芦ノ湖湖畔の賽(サイ)の河原 | おだわらぐらし

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縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

遊覧船や海賊船の発着場のある元箱根港(モトハコネコウ)_。




↑右の赤い鳥居は 箱根神社の鳥居。/ 鳥居の扁額(←因みに 吉田茂の揮毫)は外に向けて付けられており、陸地側からは見えませんー。




↑という訳で、鳥居の扁額を見るためには ボートをレンタルして漕いでいく必要があります。


が。この日はお天気が悪かったからかな、ボート屋さんは お休み のようでした。


(↑桟橋に上げられたボート・・・)

道なりに行くと 箱根神社ですがー・・・



お参りは 「あした」にとっておいてー・・・


引き返して 「賽の河原」を目指します。

(↑これは「第二鳥居」 / も一つ先の「第一鳥居」の方へ行きます↓)

↓第一鳥居の湖側の囲い地の中が通称 「賽の河原」。 (鎌倉時代は 精進池(ショウジガイケ)周辺が「賽の河原」と呼ばれていたそうですが、 江戸時代になるとこのあたりの水辺が「賽の河原」と呼ばれるようになった~ といいます。)


↓鳥居の柱のもとに説明板。

↓「町指定史跡/ 賽の河原
 この地は地蔵信仰の霊地として、江戸時代東海道を旅する人々の信仰を集めたところです。その規模は大きく、多数の石仏、石塔が湖畔に並んでいました。
 しかし明治時代に入ると、仏教の配石から多くの石仏が失われ、また芦ノ湖畔の観光開発の中でだんだんとその規模が縮小し現在のようになりました。
 現存する石仏、石塔の中にも鎌倉後期と推定される艘塔(?舟型塔?)を始め貴重なものがあります。」

(上の絵が不鮮明なので、参考までに 精進池のほとりの「保存整備記念館」で撮らせてもらった絵を貼ります↓)

(↑江戸時代は こんな感じで 広い範囲に地蔵像や供養塔が立っていたようですね?)

芦ノ湖湖畔の賽の河原~ というと、小田原にも「ゆかり」ある地蔵像があります。本町三丁目の「吉三(キチザ)地蔵」こと「徳常院の大仏」がそれ。
今は海辺のお寺にあるお地蔵様が 元々はここにあったのかと思うと 「へえー・・・」でございます。(↑上の図に 光輪を持つ大きなお地蔵様が見えますが、もしかしてあれが徳常院の大仏~ だったりしないかしら???)

囲い地の中を ちょっと見て回ります。

↑「一天四海皆帰妙法 / 南無妙法蓮華経」 日蓮宗の題目塔のようですね?
↓この下の図の様なものは 何だろう?


↑宝篋印塔や灯籠の 名残 などの向こうに お地蔵様達が並んでいます。
↓このお地蔵様は 小石を抱いている。ここが「賽の河原」だから、、、かな?

ああ、 今頃だけど 以前 山北の盛翁寺で小石を抱くお地蔵様を見たっけ・・・。あのお地蔵様も、「賽の河原」のイメージをもって お参りする人が小石を積んでいた、のかもー?

(↑囲い地を 湖側から見たところ_)

さて、賽の河原の向かいにも、お地蔵様がおいでです。

(↑↓成川美術館への上り口の脇。)


「身代わり地蔵」と呼ばれるお地蔵様で、

↓こんな逸話を持っています。

「宇治川の先陣争いで名高い梶原景季は、ある年箱根を通りかかった時、何者かに襲われました。当時弁舌巧みで、たびたび人をおとしいれた平景時(←もしかして景季のお父さん???) と間違えられたらしいのです、幸いにも、かたわらにあった地蔵が身替わりになってようやく命が助かりました。それ以来この地蔵を景季の身替わり地蔵と呼んだとのことです。」
景季と同時代の平景時って 梶原(正式な名乗りは平)景時以外考えにくいのですが~ はてさて。ともかく面白い話です。


古い時代には もっとあちこちに こうした地蔵像があったのでしょうねー。



この後は鎌倉時代に「賽の河原」と呼ばれていた 精進池(ショウジガイケ)の方へ行ってみましたー。/ つづく