会慶山 玉泉寺(ギョクセンジ) | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

(秩父の旅行の話に戻ります)


舟下りの後...

長瀞を離れる前に もう一度 寳登山(ホドサン)神社の方へ



この日は 前日回りきれなかった お寺(旧別当寺)_玉泉寺を訪ねております。


(寳登山神社が素晴らしく造られたバックには 江戸から明治に大きく制度や価値観が変わる中 玉泉寺の最後のご住職(後に還俗して神官になられたそうですが)の奮闘があった~ と知り、 お寺も拝見しなくては という気持ちになりましたのです。)

↓説明板。

「玉泉寺のいわれ
 平安時代の永久元年(1115)僧空圓は、日本武尊が山頂にて神霊を奉斎し、弘法大師が来錫のおり、宝珠の山頂に向かって飛翔した神変に感応され、仏庵を営んだとも伝えるこの地こそ、仏堂建立に相応しい地とされ「玉泉寺」を開基した。

 現在、真言宗智山派に属し「会慶山」と号し、本堂には寛文七年(1667)造立の地蔵菩薩を本尊と安置し、現在境内には護摩堂、十王堂(墓地内)、鐘楼(鐘は大東亜戦の金属供出にて現存せず・鐘楼は平成二十九年 暴風雨により倒壊)、「仁義」の額を掲げる山門などの施設が建てられている。


 開基以来、「玉泉寺」住職は別当として「寶登山大神=宝登山大権現」の神にも使え、神仏を共に敬い祀るその関係は明治初年(1868)の「神仏分離令」が出されるまで続いた。

 歴代住職のなかでも江戸末期、第四十六世栄乗は、京都御室御所の院家格を賜り寺格を高めると共に、寶登山講社組織を拡充し、弘化四年(1847)熊谷宿石原に「宝登山道 江戸講中初登山」の道標を建て、また神社社殿再建事業を推し進め現社殿を建立し、今日の神社の礎を築いてきた。
 明治初年、寺と神社はそれぞれの教えを説く宗教活動を行なうこととなるが、今でも一つ境内の如く、寺と神社はお互いに補完しあう関係を保ちつつ、手を携え、渋沢栄一翁が「宝登山は千古の霊場」と称えられた宝登山を守っている。
 現在の本堂は江戸後期の再建と伝えられ、格天井に描かれた飛天図(二十五面)と弘法大師一代記(十二面)、十六羅漢、孔門十哲の欄間彫刻は町指定有形文化財になっている。」

寺号の彫られた柱。
石段の先に門。

門の先にはムクリの張り出しを持つ玄関がありました。

軒にも虹梁にも 花や鳥の彫刻が施され 彩色はありませんがとても華やか。


谷の方へ行ってみます。

渡り廊下の近くー・・・

↓鳥伏間でしょうか? 面白い形の瓦が載っています。


廊下の下を潜って~

↓振り返ったところ。


↑谷に架けた屋根付き廊下で お寺と神社は繋がっているようですね?

道なりにいきます。

お稲荷さんの旗が見えてきました。

階段の上には 稲荷社の屋根が チラと。


稲荷社までは 前日拝見しているので ここで引き返しました。

門を出るところ、です。

門扉の両脇に 綱が巻かれた柱(?)が。

↑何でしょう?(行事に使われる物かしら? 建屋の備品?)わからずいまいですが_
今回はここまで^^;)


この後は 荒川沿いに川上へ走り「聖(ヒジリ)神社」へ行ってみました。/ つづく