生駒の足形社(アシガタシャ) | おだわらぐらし

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南足柄市は生駒(イコマ)の足形社 へ行ってみます。(車窓から見て 「どんな神社かな?」 と思ってきた場所なんです。)

↓下2枚は ストリートビューと グーグルMAPからもらった絵。

↑「生駒入口」の三叉路のー
↓すぐ北にあるのが 足形社。(神社を表す鳥居マークがついています。)

↓信号から県道74号線に沿って北へ歩いてるところ。_。

↓階段脇に設置されてた説明板。


(↓元サイズの写真)

「炭焼所(スミヤキショ)(生駒)と足形社」
 「すみやきしょ」は昔は「墨八寸生(スミヤキショ)」と書いたといいます。
 墨というのは 長さや高さなどをはかって墨でしるしをつけることです。八寸は四尺八寸(1.5メートルくらい)のことで、馬の背の高さです。足も長く背も高い良い馬の産地が「すみやきしょ」であったわけです。 ここは狩川と酒匂川の氾濫源(原)にあたり、高台とあわせて馬の好適な牧場となっていたのでしょう。
 この地区では、昔から馬に関係した職業の人々が多勢住んでいたようです。伝説では、源頼朝の名馬「する墨」は炭焼所の産だと言われています。また、ここに「する墨」が押しつけたという馬蹄の形のついた大石があります。 隣の駒形や駒千代など馬に関係ある地名も多く残っています。足形社では大正時代まで競馬も行われていました。
(なお炭焼所という地名は市政施行と共に生駒となりました
 平安時代の「延喜式」という本には「相模の高野 馬牛牧」という項がありますが、これは国で経営していた牧場のことです。高野は開成町か南足柄市だという人もあります。
 いずれにしても馬は昔から重要な動物で、武将の乗馬となり 戦場へ荷を運ぶ駄馬となるものもあります。とくに江戸時代の農村では、ほとんどの家で馬を飼っていました。これは農耕のほかに、例えば小田原宿の助郷(スケゴウ)といって、人や荷物を運ぶため足柄地方の人々と馬が定期的に使役に出なければならなかったからです。今でも道端にある多数の馬頭観世音の石碑を見れば、たいへん馬を大事にしていたことがわかります。」 

↑へ~っ! 生駒は市政施行(1972年)まで「炭焼所(スミヤキショ)」 (古くは墨八寸生(スミヤキショ))と呼ばれており 平安時代には官営の牛馬の牧場だった、んですね? そして頼朝が所有していた名馬磨墨(スルスミ)の蹄跡がついた石がある というので ここが「足形社」、ですかー。 「助郷」の話も面白い。 // 時に_ 炭焼所を 現地名 生駒 と改めたのは 何ゆえ?(ご存じの方いらしたら 教えて下さーい)



階段を上がって

(旧)境内へ。

奥に南面して立つのは_

「慰霊塔」でした。

その手前は・・・

↑左「忠勇」、右「忠魂碑」。
↓「軍(!)忠魂碑」。

さすが 生駒の足形社。

しかし 祠の類が見当たりません・・・。

南側の曲輪(?)へ行ってみます。

↓ん? この右の石柱は注連柱(シメバシラ)かな? 三つ巴のレリーフがついていますから 八幡様? 何にしても神社 っぽいです。(そういえば ここから一キロちょっと南西の塚原神明神社(←地域の草競馬の会場にもなっていた、という) にも同じように三つ巴を持つ石柱がありましたっけー。)


↓あ、祠が ある・・・?



↑これが「足形社」でしょうか? _倒れているとはいえ 鳥居がありますし お祀り処 なのは確かと思われます。
↓すると これ が 磨墨の足形石、かな?

(↑本当に 馬の蹄の跡 にしか見えませんねー。)

近くに立てられていた石にはー

「馬頭観世音」の文字が刻まれていました。


↓この石には「百番観世音」の文字が。

(百観音巡礼の お礼 か 祈願 でしょうか? 相模原の百番観音堂のように ここにお参りすれば百観音巡礼に行ったと同じ功徳が~ のようなものかな?)

_ともかく 今回はここまで。/ 詳しい事は後で調べてみましょう。



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ググっていたら 岡本小学校の校長先生が書かれた 学校だより がヒット↓
「岡本小学校 学校だより 『くすのき』R2.8.4.」

これによると ここには昔は駒形権現が祀られていた、といいます。(ソースは昭和8年に編纂された『郷土読本』、とか)

箱根の駒形神社(←江戸時代まで 駒形権現を祀っていた権現社)のHPを見たらー
http://komagata-jinja.jp/
駒形神社の神紋は「三つ巴」でした。/ 生駒の足形社に残る三つ巴は 権現社時代のもの、かもしれませんね?

もしかしたら・・・ 明治の神仏分離令で 神社に権現様を祀れなくなって 権現社の名を改めざるを得ず・・・「足形社」という社名にしたのでしょうか_。 / 御祭神はどうしたんでしょうね? 明治になって別の神様を迎えたなら それを記す由緒書がありそうなものですが・・・。(文字に記す事をあえてせず 昔からの権現様を拝んでいた、とか ?)

わからないことが わからないまま に ・・・。



<おまけ>
goo辞書 さんの「寸(き) の意味」によると
寸(キ)は_「古く、馬の丈 (たけ) を測るのに用いる語。4尺(121.2cm)を基準とし、それより1寸(3.03cm)、2寸、…8寸と高ければ、それぞれ「ひとき」「ふたき」…「やき」といい、9寸以上は「丈に余る」という。また、3尺9寸は「かえりひとき」という。(←ローマ数字のIX(10-1=9)みたいで面白い)」だそう。

<よだん>
生駒には、 「旧地名 すみやきしょ は 八寸(ヤキ)の名馬磨墨をこの地で得たことから頼朝が命名した~」 という伝承もあるそうですね。(上でリンクを張った 岡本小の学校だよりが引用した文に載っていました)/ 地名 と 伝承 と どちらが先かはわかりませんが  (伝承が地名になるように 地名が伝承を生む事もあります)  いずれにしても ここが古い馬の産地であるのは間違いありませんね。
 + + + + +
名馬磨墨は 1184年の「宇治川の戦い」の前に 頼朝から梶原景季に与えられていますから (戦前の『郷土読本』に載るという物語の筋) 1193年の「富士の巻狩り」の時に 磨墨が頼朝に献上された~ とするとちょっと話が「合わない」。又「八寸(ヤキ)」は 『平家物語』では 磨墨にではなく 頼朝が所有していたもう一頭の名馬-池月(生食)に使われてる形容。  _ですが この土地には こういう伝承がある、んですね?。

<よだん2>
頼朝が梶原景時に与えた名馬 磨墨(スルスミ)が生まれた場所としては 岐阜県郡上市明宝(メイホウ)気良(ケラ) が有名、のよう。/ 明宝観光協会のHP→ http://www.gujomeiho.jp/sightseeing3_2.html

更に 東京大田区の馬込にも 「ここで磨墨が生まれた~」 という伝説が残っていますー。 (+同じ区内の洗足池には 磨墨のライバル(?) 当時野馬だった池月がここで捕獲され頼朝に献上された~ という伝承が~)
_まだまだ 他にもあるかもしれませんね?

<もういっちょ>
↓古代の放牧について書かれたレポート。/ 酒匂川の西に造られていたという官営の「相模の高野 (このレポートでは 足柄上郡南足柄町 となっています p.8)」では 牧に馬や牛を放し (多分自然交配によって)若駒 仔牛を得ていたようですね? そして必要に応じて牧から出し、用が済めば又牧に戻していた・・・。 興味深い_。)
https://ir.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000002116/6-12.pdf


色々 「へー」 でございます。