淵忠彦(1880~1950)が昭和初期に別荘として建て、晩年を過ごした数寄屋家屋」(←リーフレットより)だそうですが、古民家の風情の他 モダンさも併せ持ってますね?↓

(尚、現在はご子孫 (三淵忠彦さんの曾孫さん達)が管理をなさっている、そうです。)

建屋前で受付をし、屋内へ。




(↑受付で頂いたリーフレット  と 三淵忠彦さんが昭和25年5月刊行の『暮らしの手帳 7号』に「衣、食、住のこと」という題で寄稿された文のコピー。/ 「衣、食、住のこと」には 小田原に建てられた家についての記述があり興味深く読みました。(建築家に簡素な家を と注文し、その通りに建ててもらった~ というこの30坪程の家は、 元々は別荘だったそうです。が 東京の本宅が戦火で焼けた後、 三淵家の住居に。/ この家を三淵さんは気に入っていらしたようで 「~。掃除には容易である。妻は家の内を、私は家の外を、毎朝丹念に掃除する。~」と書いてらっしゃいます。最高裁判所長官で 勲章をもらわれたり 宮家からお歳暮を頂かれたり~ という方が ご自分でお掃除をなさっていたというのは なんだかほほえましく思われますが、 もう一方で御立派な事ですね。)

お玄関を入ると 杉の輪切り丸太が埋め込まれた土間。/ この土間で建屋は東西に分けられており、西側は生活しやすいよう近代風に改築されていましたが、「東側はほぼ 昔のまま」、との事でした。

(かつての土間は 今は「床」扱いで、渡された竹の手前で靴を脱いで上がるようになっていました。)

(↑夏はこの土間に椅子を置き 応接間にもした~ との事。/ リーフレットに写真も載っていました。)

東側の 南の縁で(茶会のための)身支度を~。/ その後 少し家の中を拝見させて頂きました。

奥の縁と座敷の間には きょう日珍しい「簾戸(スド)=夏障子」がはめられていました。


簾戸の内の東向の間は書斎だった、のでしょうかね?(文机の高さと窓の高さが合ってますもの。)

(↑また 「左手側」になる北 にも下地窓風の明り取りが作られていましたし。)

↓これは土間に面した座敷と書斎(?)の間の 南北に通る廊下。皮つきの白樺の柱が印象的です。(でこの柱、座敷側から見ると 床柱に見えるんですよー)

↓廊下の奥には作りつけの本棚。

↓上の方には 法律や茶道の本が並んでいましたがー

下の方には
『君たちはどう生きるか』など 子供向けの本も見えました。(三淵さんがお子さんに選んだ本でしょうか?)

↓座敷の方へ。
ここで建屋の管理をなさってる方々から (曾祖父にあたる)三淵忠彦さんについて 建屋について 色々伺いました。そして卓上の桐の箱の中のものも見せて頂きました。 (茶器かしら?と思いましたら_
菊の御紋の入った漆の箱が入っており、その中には 三淵さんが頂かれた勲章、ご葬儀の折の宮家からの賜りものの目録などが。 
その他、 宮家からのお歳暮の目録(鴨二羽 とか 鮎二十匹 とか ・・・) 古い手紙 なども 興味深く拝見いたしました。


↓座敷の東側の壁。 左手の出入り口が小さく造られていて 茶室風。 / 中ほどに 壁に塗り込められた白樺の皮つき丸柱が見えます。 先に廊下側から見た時は ワイルド な感じでしたが、こちらから見ると 風情のある床柱のようですね?

↑そうそう、掛けられているのは 管理者さん達のおばあ様が 九十三歳(!)の時に書かれたというお手紙。(そうと聞くまで 鑑賞用の「書」だとばかり思っておりましたよ。)「急に寒く(←訂正/「暑く」だそうです)なりました~」と始まり 中ほどに「大好物」とあるなど お手紙を差し上げた方とは ごく親しい御関係と拝察されます。が それもそのはず、宛名として最後に書かれているのは 三淵の方のおばあ様のお名前、なのでした。


<絵はここまで>

北の間で 数名ずつお茶を頂きます。
(他のお客さん達のいらっしゃる南の座敷との間の襖が外されていたからでしょうか 逆に緊張しないですみました。又 茶会としては珍しく お座布団 が敷かれており、「おばあさん」としてはありがたかったですね^^;)

お花は ススキにノバラ(ヒペリカムにも見えました) 鶏頭 だったかしら。
お茶は、濃茶で点てたというお薄 艶やかな味でした。
お菓子は 右京さんの のし梅。懐かしいお菓子でした。(のし梅というと「駄菓子」のようですが 右京さんののし梅は 濃い味わいで 「和菓子」でございましたよ^^)

ありがとうございました。



<+>
山縣有朋の古稀庵のすぐ東隣に こんなお宅があり 初代最高裁判所長官がお暮しだったとは 全く知りませんでした。
時に、管理者さん(三淵忠彦さんの曾孫さん)に甘柑荘の名の由来を伺いましたら、
「三淵荘 じゃつまらないと思って。
お庭に蜜柑や金柑の木が何本もあったからー」との事でした。/ 皆様も是非覚えて下さいませね、お庭に蜜柑や金柑の木がある 甘柑荘・かんかんそう でございますよ^^)