太子の没後(622年) 伯母にあたる推古天皇がここに墓守の堂を寄進したとされ、それが寺の始まりと考えられているそうです。(因みに太子が眠る古墳に 太子より一年先に葬られた用明天皇の后:間人皇女は 推古天皇の異母妹。/ ついでのおまけで 推古天皇の母:堅塩媛と 間人皇女の母:小姉君はともに蘇我稲目の娘の 姉妹。)

(↑御廟の「二天門」から南を眺めたところ)
(↓石段を下りてから二天門を見上げたところ。門の中にチラと御廟の唐破風が。)

更に724年、聖武天皇が東院+西院の伽藍を寄進した。そのうちの西院が現在の叡福寺である。~と 寺には伝わっているそうです。
(この話は正史には見えない~ んだそう。ですが、 太子の死後 その評価が高まった という事が示されていると思うんですよねー。)
↓参道西側に建つ聖霊殿(セイリョウデン)。/秀頼によって慶長年間に再建されたもので重文。

↓聖霊殿の南の金堂。

お堂の正面に「礼拝座」という石が据えられていて 面白く思いました。

正面の鐘の上に山号「磯長山」。

↓金堂の南に多宝塔。

1652年に再建されたもので、これも重文だそうです。

細いくびれが 「しゅっとしてて」美しい。

境内参道東側には 念仏堂 その南に立派な客殿がありました。

境内正面の門_南大門。

外側から見たところ。

両側を守る金剛力士達。


門に掲げられた扁額には「聖徳廟」の文字。

門の前から南を見たところ_。/駐車場の向こうを走っているのは美原太子線旧道。 谷の向こうの小山に建つお寺は「南向山 西方院」です。(銀杏の木の向こう、ですね)この後行ってみました。

↓石段を下りてから見上げた南大門。

↓道路の際に立つ石柱の文字は「聖徳皇太子磯長御廟」。

↓駐車場にあった境内図。

む~ん、 又 逆参りをしてしまいました^^;)
さて、続いては 道路を渡った所にあるお堂から見ていきますよ?