大雄山荘(2009年12月焼失)とその周辺 | (又)おだわらぐらし はじめました

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「新しい日常」を綴って参ります

太宰治の『斜陽』の元になった 太田静子の『斜陽日記』が書かれた大雄山荘。(雄山荘とも呼ばれますが 『斜陽日記』にはD山荘と書かれているので 静子さん自身は「大雄山荘」と呼んでいたのだと思われます。)

2009年に火事で焼けてしまい 今は のっぱら のようになっていますが_

(↑手前の赤い屋根の納屋の上の角地、が 大雄山荘があった場所。)
(↓ストリートビューで納屋の前、から見た 角地_)


古い外付けハードの中に画像があったので 貼ります。(撮影日2009年2/14)


大雄山荘の写真は 昔のブログには 門付近しか貼りませんでした。すでに無人で 敷地内が荒れていて 痛々しかったからです。/でも 今はもう無い・・・ となれば在りし日の面影(?)、片鱗なりとも、と思いまして。




(↑入口には「門を壊さないで下さい」と書かれた貼り紙ー・・・)

この家は 元々は加来金升という人の別荘として昭和5年に築造されています。静子さんは叔父さんの紹介で 自身のお母さんと一緒に戦争中(昭和18年)にここへ疎開しており 太宰にすすめられていた日記を書き始めた_。それが『斜陽日記』なんですね。/ 静子さんによると「支那風のお寺のような感じの家」だったという大雄山荘。

↑玄関入口両脇には 石の羊が↓。(この羊も 日記の中に出て来るんですよね。)

↓門の西から見たところー。


斜陽日記というのは 太宰さんの小説の元になった というだけではありません、 小田原市民にとっては戦中戦後の頃の小田原の様子が綴られた「資料」です。 ここからの眺め 交通の便 医療機関 色んな箇所で「へー」と言いながら読みましたよー。 (小説『斜陽』では 主人公かず子は伊豆に住んでる事になってますがー)))

そうそう、『斜陽』を書くため 昭和22年2月に 太宰は下曽我の大雄山荘を訪ね 静子さんから 日記(『斜陽日記』)、を受け取ります。 それは丁度村全体が咲き乱れ香る梅の花に包まれていた時期だったはず_。
 静子さんと太宰の間に生まれた娘 治子さんが 何だったかに、 梅の花の中で自分が生を受けたのかと思うと なんだか御伽噺のようにも思われる (ウロオボエですが こんな内容)と書いてらしたけど 
本当に大雄山荘の周囲には梅が多いんです。/ (以下も同じ2009年2月の写真)

(↑道の右が大雄山荘/すぐ隣が梅の畑ー/ ↓周辺)



(↑バックは曽我の丘陵地)

↓これは大雄山荘の北側の 城前寺(ジョウゼンジ)保育園の園舎。(『斜陽日記』が書かれた頃には 保育園はまだなかったようですね、お寺としか出てきませんから。)

園舎の壁には曽我兄弟が描かれています。

(↑左のお兄さんが「十郎」、右の弟が「五郎」。/ 歌舞伎だと色男の「助六」、になっちゃうのだけど 兄弟が曽我にいたのは子供の頃なのでー・・・)
↓階段脇には「曽我兄弟之遺跡」と彫られた石柱も。/城前寺は 兄弟の菩提寺なんですってー。(兄弟の墓の他 兄弟の母;満江と 養父;曽我祐信(スケノブ)の墓もここに。)

お邪魔します。

本堂。(因みにこちらは浄土宗のお寺だそうなので 御本尊様は阿弥陀様でしょうね?)

保育園の遊具。


境内には(仇討ちの)「発願之地」と彫られた石の上に建つ兄弟のブロンズ像もありました。

ちなみに曽我兄弟が育った曽我城(兄弟の母の 再婚相手;祐信の館)は この城前保育園の150m程東にあったようです。


ついでなので 同日撮った「うめまつり」会場付近の絵も貼ります。




(↑観光客向けにでしょうか 食用梅だけでなく 観賞用の鮮やかな色の梅が植えられたエリアもあるんですよー)
(↓でも ほとんどは 小田原の梅干しに使われる「十郎」、ですねー)



梅林の中に 色んなお店がテントを張っていましたが これもその一つ。/漆器の「石川」さん。

テントの横に ニック君(石川さんちのペット)もいました。 (私達 以前は「石川」さん近くに住んでいたので お散歩途中のニック君と 道で時々会う仲 だったんですよー)


~ こんなのが2009年2月、 だったのでございます。/ おしまい。