清閑亭(セイカンテイ)「いぶき展」の日 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

(3/29、小田原城址公園を通って報徳二宮神社を南に抜けた~

~ってところからつづきます)


神社を出て 南町の清閑亭(国の登録有形文化財)を目指しております。




↑国際医療大学のグラウンドの手前_、を左手 南へ。

坂を少し上がると、

「旧 小田原城の三の丸曲輪 外郭土塁の南向き傾斜地」に建つ_

(↑右は車道)
清閑亭があります。



清閑亭は侯爵黒田長成(クロダナガシゲ 1867-1939 / 黒田官兵衛の子孫_ですね?)の別邸として明治39年に建てられています。

侯爵には東京の本邸の他 (黒田藩のあった)福岡 沼津 にも別邸がありましたが、大正末期からはこの小田原の別邸で過ごす時間が長かったー そうです。(黒田官兵衛の子孫が 戦国時代の小田原城の遺構に暮らした~ というのは 面白いですね?) 


坂を上り詰めた所に 玄関。

この日 館内では「いぶき展」という木工の作品展が催されていました。



おじゃましまーす。

(↑書にある”桜谷”は黒田侯爵の号だそう)

館内見取り図。


さて、「いぶき展」は 単なる作品の展示 だけでなく 「購入」も可能~。(全て ではない でしょうが) 入口で案内係さんから そう伺いました。

(↑購入可能な作品には アクセサリー や ボタン 箸置き など 手頃な物もー)

まず 展示会場になっている東の部屋から見ていきましょう。



(↑南と東から光が入る 明るい書院(「客間」))
(↓展示されているのは 時計、です)


↓縁を回った先の_

茶室(「奥女中の間」)には、 
桜が生けられていました。



「奥女中の間」前から 「客間」の縁を見たところ。


北側の廊下を通って 一度玄関に戻り、 改めてその先、へ。


ここは「居間」、だそうですよ?(この部屋も 南と東から よく光が入る造りになってますね?)

東の縁の戸板に竹の絵。

南には 孔雀_。

その先は_

「食堂」ですって。

↓食堂の南の縁の戸板には 菊。


「食堂」から 南の庭を眺めたところ。


引き返してます。



蔵へ行ってみます。

(蔵は母屋と廊下で繋がっています。)

外に開く漆喰塗の扉_。

~と来たら 普通中の壁は耐火性能を持たせるため窓無し_の場合が多いと思うのだけど、三面に窓がある。/ 入り口にあった「平面図」では東西にしか窓が書かれていないので 奥の北の窓は後付けかな?  (因みにこの蔵部分は 戦後 屋敷の持ち主が黒田家から浅野家(←広島のお殿様)に変わってから建てられている、そうです。)

えー ともかく、、、今は明るいので ギャラリーとしても利用できる、んですねー?




母屋に戻って_二階へ。

階段の上に水屋。


「書の間」という御座敷にも 作品が展示されてました。




二階からの眺め。



チラとですが海が見えますね。(御幸浜(ミユキノハマ)の突堤近くにあるお寺の屋根が認められます)

↓こちらは北側。


玄関から庭へ回ってみます。

蔵の横を通ってー、

南側へ。

↓「食堂」と「居間」の南の縁。

↓「食堂」を覗いています。

↓「居間」の前から。右に二階屋。

↓「奥女中の間」の前辺りからー



東を見下ろすと ここが土塁の上であるのがわかります。

↓そうそう、以前参加した「街歩き」の時に聞いたのですが、 この一段低い敷地には 清閑亭の使用人が住む別棟の二階屋があったそうです。「台所」も下の別棟にあり、料理は別棟で作られ 二階 から 渡り廊下で繋がっていた母屋一階の「奥女中の間」まで運ばれていた、んですって。

色々 「へー」、でございますよね。


清閑亭から車道に出ると  国際医療福祉大学のグラウンド越しにお城が ちら っと見えました。


坂を上がりきり 国際医療福祉大学の南門まできたところ_。

(因みに現在 国際医療福祉大学が建つ場所には かつて閑院宮家の別邸があった、んですって)
道なりに進み この高台_天神山を南へ下りるとしましょう。/ つづく


メモ
今回は 展示会会場になっていたためでしょう 「お屋敷も」「アートも」鑑賞でき 二度美味しくもありましたが、 床の間の書 などは見る事ができませんでした。昔の写真ですがよければご覧ください↓
https://blog.goo.ne.jp/numabe3/e/714370e58b9767c7bc813829c5a5ad42
(↑白状すると 昔自分が書いたこのブログ記事を参考に 今回の記事書きました~^^;)