二宮の吾妻山-3 吾妻神社+神明社 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

吾妻山展望所の四阿(アズマヤ)脇から_

南へ下りる小径。

案内板に「←梅沢海岸」「←吾妻神社」と書かれています。

帰りは こっちを通る事に。


石段を下り切ると もうそこは吾妻神社の境内でした。

_と言っても・・・

手水鉢向こうにあったのは

庚申塔に石仏_。/明治以前の_神仏習合時代からここにあるもの・・・でしょうか?


↓台に三猿の彫られた庚申塔。

↑梵字は上から ア バン ウン。 (金胎両部大日の三種字~ だそうです。)
↓石仏は欠損した頭に 代わりにと石を置かれていました。(かえっておいたわしい・・・)))


奥に進むと 社殿が見えてきました。


まずは手を清めましょう。

レバーを回している間だけ水が出る 節水式~。


改めて社殿へ向かいます。

参道脇の由緒記。

「吾妻神社は梅沢の氏神でその創建は第十二代景行天皇の朝に始まると云う。弟橘媛命(オトタチバナヒメノミコト)を祭神とし日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を配祀する。日本武尊は景行天皇の第三皇子であり、天皇にそむく部族を征伐するため東北におもむく途中、三浦半島走水から海路上総に渡るとき暴風突如に起こり、命は夫にかわり海神の怒りを鎮めるため夫の武運を祈り、別れに臨んで往時を回想され
 「サネサシ相武(サガム)ノ小野ニ燃ユル火ノ
   ホナカニ立チテ問ヒシ君ハモ」と
海中に身を投じた。するとたちまち海は穏やかになったと云う。
その七日後に命の御櫛が海辺に流れつき 埋めて御陵を造り、この地を埋沢(ウメサワ)といい神社前下一帯を梅沢という。この海岸に命の小袖が磯辺に漂いこれを山頂に祭ったことから、袖ヶ浦海岸と読んでいる。また日本武尊は東北戦が終り帰路相模の国から足柄を通り甲斐に出る途中、峠ではるか東方の海をながめ、
「ああ吾が妻 (阿豆麻波夜/アヅマハヤ)」と嘆かれたと云う。
 弟橘媛命の御神像は木彫りの千手観音で、既に千椎百年星霜を経過し、御神像は現在梅沢山等覚院に安置されている。・・」

東国を「あづま」と呼ぶようになった逸話のー ここは中心地 なんですねー? (又「梅沢」は元々は「埋沢」だったと 地名の由来も学べましたー)

お参りいたしましょう。


社殿鑑賞_。
拝殿正面の唐破風部分。


(↑五三の桐を記した鬼瓦。その上の(チョンマゲのような部分)鳥休みと 丸瓦には三つ巴。)
↓水々しい(?)魚を象った飾り瓦。

↓蟇股(カエルマタ)。

↓戸口。その前の賽銭箱にも五三の桐。

↓欄干部分は丹塗り。

↓拝殿の後ろには神殿部。

↓媛神様のお鎮まり処に相応しい 華やかさのある社ですね?




↓社殿についての説明板があった。

設計者 伊東忠太
設計 昭和5年
上棟 昭和17年
完成 昭和18年
(旧社殿の建立は 寛延3?年(1746年)でした。)←~と書かれていましたが 寛延は1748~’51年の年号だそうなので 1750年頃、でしょうか)
_ですって。

境内の端に並ぶ石碑_

↑末社と思われる社号石の他 奉納金の金額 奉納者の名を刻んだ石など~ でした。
↓斜面の際には くねるような枝を持つ木々。


↑何の木、でしょう?

そろそろおいとま いたしましょう。
鳥居を潜り 梅沢口の方へ下ります。

鳥居横にー 吽型狛犬とー・・・扁額?

いや 扁額型の社号表かな?

阿型の狛犬。


梅沢口から吾妻山へ上って来た参拝者は、こんな風に 参道の上に鳥居を、そして その奥に神社を見る、んですねー。

(↑振り返って お別れを申します。)


この後は ひたすら山道を下りますー。


おや? 鳥居が_。

吾妻神社の下社かな?

_と思ったのですが
別の神社でした。



「神明社」ですって。

という事は 天照大神を祀る神社ですね?(県の神社庁の頁を見ると 祭神は「大日孁貴命(オオヒルメムチノミコト / 天照大神の別名)」となっていました。)
↓覆い屋の中の祠の扉部分。両側には龍の彫り物。

小さいけれど大切に祀られています。

神明社の左右には 神名を刻んだ石 五輪塔 又、五輪塔を並べて刻んだ石などなど・・・


・・・静かに 鎮まっていました。

おいとまします。


「梅沢口」(←登山口名)に出たところ。

MAP。

↓MAPには役所口からの道と吾妻神社を結ぶ道が不通である事を知らせるメッセージも貼られていました。

そのそばの梅の木は ぽつぽつ 花をつけていました。(小ぶりでクリーム色_。十郎梅でしょうか?)

元「埋沢」だったという「梅沢」・・・今は本当に梅が咲く「梅沢」でしたー。/ おしまい
 

<おまけ>
地図を見ていたら 吾妻山の東に 吾嬬社(アヅマシャ) という小社があるのがわかりました。


グーグルマップの「クチコミ」で 吾妻神社の宮司を務められた方が お年を召して山の上まで上がるのが困難になって建てられた 分霊社らしい と読みました。/吾嬬社自体には由緒書等は無いそうなので 覚えている人のあるうちに案内板が立つと良いな と思いました。