南向山 西方院 | おだわらぐらし

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縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

では「南向山(ナンコウザン) 西方院(サイホウイン)」へ伺ってみましょう。

でもその前に、叡福寺前の道を渡った所に建つ「隔夜堂(カクヤドウ)」。/ 堂内には石造阿弥陀如来坐像が安置されています。

(↑フレア+ゴーストでよく見えませんが 他にお堂を写した絵がないので・・・貼ります。)
↓お堂の横には 飛び出し坊やの太子。その奥側に_

「聖徳太子御乳母三尼公御廟所 西方院」と刻まれた石柱。

ハヤトチリして「おお 太子の三人の乳母が尼さんになったのか、で ここがその方達の御廟か」と と思ってしましたが、 この隔夜堂はWikiの西方院の頁に「周辺情報」として載っていました。。。/ つまり ここは尼様方とは関係なかったのでした^^;)

西方院は右の石段の上~。
行ってみましょう。

↓と、その前に もう一度振り返って_太子の「飛び出し坊や」(笏を持ち、ランドセルを背負った太子が 手を挙げて横断歩道を渡ろうとしている~ というシュールにして有難くもヒョウゲたデザイン)

↓+ 近くにあったマンホールの蓋。/「和を以って貴しと為す」という文字と 叡福寺の多宝塔が 二上山(フタカミヤマ or ニジョウザン)をバックに描かれています~。


改めての参道。

叡福寺の南大門前からもよく見えていた銀杏の木が 仰ぎ見る角度で再登場。


近づくまでわかりませんでしたが、石段手前には橋があり、その下を川(善秀寺川)が流れていました。 (川名はネットで調べたのですが 名の由来となったと思しきお寺は敏達天皇陵の西側で 別の川のほとりに建っているんですよ・・・ もしかしたらこの川名 違っているかもー)))

石段の先に丹塗りの門。

その手前から 振り返って見た 太子の陵墓。

(あっちから こっちがよく見えたように こっちからも あっちが よっく見えます。うん)

門を潜ると、右手に目指すお寺がありました。
<西方院 公式HP>

右の柱には「南向山 西方院」、左の柱には「新西國霊場第八番札所」の札。浄土宗のお寺で 御本尊様は阿弥陀如来と十一面観世音菩薩だそうです。

脇にあった説明板。

このお寺は 622年、聖徳太子御薨去の後、太子の御侍女_月益(蘇我馬子の娘)・日益(小野妹子の娘)・玉照(物部守屋の娘)の三姫が剃髪して太子御廟の前に一宇を建立して太子御作の阿弥陀如来尊像を安置したのが始まり~。なのだそうです。 (時に、石段下の石柱の「太子御乳母 三尼公」の乳母~ は寺に伝わる縁起では「侍女」なんですね?)
侍女は 剃髪後はそれぞれ善信・禅蔵・恵善と称されたといいます。 (別の物語では 善信尼は司馬達等(シバタツト)の娘で 出家の時期はもっと早い~ のですが、 ともかく) 日本で最初の尼として尊敬される善信らの物と伝わる墓石は 今もこの寺の南に守られているそうです。

さて 話は少しそれるのですが_
私 JR奈良駅の近くで「月日神社」という小さな神社を見かけた事があります。

この神社の御祭神は三座の女神。
 与止女神(ヨドヒメノカミ)(←神功皇后の妹との説あり。又、豊姫の事とも)
 旱珠神(カンズヒノカミ)
 満珠神(マンズツキノカミ)

益 蘇我馬子の娘 善信尼
益 小野妹子の娘 禅蔵尼
照 物部守屋の娘 恵善尼

これは_偶然でしょうか?


お参りさせて頂きましょう。
↓正面は本堂。/ 東に向いて建つお堂で、本尊は阿弥陀如来立像(伝聖徳太子作)

柱に掛かる板の文字は 「日本僧尼之始 上宮皇太子御侍女三尼公剃髪 常行念仏最初道場」。

↑手前の合掌像は 太子が二歳の春に 東に向かって南無佛と唱えたという逸話を形にしたいわゆる「南無仏二歳像」。
↓扁額。


本堂右手には南面して建つ 観音堂。本尊は十一面観音像(伝恵心僧都作)とか。


本堂の左手の小堂は_ 後でお寺のHPを見たところ 太子の遺髪を納めた「納骨堂」_ストゥーパに相当する建屋でした。(ちゃんと撮ればよかったよー)

南の塀の際にあった三体の石仏。(右二体はお地蔵様ですね? 左は?)


境内南西の角にあるのは引導鐘_納骨時に撞かれる鐘ですって。


ありがとうございました。退出いたします。


お寺のHPには 御本尊仏を始め 沢山の寺宝の写真が上げられています。是非お訪ねを。


続いては 敏達天皇 河内磯長中尾陵(太子西山古墳)へ行ってみましたー。